第15話 美しい世界よ
目を開けた。手の中の耳飾りをじっと見つめる。
一人でオーレオンへ嫁ぐロルブルーミアのために、お守りとして持たせてくれた。いつでもそばにいると、遠く離れていても、近くで見守っていると。
言葉通り、ロルブルーミアにとってこの耳飾りは、父親をはじめとした家族の思い出に結びつく。すぐ近くにいてくれるように思えた。
家族はずっと、ロルブルーミアを見守って寄り添ってくれた。
食事のできないロルブルーミアのために、自分たちは何も食べなくても問題はないのに、一緒に食卓に着いてくれた。
アドルムドラッツァールは、料理の腕を磨いて食事を振る舞ってくれるようになった。
光にあふれたような、幸い全てを詰め込んだような、食事の風景を覚えている。
焼きたての香りが漂うパンに、きれいな半月型の卵焼き。あざやかな赤がまぶしいスープには、野菜がたっぷり入っている。
脂の乗ったニシンの燻製に、トマトとチーズの盛り合わせ。硝子の果物皿には、桃や木苺、桜桃が乗っている。
父親が料理を始めた時は天変地異かと思っただとか、ルミアの前で好き嫌いを言うのはかっこわるいだとか、軽やかな冗談を交わしながら、みんなで食事をした。
魔王城の広々とした大食堂は、この上もなく明るかった。
光の満ちる場所。あの夜から連れ出してくれた、抱きしめて手を引いてずっと待っていてくれた。あんなにも明るいのは、どこまでも光を抱いているのは簡単な理由だ。
(お父さまとお兄さまとお姉さまがいてくれるからだわ)
あの時思ったことを、再度ロルブルーミアは心で唱える。
大事なものを知っている。守りたいものならずっと前からわかっている。大好きだった。やさしくいつでも見守っていてくれた、世界で一番ロルブルーミアを大事にしてくれた。大好きな母親を失った時から、ずっと思っている。
今度こそ、失いたくない。大切に、宝物のように抱きしめてくれる家族を。みんなと過ごしたあの場所を。わたくしの故郷を。今度こそ守りたい。
よみがえる思い出なら、いくらでもあった。
魔王城の畑や果樹園を父親と訪れて、一緒に恵みを収穫した。そのまま厨房へ向かい、ニンジンを酢漬けにして、ブドウは干しブドウへ。以前作った干しブドウを使って一緒にパンを作った。
竜のエッドレードリュトロンの鱗を磨いて、ぴかぴかにした。
ウィオヴィラーングに教わった歌を歌って、二人で即席の歌劇ごっこをした。
アルヴァープティウルは早朝の森を、背中に乗せて駆け抜けてくれた。
フラーロウルベンは「とっておきの場所だよ」と木の上までロルブルーミア連れて、日向ぼっこをした。
ラーグリージョレイスは本を片手に、千夜草を探しに森を歩いてくれた。
ブラオルーラーッドはおままごとの人形の家として、りっぱな屋敷を作った。
ウィリローロルデは、クマのぬいぐるみにつけるリボンについて、新しい染め方であざやかな色を出してくれた。
ルーゼットリンクは舞踏会の練習だと言って、いくつも踊りを教えてくれた。
光で満たされるような思い出は、あとからあとからあふれていくる。
大事にされていたのだ。魔力も武器も持たない人間の子供に対して、いつでも愛情を持って接してくれた。
兄や姉に聞いたことがある。どんな血のつながりもなく、種族さえも違うのに、どうしてそんなに大事にしてくれるのかと。
すると、面白そうに教えてくれたのだ。
初めて対面した時、あまりの小ささとか弱さに誰もが戸惑った。人間の子供なんて、接したことがなかったのだ。触れたら壊してしまいそうで、遠巻きにしていたこともある。
しかし、十年も生きていない小さな生き物は喜怒哀楽も豊かに日々を送っていた。
百年を超えて生きる自分たちとは違って、ほんの数十年しか生きられない生き物。
立派な爪も牙も魔力もないのに、体中の全てで世界に立ち向かっていく。その様子に興味を持つようになり、恐る恐る近づいた。
すると、小さくてか弱い生き物は、後ろをくっついて歩くようになった。名前を呼ぶと、目が合うと、ふわふわとした笑みを浮かべる。
胸の奥があたたかくなって嬉しくなって、気づけば末の妹として誰もがかわいがるようになっていた。
だって、こんなにも小さくていじましい生き物が、真っ直ぐとした信頼と愛情を向けてくれるのだ。
一片の曇りもなく、心を広げて大好きだと伝えるのだ。かわいいと思わないわけがない、と力強く言った。
それに、魔王の子供たちは、マリリアフェルヴェルのことも好きだった。
魔族において一夫多妻制は珍しくないし、養育は父親が負うのが一般的だ。母親と仲が悪いわけではないものの、一緒に暮らした時間はほとんどない。
だから、間近で見る「母親」というものが興味深かったし、マリリアフェルヴェルは魔族を恐れることはなかった。
たおやかでやさしい人だった。しかし、魔王との結婚を決意する胆力があるのだ。魔族の子供たちのことも、にこやかな笑顔でかわいがってくれたのだ。
それらは全て、理不尽に奪われた。だからこそ、遺されたロルブルーミアをこれまで以上に大事にして、めいっぱいに甘やかそうと決めたのだ。
小さくか弱い体で恐怖に立ち向かい、世界を諦めず今日を迎えた。
マリリアフェルヴェルができなかった分まで、かわいい末の妹を、めっぽう大切にするのだ。その決意を、ロルブルーミアに教えてくれた。
リッシュグリーデンドで過ごした日々は、思い出すだけで胸に明かりが灯っていく。
天然の岩山を基礎として作られた魔王城。迷路のような城で、姉兄そろってかくれんぼをした。
奥まった場所にある空中庭園では、ルーゼットリンクの花壇やロルブルーミアの薬草園、畑や果樹園もあった。
事件以降は誘拐を警戒して、街へ下りることはほとんどなかったけれど、城から見る城下町はにぎわいにあふれていた。
直接国民と顔を合わせたことはほとんどなくても、魔王や皇子・皇女の評判は聞こえてくる。
尊敬の念を抱き、王族として敬愛されていることが誇らしかった。
表には出てこない末の皇女さえも、人間であると知っていても受け入れてくれたのは、魔王への信頼に他ならない。
思い出なら、国中の至るところにあった。
きらきらと光を弾く海や、風にやわらかくなでられる草原、しんとした静けさを持つ森の空気。
兄や姉に連れられた場所で見た光景を、あの時感じた匂いを、風を、ずっと覚えている。
落ちていく夕焼けのあざやかさも、澄んだ星のきらめきも、耳を打つ雨垂れの音も、かぐわしい花の香りも、何もかも。
いつだって取り出せる。ロルブルーミアにとってリッシュグリーデンドという故郷は、美しい光景をいくつも抱えた宝箱だ。
魔王城の庭の木陰で、マリリアフェルヴェルが笑顔で座っている。ロルブルーミアはそんな母親のために、花冠を作ろうと思ってアドルムドラッツァールとどんな花がいいか話している。
すると、ルーゼットリンクが花のことなら任せて、と話に加わる。手先が器用なブラオルーラーッドが自分も作りたいとやってきて、ウィリローロルデは新しい編み方を考えてみたんだ、と提案する。
木陰のマリリアフェルヴェルへウィオヴィラーングは飲み物を持ってきて、ラーグリージョレイスはこの前読んだ本について感想を尋ねる。
アルヴァープティウルは隣で丸くなって休息を取り始め、フラーロウルベンは空から下りてきて見えたものについて楽しそうに話をする。
エッドレードリュトロンは、強くなってきた陽射しから全てを守るように、大きな翼で陰を作って時折風を送っていた。
きらきらと、光を弾くような光景を知っている。たとえそれが失われたものだとしても、どれほどまでに美しかったのかロルブルーミアは覚えている。
だからこそ、もう二度と失いたくないという決意が強固になるのだ。
家族を思い出したことで、ロルブルーミアの心はしんと落ち着いていた。
さっきまでの混乱はすでになく、瞳には冷静さと強い意志が宿っている。自分の立ち位置を、己が為すべきことをロルブルーミアは確認する。
ここはもう、リッシュグリーデンドではない。ロルブルーミアはオーレオン王国へ嫁いだのだ。
ここで国のために、大事な家族を守るために、やるべきことをしなくてはならない。そのために、今回の結婚を必ずや成功させなくてはならない。
魔王の魔力減退は、着実に進んでいる。家族や側近たちが穴を埋めることで、今までと変わらない状況を保っているものの、永遠に続けられるわけがなかった。
小康状態を保っているとはいえ、原因はわからない。減少を止められているわけではないのだ。このままでは、いずれ魔王は倒れる。
そうなれば、帝国全土から
さらに、他国からの侵入を防ぐ結界は用をなさなくなるのだ。攻め込むのはたやすく、攻撃を受ければ瞬く間にリッシュグリーデンドは戦火に包まれる。
現状、その相手として最も可能性が高いのは、長年の遺恨を抱えるオーレオン王国である。
魔王が斃れ、リッシュグリーデンドが混乱に陥った時。国を守るための抑止力となるのが、ロルブルーミアの使命だ。
たとえ表面上だけだったとしても婚姻関係を結んでしまえば、簡単に裏切ることはできない。細い糸だとしても、結びつきを持たなければならない。
そして、少しずつ魔族は決して恐ろしいものではないと伝えるのだ。
こんなにもか弱い人間でも、大事にしてくれたのだと。今日まで大切に育ててくれたのだと、オーレオンで自分自身が証明するのだ。
リッシュグリーデンドという、美しい故郷を守るために。父親や兄や姉が、身を捧げると決めた故国を同様に守るために。
戦争の火種は消し去って、万が一のことが起きたとしても抑止力として役に立つ。
家族が大事にする国を、ロルブルーミアを人間の子供として虐げることもなく、王族の一員として迎え入れてくれた国民を、宝物を抱くふるさとを、守ることこそが今日まで皇女として生きてきたロルブルーミアの役目だ。
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