第14話 夜にくるむ②

 アドルムドラッツァールがどれほどまでにマリリアフェルヴェルを大事にしていたか。心の全てを傾けていたか。一番近くで見ていたロルブルーミアだからこそ、痛いほどに知っていた。


 だから、現実を理解して母親と二度と会えない悲しみに引き裂かれそうになったあと、思ったのだ。


 ――お父さまからお母さまを奪ったのは、わたしだわ。


 最期の瞬間は、ロルブルーミアの頭にこびりついて離れない。迫ってくる短剣に母親を呼んだ。ただ声がこぼれ落ちた。あの時、自分が呼ばなければ。すがってしまわなければ。母は自分をかばうことなんてしなかったかもしれない。短剣との間に体を投げ出すことなんて、心臓を貫かれることなんて、なかったかもしれない。そしたらきっと、ここには自分ではなく母親がいた。


 父親から最愛の人を奪ったのは、他ならない自分なのだとロルブルーミアは知っていた。だからこそ、これ以上負担になりたくなかった。迷惑を掛けたくなかった。いい子でいたかった。母親を奪った原因だとしても、せめてもう、これ以上何も奪いたくなかった。だってそうしなければ、これ以上悪い子になってしまったら、せめて少しでもいい子でいなければ。


 ――要らないって捨てられてしまう。


 恐ろしいものだらけの世界に、ただ一人で放り出される。手をつないでくれなくてもいい。ずっと近くにいてくれなくてもいい。それでも、名前を呼ぶことは。姿を見つけて駆け寄ることは。ときどき会話を交わすことは。どうか許してほしかった。


 だから、要らないのだと捨てられてしまわないように、負担にならないように、聞き分けのいい子でいるように、「一人で大丈夫」と伝えるのだ。一人だって眠れる。これ以上、父親の負担にはならない。時間も奪わない。迷惑にならない。もっとちゃんといい子でいる。だからどうか、捨てないで。


「お父さまは、部屋でお休みになって。わたしはもう大丈夫ですもの」


 全ての気持ちを抑え込んで、笑みを浮かべてロルブルーミアは告げる。どんな迷惑もかけない、いい子でいるために。これまで奪ってきた時間を返さなくてはいけない。


 アドルムドラッツァールはロルブルーミアの言葉に、しばし沈黙を流す。赤く輝く瞳で、じっとロルブルーミアを見つめた。心の奥まで見透かすような、全てを明るみにさらけ出すような強いまなざし。ロルブルーミアは笑顔を保ったまま、ただにこにことまなざしを受け止めていた。


「――そうか」


 長い沈黙のあと、アドルムドラッツァールは大きく息を吐き出した。それから、ゆっくり左手を動かす。大きな手で、ロルブルーミアの頭を撫でた。


「だが、この部屋の方が仕事は捗るのだ。ここは他の部屋と比べて、ずいぶんくつろげるようでな。休息もしっかり取れるうえ、ルミアの寝顔を見ていると意欲も高まる。できれば、もう少しここに滞在したいと思っているのだ」

「でも――」


 これが父親のやさしさから来る言葉であることは、ロルブルーミアとて理解している。どう考えても、この部屋にいる限り使える時間は圧倒的に短い。やるべきことをこなすのに、時間は足りないに決まっているのに。


 ロルブルーミアが本調子でないことくらい、当然わかっているからだろう。満足に食事も取れず、夜も満足に眠れていない。そんな幼子を一人にできるわけがないという判断は妥当だ。


「私がここにいたいのだ。お前がやさしさから言っていることはわかっているが、ルミアを一人にしたくないというワガママに付き合ってくれまいか。お前のことが心配なのだ」


 目を細めたアドルムドラッツァールは、笑みを浮かべて言った。小さな頭をゆっくり撫でて、一つずつの感触をここに生きているという事実を確かめるような素振りで。おだやかでやさしくて、痛ましい表情で、ささやくように続ける。


「それに、本調子でないルミアを一人にするのかと、マリアに怒られてしまうからな」


 告げられた言葉に、ロルブルーミアは弾かれたように体を震わせる。アドルムドラッツァールは頭を撫でる手を止めた。ゆっくり外して、やさしい微笑で言う。


「マリアはいつでもやさしくおだやかだったが、ルミアに関しては別だった。危ない所へ連れ出すなと、何度怒られたか」


 楽しそうな雰囲気を漂わせて言うのは、城で暮らしていた頃の思い出だ。時間を見つけては、母娘に会いに来るアドルムドラッツァールはロルブルーミアとも親交を深めていた。その過程で、ロルブルーミアが「一人で行ってはいけない」と言われていた森の奥へ出掛けた。アドルムドラッツァールがついていれば怖いものはないはずだったけれど、崖の下まで花を取りに行ったと知らされたマリリアフェルヴェルは、帰ってきた二人へこんこんと説教をしたのだ。


 城へ迎え入れられてからも、ちょっとばかりおてんばなことをロルブルーミアがして、アドルムドラッツァールも止めずに見守っていることが判明しては怒られていた。危ないことをしないように、という願いからの言葉であることはわかっていた。健やかに憂いなく過ごしてほしいという祈りだった。


 だから、今のロルブルーミアの様子を知っていればマリリアフェルヴェルは、決して一人になんてしない。ずっと近くで看病するに決まっているし、アドルムドラッツァールにだってそう言う。


 確信しきった態度で告げられて、ロルブルーミアの瞳が揺れる。その姿は簡単に想像できた。きっと母親ならそうするのだと、疑いなく思えた。


「マリアの代わりにはならないが――マリアの宝物を、私にもどうか大切にさせてほしいのだ」


 ロルブルーミアの瞳をのぞき込むようにして、心からの言葉が紡がれる。どんな反応をすればいいかわからなくて、ロルブルーミアはきゅっと唇を結んだ。


 そんな風に言われることが嬉しかった。大切にしたいと言われたこと、母親と同じ気持ちでいてくれたこと。嘘やおためごかしは言わないと知っているから、これは紛れもない本心だとわかっている。だけれど、だからこそ。


 思い浮かぶのは、抱きしめてくれた笑顔。まばたきをしない青い瞳。自分のせいで死んでしまった。自分がいなければ、きっとここにいてくれた。それを奪ったのは、他ならない自分だ。わかっているから、言葉は勝手に唇からこぼれた。


「だめ、だめだわ。わたしは悪い子だもの。わたしのせいで、お母さまは、し、しんで、しまったのに。だめなの、わたしは悪い子だから、そんなこと言ってもらったらだめなのよ」


 揺れる瞳で、熱に浮かされる響きでぼろぼろと言葉を吐き出した。本当は、この場所は自分のものじゃないのに。それでも、ここ以外に安全な場所がわからない。だからどうにかしがみつきたい。そのためには、いい子でいなくてはいけない。もう取り返しがつかないとしても、せめてもうこれ以上負担をかけてはいけない。こんなやさしい言葉を掛けてもらってはいけない。


「もっと、いい子になるから、だから、平気なの。わたしは、いい子でいるから、一人でも大丈夫だわ」


 あえぐように言うと、アドルムドラッツァールが動いた。ロルブルーミアの体に手を伸ばすと、軽々と抱き上げたのだ。小さな体躯を腕の中に抱き寄せると、ささやくように言った。どんな威圧的な響きもない。普段の命令に慣れきったものとはまるで違う、包み込むような響き。


「いいんだ、ルミア」


 胸の中にロルブルーミアを抱きしめると、そっと言った。やわらかな温もりが、頼もしい腕が、何もかもから守るようにロルブルーミアを包む。


「お前は充分いい子だ。だが、たとえルミアがいい子でなくてもいい。だめでも、迷惑をかけても、とびきりの悪いことをしたとしても、それでもいい。お前がお前であるのなら、大事にする理由には充分だ」


 そう言って、背中をそっと撫でた。大きな手のひらで、壊れ物に触れるように、繊細な手つきで。心からの慈しみを込めた指先で。


「ただ、お前を大切にさせてくれ」


 痛切な祈りだ。心からの願いだ。嘘偽りない本音だとわかってしまうから、ロルブルーミアはどう反応すればいいかわからない。アドルムドラッツァールが本心から言っていることはわかっている。それでも、こんなに都合のいい言葉を受け取っていいのかわからない。


 戸惑いのまま、ロルブルーミアは沈黙を流す。うなずきたい。うなずいてはいけない。答えたい。何を言えばいいかわからない。相反する気持ちのまま無言でいると、アドルムドラッツァールがそっと顔をのぞきこんで尋ねた。


「それとも、こんな不甲斐ない父親では心もとないか」

「そんなこと――!」


 反射的に答えて、ぶんぶん首を横に振った。そんなこと、ひとかけらも思っていない。父親の傍は世界で一番安全な場所だ。ここ以上に安心できる場所など、どこにも存在しないだろう。だからそう言うと、アドルムドラッツァールは静かに笑みを浮かべた。


「そうか。それなら、ルミアは黙って私に大事にされているといい」


 自信に満ちた言葉だった。至極当然の答えなのだと、何一つ疑う余地のない結論だと、確信しきった響きだ。それでも、ロルブルーミアは困惑の色を隠し切れない。父親を疑っているわけではなく、ただ不安だった。だから、おずおずと問いかける。


「本当に――わたしはここにいていいの」


 小さく問いかけられた言葉に、アドルムドラッツァールは一瞬目を丸くする。しかし、すぐに笑みを浮かべると力強く答えた。


「無論だ、何を迷うことがある。お前は私の娘だ。私の娘がここにいて、どこにおかしいことがある。そうだろう?」


 何一つ疑う余地はないと告げられた言葉だ。心から言っていることを、ロルブルーミアは体の全てで感じ取る。声が、まなざしが、抱える腕が、伝わる体温が、何よりも告げている。だからロルブルーミアはこくりとうなずいた。

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