第13話 夜にくるむ①
「――お父さま」
夜も深まり、こうこうと明かりのついた部屋。ベッドに腰かけたロルブルーミアは、そっと呼びかける。
第三皇子のブラオルーラーッドと第四皇女であるウィリローロルデが作ってくれた、ふわふわの大きなクマのぬいぐるみを抱えながら。
声が向かうのは、部屋に持ち込まれた執務机で書類に目を通している魔王――アドルムドラッツァールである。
ごつごつとした
しかし、今執務机に座っているのは、筋骨隆々とした体に豊かな黒髪をきれいに撫でつけた、五十代程度の人間である。
ハリのある肌には年相応のしわを持ち、燃えるような赤い瞳が輝く。男らしさに、確かな年月を重ねた者の持つ深みを宿して、底知れなさを醸し出す。
これはアドルムドラッツァールが魔力によって人間に姿を変えたものだ。
誘拐事件によって、ロルブルーミアは心に大きな傷を負った。
命を落とす前に助け出されたものの、何もかもが恐ろしくて家族のことすら拒絶し続けていた。
半狂乱で暴れ回り、ベッドの下に入り込んで、何日経っても出てこない。食べることも拒絶し、トイレにも行けない。
そんなロルブルーミアに対して、父親をはじめとした家族は時間をかけて向き合ってくれた。
特にアドルムドラッツァールは、魔力で押さえつけてしまえばいいという言葉に首を振り、ただそばにいることを選んだ。ロルブルーミアの心が悲鳴を上げているなら、全てを受け止めると決めたのだ。
魔力で簡単に拘束するのではなく、痛みも恐怖も苦痛も悲しみもどんな小細工も用いず受け止めるのが、父親としての役割だと言って。ただ近くで見守って「ルミア」と名前を呼んで、小さな体を抱きしめた。
そうして、少しずつ落ち着きを取り戻したロルブルーミアは、日常生活を緩やかに取り戻していった。
とはいえ、心にはまだ深い影を落とす。あの廃墟の夜の出来事は、ロルブルーミアの脳裏にこびりついて離れない。
だからなのだろう。角や牙を持ち、人間とは違う容姿を持つ姿に怯えるのだ。頭では、何も関係がないとわかっていても、心がいまだに拒否を示す。
それならば、姿を変えればいいと判断した。人間の形の方が怯えないというのなら、そうするまでだった。だから魔王本来の姿ではなく、人間に変化してずっと過ごしている。
アドルムドラッツァールはロルブルーミアの言葉に顔を上げると、書類を置いた。ゆっくりした足取りで、ベッドまで歩いてくる。
「どうした、ルミア。眠くなったか」
ロルブルーミアの近くに座り、やさしく声をかける。
魔族にとって夜はまだまだこれからで、仕事が進む時間帯だ。しかし、幼い人間の少女にとってはちょうどいい就寝時間だとわかっていた。
ロルブルーミアは、父親の言葉に「そうですけれど、そうじゃなくて……」と歯切れ悪く答えた。
その様子に、アドルムドラッツァールは思案を浮かべてから口を開く。
兄や姉たちに会いたいと思っているのではないか、と考えたのだ。ただ、夜も遅いこともあるし、何より全員が人間化できるわけではない。
現在、部屋へ入ることができるのは、第一皇子エッドレードリュトロン、第一皇女ウィオヴィラーングのみで、それ以外は鋭意練習中なのだ。
「そろそろ、フラーとラーグは成功しそうだが……アルヴァは苦戦しているな。ブラオとウィリーとルーゼは魔力量がそもそも不安定でな……ただ、全員ルミアに会いたいと毎日練習に明け暮れているぞ」
協調性より我が道を行く性格の方が多いのが、皇子と皇女である。勉強熱心かというと気まぐれで、人間への変化など必要に迫られなければやる気にもならないだろう。
人間になる意味は特になかったので、優先順位は限りなく低かったはずだ。しかし、今はこれまでにないほど熱心に、毎日人間変化の練習を繰り広げていた。
ロルブルーミアは、クマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、「お兄さまとお姉さまに会いたいです」とつぶやく。
以前のように、何も気にすることなく姉や兄と過ごす日々が恋しかった。しかし、ロルブルーミアの傷はまだ癒えていないし、何もかもが元通りとは言えないのだ。
まだ食事は満足に取れておらず、夜も眠れてはいない。体力は戻っておらず、兄や姉と長時間過ごすことは体に負荷がかかるだろう。
「体のためにも、そろそろ寝た方がいい。準備ができたなら、私も床に入ろう」
落ち着いた声音で告げられた言葉に、ロルブルーミアがぴくりと反応した。
ロルブルーミアは過去を思い出して悪夢を見ることが多い。だから、アドルムドラッツァールは同じベッドで一緒に眠ってくれる。
怖くて飛び起きても、暗闇に捕まりそうになっても、すぐ近くにいるのだと体の全てで伝えるために。
ロルブルーミアは、抱えていたクマのぬいぐるみをそっとベッドに置いた。それから、隣に座るアドルムドラッツァールの大きな右手に自分の手を重ねた。
ロルブルーミアの手では、とうてい全てを包むこともできない。人間化したことで皮膚の色は変わったけれど、大きさや温もりは魔族の姿の時から何一つ変わらない。
何度も手をつないでくれたことを思い出しながら、ロルブルーミアは口を開く。
「わたしなら、大丈夫ですわ。もう一人でも眠れます。だから、お父さまはご自分の部屋に戻って大丈夫ですわ」
アドルムドラッツァールはずっと、ロルブルーミアの部屋で仕事をして、夜には隣に寄り添って眠るまで見守っていてくれる。
しかし、本来ならばそんな時間はとうてい取れるはずがない。
事件が起きる前、時間を見つけては家族との時間を取ってくれたものの、忙しくあちこちを飛び回っていることをロルブルーミアは知っていた。
だから今、ほとんど一日中傍にいてくれることが、どれほど例外的なことかもわかっていた。恐らく、多くの苦労や手間を掛けて、この時間が確保されている。
ロルブルーミアの傍にいるために。ロルブルーミアが日常生活を送れないために。
ずっと甘えてきてしまったのだ。つないでくれる手に、抱きしめてくれる腕に、恐ろしくて叫び出しても悪夢を見ても、大丈夫だと伝えてくれる父親に。
手を伸ばしたらすぐ傍にいてくれるという安心を手放したくなくて、自分の傍につなぎとめておきたかった。だけれど。
「そろそろ、一人で眠る練習もしなくてはと思っていましたの」
にっこり笑って、ロルブルーミアは言った。唇を引き上げて、目を細めて、白い歯をこぼして。ドキドキと鳴る心臓の音は無視しして、精一杯の笑顔で言った。
これ以上自分の勝手で父親を独り占めしてはいけないのだ。
こんな風に一日近くにいてくれるために、どれだけの犠牲を払っているのか。本来なら必要ではない手間を掛けさせて、無理を強いているのは間違いない。
自分の存在が迷惑になっていることは察していた。それでも、怖くてずっと手を握っていたかった。ワガママでずっとつなぎとめてきた。
だからもう、手を放さなくてはいけない。これ以上迷惑を掛けてはいけない。
今からではもう遅いのかもしれないけれど、それでも、少しでもいい子にならなければいけないとロルブルーミアは思っている。
――だって、わたしのせいで、お母さまはいなくなった。
今の自分は、家族に何一つ返せない。それどころか奪うだけだ。時間も手間も何もかもかすめ取っていくしかできないし、何より一番大事なものを奪ってしまったことを知っている。
アドルムドラッツァールの体躯は大きい。
ロルブルーミアは首が痛くなるほど見上げなければいけなかったし、がっしりした成人男性でさえ隣に並ぶと貧相に見えた。
そんなアドルムドラッツァールは母親を前にすると、すぐに膝をついて体をできる限り小さくする。視線が合うよう、怖がらせないようにという配慮だ。
ロルブルーミアにそっとささやきかけて、「マリアはこの花が好きだろうか」と気にしていたことを知っている。
小さな家を訪ねてきて、母親がお茶の用意をしている間、そわそわしながらロルブルーミアに持ってきた花を見せるのだ。
豪華な花を置くところはないから、一輪いただければ嬉しいわ、という言葉に従ってアドルムドラッツァールは毎回自分で摘んで来た花を持参する。
そんな時のアドルムドラッツァールは、まるで試験の採点を待つような雰囲気を漂わせている。
気に入らない花を用意してしまったのではないか、何か失敗をしてしまうかもしれない、と不安でいっぱいなのだ。
当初こそ威容に怯えていたロルブルーミアも、その頃にはアドルムドラッツァールに対して、持ってくる花の助言をするようになっていた。
もらった花を母親が押し花にしているのを知っていたこともあったし、アドルムドラッツァールがあまりにも不安そうで助けてやりたくなったのだ。
二人して花畑で野の花を摘むこともあったし、花冠の作り方を教えたのはロルブルーミアだ。いびつな形の花冠を、母親は「世界で一つの冠なんて、嬉しいわ」とにこにこ笑っていた。
結婚してからも、アドルムドラッツァールは何度も花を贈った。
一度どうしていつも花なのか、と聞いたことがある。アドルムドラッツァールは静かにおだやかに、「マリアに会うたび、声を聞くたび、話をするたび、花が咲くからだ」と教えてくれた。
現実的な話ではない。ただ、一目見るだけで声を聞くだけで、会話を交わすだけで、心にはいくつもの花が咲き乱れる。
あざやかに、色とりどりに、何もかもが美しく塗り替えられるのだ。
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