第2章 さらば扉は開かれん
第11話 月下の深淵
※この話には暴力的・残酷な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
割れた窓からのぞく、大きな月。
ゆらゆら揺れる
ささくれた木の床は腐りかかって、かび臭い。目の前をドブネズミがちろちろと駆け抜ける。
ロルブルーミアは、仰向けのまま体を押さえつけられて、身動きが取れない。
「やはり、ここはまず目玉からくりぬきたいがどうか」
「オレはどこでもいいけど、とりあえず腕――それか指の一本くらい分けろよ」
ロルブルーミアの両腕をまとめて押さえつけている土くれのゴーレムが言えば、蛇の獣人はちろちろ舌を動かして答える。
ゴーレムの赤茶けた土の体は岩のように重い。蛇の獣人は、ぎょろりと目を光らせて、楽しそうに笑っている。
「そうですな。まずは、腹を裂くのはいかがでしょう。じわじわと恐怖を味わわせていくこともまた一興かと」
思案してから口を開いたのは紳士めいた服装の小鬼で、落ち着いた表情で提案を告げた。片目では、恐怖の表情も精彩に欠けるだろうから、両目がそろった状態であらゆる限りの暴虐を尽くすべきだと言うのだ。
かたかたと震えながら、どうにか逃げ出そうとするけれど、いずれも無駄な抵抗でしかない。まだ幼いロルブルーミアの力など、どんな威力もなかった。
恐怖のまま固まっていると、不意に声が響く。
「何をしても構いませんが、すぐに殺してはいけませんよ。愛娘がいたぶられるところを、しかと見届けていただかなくてはなりませんからね」
声の主は、金色の髪につややかな黒い角を持つ悪魔の青年だ。
肌は白く、細められた瞳は夜のように黒い。人形のように整った面立ちをしている。
青年は優雅な口調で言いながら、引きずってきた女性を床の上に転がした。ロルブルーミアの母親であるマリリアフェルヴェルだ。
口に布をくわえさせられて、声を発することはできない。波打つ栗色の髪は乱れて、深く濃い青の瞳は暗く陰る。
それでも、ロルブルーミアを認めた瞬間やわらかく目を細めた。安心させるように、何も怖いことはないというように。
それに気づいているのか、いないのか。悪魔の青年は、しゃがみ込むと、マリリアフェルヴェルの腕を後ろでまとめあげて、うやうやしいまでの態度で語りかける。
「たかが人間の分際で、魔王さまの伴侶を名乗るなどおこがましい。身の程知らずの人間には、僕たちが手をくださなければならない。あなたの娘は、あなたのせいで死ぬのです。おわかりでしょう、マリアさま」
現在彼女はマリリアフェルヴェルと名乗っているし、それが正式な名前だ。ロルブルーミアも同様で、本来の名前である「ルミア」は王家に迎え入れられる際にあらためている。
しかし、青年が呼びかけたのは、ただの人間だった頃の名前だ。
人間であるマリリアフェルヴェルやロルブルーミアを、快く思わない存在は知っていた。魔力もない弱い人間を王家へ入れるなど言語道断の行為だというのだ。
くわえて、ロルブルーミアは魔王の血すら引いていない。そんな子供が王家へ名を連ねるなど、長い歴史の
魔王である父親の圧倒的な一声と、
長い間魔王を支えてきた重臣たちも、人間である母娘を蔑ろにすることなく、他の王族と変わらず敬ってくれた。
しかし、誰もが賛成の立場でないことはわかっていた。
民衆たちから
これがその答えだ。父親や兄姉によって、厳重に守られて遠ざけられてきただけで、悪意は順調に育っていた。いつか牙を剥く時を待って、今ようやく訪れた。王家にふさわしくない人間の母娘を排除し抹殺する瞬間を待っていた。
もうすぐ七歳を迎えるロルブルーミアのため、誕生日祝いが計画されていた。そのお返しのために、みんなに内緒で花冠を作ろうと思った。
だから、家族には秘密で母親と郊外の花畑へ行こうとした。いつもと違う馬車を用意したのは、ここにいる蛇の獣人だ。
侍従長の知り合いとして働いており、顔見知りだった。だから、警戒もせず乗り込んだ。それからしばらく進んでいたところ、突然眠気に襲われて寝入ってしまったのだ。次に目が覚めた時には、この場所で体を押さえつけられていた。
ロルブルーミアは震える唇を開く。一体何をどうすればいいのかわからない。体は動かず、ここから逃れることもできない。もう今のロルブルーミアにできることは、一つだけだ。
「――おかあさま」
声がこぼれるのと同時に、マリリアフェルヴェルがぴくりと反応する。布の向こうで「ルミア」と呼んだ声は、上手く形にならなかった。
その間、ゴーレムと蛇の獣人は、どんな風に解体を進めるか話しているし、小鬼と悪魔の青年は、使命感にあふれた顔でこれからの行動を確認していた。
いつの間に取り出したのか、彼らの隣には拳大ほどの水晶が浮いている。特別な魔力を込めた記録水晶だ。これから起こる全てを克明に記録するつもりらしい。
人間が魔王の近くに存在する罪を暴き、どれほど
動けないロルブルーミアは、ただ母親を見つめていた。
マリリアフェルヴェルは必死で体をよじらせて、どうにか拘束を抜けようともがいている。しかし、悪魔の青年がそれを許すはずはない。
思い切り殴りつけると、マリリアフェルヴェルの体から力が抜けた。
静かに床に倒れ伏す様子は、幼い心に恐怖を刻み付けるには充分だった。
こんな風に動かなくなる。人形みたいに。物みたいに扱われる。これから起こる出来事を、まざまざと思い知らされる。
だから、もうほとんど恐慌状態で、ロルブルーミアの唇から声は勝手にこぼれ落ちた。
「おかあさま」
ロルブルーミアは母親を呼んだ。腐った木の床に縫い留められながら、それしか知らないように。
マリリアフェルヴェルは、何か反応したのかもしれない。しかし、ロルブルーミアにはわからない。
「――おかあさま」
かぼそい声で、それだけ絞り出した。
物心ついた時に父親はいなかった。小さな家で肩を寄せ合って暮らしていた。
小さなパンを切り分けて、どうにか日々をしのぐ毎日。母親が魔王城で働き始めて、食べられるものが増えた。早く大きくなって、母親を楽にさせたかった。
魔王アドルムドラッツァールのことを聞かされた時は、母親が騙されているのだと思った。
しかし、
母親の手料理に喜んで、「どの料理が一番好きか」なんて話でロルブルーミアと盛り上がった。
一度は結婚を断ったことも知っている。しかし、アドルムドラッツァールは諦めなかったしロルブルーミアに対して母親への気持ちを懸命に説明した。
母親がアドルムドラッツァールのことを好きだなんてこと、ロルブルーミアはとっくに気づいていた。
幼い娘の存在が邪魔になるのだとわかっていたから、自分がどこか別の家へ行けばいいのだと思った。母親が幸せになるなら、それでよかったのだ。だから、結婚にうなずいた。
しかし、ロルブルーミアの予想に反して、母親と共に王族へと迎え入れられることになる。
想像していなかった日々だったけれど、結婚式のドレスをまとう母親は信じられないくらいきれいで幸せそうだったから、選択は間違っていなかったのだと何度も思ったのだ。
どんな時でも、母親はやさしかった。
怖いことがあっても、抱きしめてくれたら怖さなんて消えてなくなってしまった。頭を撫でてもらえたら、近くにくっついていれば、怖いものなんて何もなかった。
だから、口にする言葉は一つだけだ。
「おかあさま」
懇願するような声がこぼれるのと、ほとんど同時にゴーレムが動いた。いつの間に取り出したのか、短剣を手に持っている。刃が月の光を弾く。高く頭上に掲げると、一直線に短剣を振り下ろした。
襲い来るだろう痛みに、ロルブルーミアはぎゅっと目を閉じた。
しかし、やってくるはずの痛みも衝撃もない。それどころか、ふわりとした感触に体を包まれて、ロルブルーミアは恐る恐る目を開けた。
「――おかあさま?」
まつげのぶつかりそうな距離にあったのは、何度も見てきた大好きな顔。
ロルブルーミアの瞳よりも濃い色の青い目。栗色の髪はやわらかで、指を絡めて遊ぶのが好きだった。
マリリアフェルヴェルが、ロルブルーミアを抱きしめていた。
あたたかな体温が、触れ合う肌から伝わる。
マリリアフェルヴェルはにっこり笑っていた。いつだってやさしくて、あたたかい。
悪い夢を見たあとで布団に潜り込むと「大丈夫よ、ルミア」と言って抱きしめてくれた時と同じだった。
だから、ああこれはみんな悪い夢なんだ、とロルブルーミアは思った。ここはきっと、ベッドのうえ。全部全部嘘なんだわ。
そう思ったのに。
「お前、逃げられてんじゃねーぞっ」
「意識を失っていたのが演技だと思わなかったんですよ」
「こいつを刺すのは、まだ先の予定だったが……計画を狂わせるな」
獣の獣人が叫び、悪魔の青年が言い訳がましく答える。さらにゴーレムが不満そうにつぶやいて、ロルブルーミアは体をこわばらせる。
マリリアフェルヴェルは、覆いかぶさるようにロルブルーミアを抱きしめている。どうやって? どんな風に? 簡単だ。振り下ろされた刃と娘の間に身を躍らせた。悪魔の青年の隙をついて、体の全てで娘を抱きしめたのだ。
つまり、それは、今、おかあさまは。考えたくなくて、拒絶したくて、しかし耳に飛び込む声がそれを許さない。
「ああ、なんてことだ! これは心臓にまで到達している」
マリリアフェルヴェルの様子を観察していたらしい小鬼が叫ぶ。悪魔の青年も忌々しげに「くそ、背中から一突きじゃないか」とつぶやいた。
「はは、殺すなとか言ってたくせになぁ」
「もう死んだなら、用はないだろう」
交わされる言葉の意味が、上手く頭に染み込まなかった。
心臓に。背中から一突き。殺すな。もう死んだ。
信じたくなかった。だって、抱きしめてくれているのだ。こんなに近くで、体の全てで抱きしめていてくれるのだ。いつもと変わらず、やわらかな笑顔で。
だからきっと、すぐにやさしく名前を呼んでくれる。「怖い夢を見たのね」と言って、頭をなでてくれる。
そう思うのと同じくらい、奥底で理解していた。
まつげがぶつかるほどの距離にある、大好きな顔。ロルブルーミアの瞳より濃い青。「ルミアが空の色なら、私は海の色かしら」と言っていた。
その瞳は、一度もまばたきをしていなかった。
何もわからなかった。急速に全てが遠ざかっていくのを感じる。
視界が暗い。わからない。目の前で起きたことは。こんな悪夢みたいな出来事は。きっと全部嘘だ。みんな夢だ。目を開けたら、きっとまた、おかあさまは笑ってくれる。
何もかもが遠ざかる。交わされる声も、縫い留められた体も、たった今目の前で起きた出来事も。何もわからない。
虚ろな瞳で、ロルブルーミアは抱きしめる体だけを感じている。
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