第1章 鳥籠の花嫁

第1話 食卓は温もりを知らない

 食堂には、重苦しい沈黙が流れている。

 ロルブルーミアとリファイアードは長机の端と端に座ったまま、一切言葉を交わすことはない。

 ただ食事を口に運ぶ作業を続けているだけで、栄養補給以外の意味は何一つ見出せない時間だった。


 二人とも、食事の作法は完璧だ。音は立てず、手順も完璧にこなすことができる。

 ロルブルーミアはオーレオン料理も事前に慣れてきているし、食事自体に不安はなかった。ただ、気詰まりの時間であることは間違いない。


 ロルブルーミアは山のように盛られたどっしりしたパンを丁寧に千切りながら、どうにか口へと詰め込んでいく。

 皺ひとつないテーブルクロスに、磨き込まれたカトラリー。食堂は常に清潔に美しく保たれている。しかし、ロルブルーミアの気分は重苦しい。



 政略結婚であることはわかっている。だから、和気あいあいとした食事など望むべくもないことも、充分理解していた。

 それでも、リファイアードの屋敷に来て以降、毎日の食事に緊張を強いられ続けてさすがに疲弊を感じていた。


 婚約したとはいっても、正式な結婚まではまだ日がある。準備期間が必要ということで、式の半年前に輿入れが行われた。

 歴代王家の結婚式を執り行ったエルカリオ教会で、ロルブルーミアのために作られた宝冠をリオールド教の教皇から授けられて、初めてロルブルーミアは正式にオーレオン王家の一員となるのだ。


 だからそれまでは、婚約者という立場ではあるものの、王家の一員ではない。

 それゆえ、ロルブルーミアはリファイアードの領地へ赴くこともせず、首都に構えられたリファイアードの屋敷に滞在している。

 首都の外れにあり、規模もあまり大きくはない。使用人の数も少なく、ひっそりとした屋敷である。


 もともと、リファイアードは首都にある軍本部庁舎へ勤務している。

 オーレオン王国軍中央司令部第一師団に所属しており、二十一歳ながら大尉という肩書を持つ。招集に応じては国境警備や国内の治安維持に努めているのだ。

 すぐに対応できるよう、屋敷には帰らず軍本部の兵舎を利用していると聞いており、この屋敷に帰ってくることはほとんどなかったはずだ。


 しかし、現在は国外からの婚約者を受け入れるためという名目で、屋敷での勤務という扱いになっていた。

 実際は、対立国リッシュグリーデンドの皇女を監視するという任を命じられているのだろう。結婚式までは、慣れない屋敷で二人過ごす義務がある。


 だからなのか、屋敷は当主であるリファイアードにもなじんでいないように思えた。ロルブルーミアなどはもっての外で、屋敷自体がよそよそしい。


(――歓迎はされていないのもわかっていますけれど)


 手際よく給仕を行うのは、数少ない使用人たちだ。無駄のない動きで、グラスに水をそそぎ、机に食事を並べていく。

 ただ、その顔はどこかこわばっていた。常に警戒心をまとって、隙を見せまいと神経を尖らせていることがうかがえる。

 何か一つでも間違いを犯せば、恐ろしい罰が待っているのだとでも言うように。


 魔族の住まうリッシュグリーデンドからやってきた皇女。

 人間を惨たらしく殺すことを至上の喜びとするのが魔族であり、長年敵対国として血に濡れた戦いを繰り返してきた国の人間。

 得体の知れない怪物のような扱いであることは、ロルブルーミアとて理解している。


 パンを千切っていた手を止めて、ロルブルーミアはナイフとフォークを手に取る。


 薄切りになった豚肉の燻製を丁寧に切り分け、そっと口に運んだ。適度な塩気が口内に広がり、内心でほっと息を吐いた。

 屋敷で供される食事は、全体的に甘い味付けのものが多い。

 豚肉の燻製の付け合わせは、砂糖が降りかけられた固ゆで卵だし、深い皿に盛られたキャベツは申し訳程度の酢が入った甘酢漬け。

 パリッと焼かれた大きな鶏肉は蜂蜜で味付けされている。オーレオン料理の特徴ではなく、単にリファイアードが甘味を好むかららしい。


 食事を粗末にするなどもってのほかだ。

 だから毎回、決して甘いものが得意ではなくても、全てを口に運ぶようにしていた。胸焼けしそうになっても、顔には決して出さずに。

 よく食べるリファイアードにあわせているのか多様な料理が並ぶものの、さすがに量まで同じでないので、それだけは幸運だった。



 沈黙に支配される食堂で、二人はただ料理を口に運ぶ。

 皿から食事をなくすことに従事していると、不意にリファイアードが口を開いた。カップにそそがれた、あたためられたチョコレートを傾けてから。まるで正反対の冷やりとする声で。


「今日は屋敷に客人が訪れますので、くれぐれも部屋からは出ないように。こちらの生活に慣れるまでは、面会は遠慮していると説明しています。決して顔を見せないように」


 硬質に告げられるのは、この屋敷に来てから言い含められていることだ。

 

 二階の一部屋をロルブルーミアの自室だと説明してから、「食事の時以外は、この部屋で過ごすように」と言われている。冷ややかなまなざしで、どんな感情にも彩られていない声で、リファイアードは淡々と告げた。


 リッシュグリーデンド帝国の皇女を、迂闊に人前に出すわけにはいかない。魔族の国の皇女を、オーレオンの人目に触れさせるなど言語道断である。極力気配を殺して、存在を消して振る舞うように。


 ――もしも難しいようでしたら、体の自由も制限させていただきますが。


 冷ややかな目は至って真剣だった。当然のように部屋は施錠されているけれど、それだけで飽き足らないのであれば拘束も辞さないということだろう。

 そう告げるリファイアードの表情は、どこまでも無機質でぞっとするほど冷たい。便宜上の婚約者に対する情などはひとかけらもうかがえなかった。

 赤い瞳は射抜くようにロルブルーミアを見据えていて、まるで剣先を突きつけられているような緊張感があった。一つでも返答を間違えたなら、すぐさま首を落とそうとするような。


 その時、ロルブルーミアの頭に浮かんだのは、オーレオンへ嫁いでくる前に聞いていたリファイアードにまつわる噂だ。

 ――「鮮血の悪鬼」「血濡れの王子」。



 オーレオンは、リッシュグリーデンドという魔族との戦争は一時休戦しているものの、争いが皆無というわけではない。

 地方へ行けば行くほど野盗などが出没して町を脅かすし、国境付近は好戦的な流浪民からの襲撃の危機が常にある。


 リファイアードは王子という肩書を持ちながら、最前線で剣を取っている。剣の腕は国でも一流と評判で、戦場では数々の功績を打ち立てていると聞いていた。

 ただ、王子でありながら先陣を切るのは、一人でも多くの敵を殺戮さつりくするためだともっぱらの噂だった。


 魔族の王子は血を好む。夜な夜な殺した敵から血をすすって歩き、死体からはぎ取った皮を屋敷に飾り、殺した相手の骸骨杯で生き血を絞って飲む。

 特に好むのは女子供の血だ。目が合ったらすぐに身を隠さなければ、瞬く間に血を抜かれてしまう――。


 隣国で暮らすロルブルーミアの耳にも入るほど、その噂は広く浸透している。

 もちろん単なる噂話で、全てが事実だとは思っていなかった。ただ、初めて顔を合わせた時から、リファイアードはロルブルーミアに対して無関心であり、辛辣しんらつだったことも事実だ。


 愛想で浮かべる笑顔など、ロルブルーミア相手には必要ないと判断したのだろう。会話は数えるほどで、中身も事務的な伝達事項のみ。

 半年後の結婚式に向けて必要な婚礼衣装や宝冠に関する注意事項などを口にする時も、威圧的な態度で接するのだ。

 今、部屋から出るなと命じる時のように。まなざしだけで射殺すような、首元に切っ先を突きつけるような、明らかな警戒をにじませて。


「――わかりましたわ」


 小さく深呼吸をしたあと、ロルブルーミアは細い声で答えた。

 最初から否の選択肢など存在はしない。首を振ろうものなら拘束されるだけだろうし、機嫌を損ねれば危害を加えられる可能性もある。屋敷内で剣をふるうことは、当主であるリファイアードさえ認めれば問題はない。

 ここはリファイアードの領域で、ロルブルーミアは籠の中の鳥と同義なのだ。

 迂闊なことをすれば、簡単に暴力に蹂躙じゅうりんされる。真っ赤に染まった世界で、ただ痛みだけが与えられる。ここはただ黙って、従順に従うのが最善だ。


 ロルブルーミアの答えに、リファイアードは特に反応しなかった。答える必要性もないと思ったのかもしれない。そのまま食事に戻りかける。

 しかし、思い出したように目をすがめると言葉を継いだ。


「――玄関に見慣れない花がありました。あれはあなたですか」

「え、ええ。部屋から庭の花壇が見えたものですから……。花は歓迎の意味をあるとお聞きしています。出迎えるにはふさわしい、季節の花が咲いておりましたわ」


 うかがうように視線を向けながら、丁重に言葉を重ねた。

 屋敷の庭は、あまり熱心に手入れはされていないようだった。しかし、植物はたくましい。

 ちょうど釣鐘草が咲いているところを見つけて、リッシュグリーデンドから共にやってきた侍女へ摘んでほしいと頼んだのだ。


 部屋に飾ってもらう時に、殺風景な玄関にも置いてもらうよう頼んだ経緯があった。青い釣鐘草は可憐さとあざやかさを宿して目を引いたからこそ。


 オーレオンでもリッシュグリーデンドと変わらず、花には客人を歓迎する意味があることは確認していた。

 使用人には許可を得ていたはずだけれど、と思いながらリファイアードの様子をうかがう。


「よけいなことをしないでいただきたい。あれは処理しました」


 鋭く冷えたまなざしで、リファイアードはそれだけ言うと再び食事に戻った。有無を言わさぬ口調で、一切の反論を受け付けるつもりがないことは見て取れる。

 

 確かに、リファイアードに話はしていなかった。ただ、それはリファイアードが屋敷にいても仕事をこなしているようで多忙であると知っていたからだ。

 わざわざ花を飾っていいか、と尋ねる方が手を煩わせることになるという判断だった。


 しかし、それすらもリファイアードは許す気がないのだ。ささやかな花すらも、ロルブルーミアが選んだものを受け入れるつもりはない。

 ロルブルーミアがここにいること。その痕跡はこの屋敷に何一つあってはならないのかもしれない。ロルブルーミアに求められるのは、ただここで息をしていることだけだ。

「リッシュグリーデンドの皇女」という存在が必要なのであって、ロルブルーミアがここにいる意味は一つもない。


「――申し訳ありません。以後気をつけますわ」


 うずまくものを押し込めて、ロルブルーミアは静かに答えた。

 意志も意見も持たず、ただ人形のように過ごしていることだけが、ここでは求められているとわかっている。

 己の言葉など、口にする意味はない。この結婚を成功させるためにそれが必要なら、自分の意志を殺すのは当然だ。


 リファイアードから、答えが返ることはなかった。

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