女子がスマホで長文を書く現象(実話)
@ft2e
朝、都心へ向かう地下鉄の待ち行列で──
都心へ向かう路線。朝のプラットホームには、まだ眠い都市のゆっくりした呼吸が残っている。駅全体が吸っては吐くみたいに、ごくわずかに膨らみ、縮む。錯覚だと分かっていても、その波の縁に立つと、足元の黄色い点字ブロックまで柔らかく見える。
列の中ほどに入り、電車を待つ間、ぼくはポケットからスマホを出して、画面をのぞく。通知はない。指は宙で迷い、やがてポケットへ戻る。やり取りする相手はいない――それを確かめるためだけに画面を点けた気がして、僅かな徒労を感じる。
前を見る。小さな長方形の灯りが、朝の水面にひるがえる鱗のように揺れている。スマホ目当てのよそ見は失礼だ、と頭は言う。けれど視線だけが勝手に寄っていく。自宅で眠っていた脳が、遅れてこの場所へ到着したのかもしれない。
その中のある一人の女性――二十代の後半くらいか――の親指が、スマホ画面の上を往復している。顔文字はない。絵文字もない。改行も、ない。件名は軽い。
件名「Re: おはよ」。なのに本文は、磨いた敬語で隙間なく詰まっている。出だしは
「夕べはありがとうございました。」
いまどき「夕べ」って打つんだ、とぼくは思う。そこから、礼を尽くす一文が続く。「お忙しい中お時間をいただき」「寒い中にもかかわらず駅まで来ていただいて」
――文はときどき言い直され、スクロールバーが一目盛りだけ伸びる。ホームスピーカーの「まもなく電車がまいります」より、ぼくはその行間の温度のほうを凝視してしまう。あーいけないいけない……
顔は真正面を向き、眼球だけで追っているので、目の筋肉が疲れてきた。
どんな目的の文章だろうか。
◇
一週間後、また似た文に出会う。ベージュのトレンチに黒いショルダーバッグ。装いがよく整っていて、朝の冷気の中でも襟元ひとつ乱れていない。二十代中盤くらいの彼女は、イヤホンを片耳にだけ差して、親指の腹で丁寧に言葉を並べる。
「昨日は遅くまでありがとうございました。プロフィールで拝見……(良く見えない)……お仕事のお話、参考になりました」
プロフィール? ぼくの耳が立つ。仕事のプロフィール? 転職の面談? 件名に目が移る。
「Re: たのしかったです」
これは?……職務経歴の話題が「たのしかったです」にぶら下がる違和感。ぼくは、心の棚のいちばん手前に「就活系」の箱を置こうとして、やめる。彼女は続けて打つ。
「こちらの希望を……(見えない)……カフェも素敵でした。店内が混雑していて、声が届きにくかったかも……」
別の日。車内の扉脇で揺れながら、黒のニット帽の女性の画面が斜めから見えてしまう。
「昨日の件は、担当の方に共有いたしました。」
担当の方? 社内の上司ではなさそうだ。文章の前には
「昨日はありがとうございました」「短い時間でしたが」
とあり、直後には
「もしご迷惑でなければ、次回はもう少しカジュアルなお店で」
と続く。仕事と私事の境い目に、薄い紙を挟んだような言い回し。ぼくは仮説の箱を入れ替える。ラベルは「私事だけどフォーマル」。
◇
やがて、ぼくは反復に気づく。
「貴重なお時間をいただき」「差し支えなければ」「ご縁がありましたら」
場の温度を一度だけ下げ、粗熱をとってから本題へ進むための決まり文句。
そして、ある朝。
ホームで斜め前に立つ若い女性の親指が止まる。画面に三文字が現れた
「仮交際」
彼女は一拍して削除。カーソルだけが点滅している。彼女は「差し支えなければ」まで戻り、別の言い回しを探す。迷っている。長考タイム。
しかし電車が接近。ホームドアの向こうで列車が減速し、足元の点字ブロックが僅かに振動する。
「……進めさせていただければ」
文末に小さく「幸いです」。送信ボタンを押した。直後、ホームドアが開き一斉に乗車が始まる。
輪郭が結ばれた。婚活。お見合い。担当カウンセラー。活動レポート。お礼メール。プロフィール。真剣交際。相談所――そういった語彙が、ばらばらの点を一本の糸にする。
件名が「Re: おはよ」なのは、男性がやわらかく一通目を書いたのだろう。それに対する返信。けれど本文は、お礼と振り返りと今後の意志表明でびっしりと埋まる。改行がないのは、熱が出過ぎないように、敬意の面で隙間を作らない工夫なのかもしれない。
彼女らは朝の通勤の途中、待ち時間と揺れの間に、その日のうちに済ませるべき儀式を丁寧に完成させている。これが都市の朝の一つの顔なのだ、とぼくは思う。
◇
気づいてからというもの、ぼくはホームの長文に出会うたび、胸のどこかが少しだけ痛む。覗き見てしまったという後ろめたさと、正しくあろうとする努力の眩しさと、両方が同じ場所を刺す。
正しくあろうというのは……ぼくはこの数年、正しい言葉を選ぶことを怠ってきたのかもしれない。既読だけつけて終わり。「あとで返す」の「あとで」を忘れ、短い相槌で済ませて、相手の温度を測り損ねる。
ホームで見かける長文たちは、相手の時間と感情を傷つけないように、言葉の角を一つずつヤスリで落としている。それは相手のためであると同時に、自分自身を守る手順でもあるのだろう。都市はやさしくない。だから、人は言葉をやさしく整える。
見知らぬ誰かの長文が、今日もどこかで送信され、どこかで受信される。件名の軽さと本文の礼儀正しさ。その間の温度差は、むしろ誠実さの証かもしれない。
ぼくは、今では、小さな長方形の灯りから視線を外す。足元の点字ブロックの粒をひとつ数えてから、前へ出る。他人の画面は見ない。
代わりに、今日のぼくの言葉は、たとえ短くても、せめて角を一つ、落としてから送る。この心遣いで、都市の呼吸が、ほんの少しでも、ゆっくりになればいいと思う。
女子がスマホで長文を書く現象(実話) @ft2e
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