ノイズキャンセリング

久田井交

音のない世界

唯は机の上に置かれた小箱を両手で抱きしめた。白いリボンをほどくと、中から現れたのは艶やかな黒のノイズキャンセリングイヤホンだった。

「誕生日おめでとう、唯ちゃん」

画面の向こう、ビデオ通話越しに玲が微笑んでいる。


耳に差し込んだ瞬間、世界から音が消えた。扇風機の回転音も、外の車の走行音も、すべて霧のように掻き消える。唯は驚きと興奮に声をあげた。

「すごい……本当に何も聞こえない! 玲ちゃん、ありがとう!」

玲は頬を赤らめながら答えた。

「ふふ、私も同じのを持ってるんだよ。お揃い。唯ちゃんの声だけが、私には聴こえるの。世界の音なんていらない。唯ちゃんの声だけあれば幸せ」


その夜も、二人は画面越しに話し続けた。日課のビデオ通話。玲は必ずピアノを弾き、唯はそれを聞いて「すごいね、毎日でも聴きたい」と歓喜する。

「明日も学校あるから、そろそろ寝よっか」

通話を終えると唯はベッドに倒れ込み、同時にプレゼントされた熊のぬいぐるみを抱きしめる。柔らかな毛並みから、玲の匂いがする気がした。唯は微笑みながら眠りに落ちた。


翌朝。

イヤホンから流れるのは玲のピアノ演奏のデータだった。澄んだ旋律が唯の鼓膜を支配し、玲の存在を傍らに感じさせる。

「玲ちゃんの音楽と一緒なら、ひとりでも寂しくない」

そう呟いたとき、肩を叩かれ唯は跳ね上がった。


「そんなに驚かなくても」

振り向けば、玲が笑顔を浮かべて立っていた。

「ノイズキャンセリングは便利だけど、外にいるときは危ないよ。車が来ても気づけないでしょ?」

唯は通学路ではない玲がここにいることに少し疑問に思いながらも照れ笑いを浮かべて礼を言い、二人並んで登校した。


放課後。唯はクラスメイトに誘われカフェで過ごす。甘いケーキの味、笑い声。久しぶりの「友達らしい放課後」に唯は心を弾ませた。

しかし、帰り道でまた肩を叩かれる。振り向けば玲。

「……え、どうしてここに? ピアノの練習だって言ってなかった?」

玲は楽譜を買いに街へ出た帰りだと答えた。唯は偶然を喜び、二人で一緒に帰宅したが、玲の表情には影が差していた。


その日の夜。いつものビデオ通話。だが画面越しから、知らない人の声が混じる。

「えっ? 今の声……誰?」

問いかけると玲は笑って答えた。

「今日は両親が久しぶりに帰ってきてるんだ。あの人たち、演奏会で世界中を飛び回ってるから滅多に家にいないんだけど」

音楽一家で普段から両親がいないことが多く、寂しがっているのを知っていた唯は心から喜んだ。「よかったね」と。


だが疑問が浮かぶ。

「ノイズキャンセリングなのに、他の声が拾えるの?」

玲は淡々と説明した。「距離や条件によっては相手にだけ聞こえることもあるよ」と。


「じゃあ明日は両親と過ごすの?」と唯が尋ねると、玲は小さく首を振った。

「もう明日にはまた旅立っちゃう」

その声に寂しさが滲む。唯は胸を熱くして答えた。

「じゃあ明日は、朝までビデオ通話しよ! うちも両親仕事でいないし、ずっと一緒に話せるから!」

玲の顔が嬉しさで輝いた。


翌夜。画面越しに笑い合う二人。だが突然、玲が険しい表情になる。

「……唯ちゃん、その部屋に誰かいるの?」

唯は冗談だと笑った。「怖いこと言わないでよ。今日はひとりだよ」

だが玲は震える声で告げた。

「ごめん……でも男の人の声が、ずっと聴こえる」


唯の血が凍りつく。

「落ち着いて。片耳だけイヤホンを外して」

言われた通り外すと、


「――――アアアアアアア!!!!」


轟くような男の叫び声が部屋に満ちた。

「いやああああああ!」唯は悲鳴をあげた。


「大丈夫、私だけがいる。すぐ迎えに行くから近くの公園で待ってて」

「で、でも……」

「唯ちゃん! 私だけを信じて!」

その言葉が、幼い頃からの記憶を呼び覚ました。いじめられそうになった時、唯一守ってくれたのは玲だった。彼女の声は、いつだって唯の救いだった。

玲の声だけが救いだった。玲だと思いプレゼントしてもらった熊のぬいぐるみを抱きしめ、唯は飛び出した。



公園で合流した玲は、震える唯を強く抱きしめた。

「怖かったね……大丈夫。今日は私の家に泊まろう」

歩きながら玲は囁く。

「警察にはもう連絡したし、唯ちゃんの両親にも伝えたから安心して」

その言葉に唯は涙を浮かべながら頷いた。


玲の家に着くと、冷たい水が差し出される。唯が一口飲むと、急速に視界が揺らぎ、意識が闇に落ちていった。

最後に見たのは、微笑む玲の顔だった。



目を覚ました唯は、両手両足を鎖で固定されていた。周囲は狭い防音室。

目の前にあるのは――ピアノだけ。

「……なに、これ」


ドアが開き、玲が現れた。

「起きたんだ、唯ちゃん」

彼女は満面の笑みを浮かべていた。


唯が震える声で問い詰めると、玲は熊のぬいぐるみを持ち上げ、ナイフで腹を切り裂いた。中から黒い機械が転がり出る。

「さっき声の正体、ボイスレコーダー。全部仕組んだんだよ。イヤホンに入ってるGPS機能から、唯ちゃんがどこにいるか全部わかる」


「どうして……?」

玲の瞳が狂気に輝く。

「唯ちゃんを、私だけのものにしたかった。他の子と笑ってるのを見るのが許せなかった。他の子が唯ちゃんの声を聴くのが凄く嫌だった。だから、ここでずっと一緒にいよう」


唯は叫んだが、玲は肩を竦めた。

「ここは防音室。どんなに叫んでも外には届かない。ノイズは全部キャンセルされるの」


唯は涙ながらに訴えた。

「私は……親友は玲ちゃんだけ。親友以上に……玲ちゃんが好きだったのに」

玲は一瞬、息を呑み、そして唯に口づけた。

「うん、知ってる。だから毎日私のピアノを聴いて。唯ちゃんは私にずっとその素敵な声を聞かせ続けるの」




「唯ちゃん、今日もご両親、うちに来たよ?」


玲は鍵を閉めた小さな防音室のドアにもたれかかり、嬉々として語りかける。


その視線の先には、鎖で片足を床に繋がれ、痩せ細った唯が座り込んでいた。髪は乱れ、唇は乾ききり、声を発するたびにかすれる。


「探してるみたい。『どこに行ったか知らないか』ってね。でもね、唯ちゃん……」

玲はわざとらしく首をかしげ、笑顔を崩さず言葉を重ねた。


「毎日来たって、見つかるわけないじゃん。だって唯ちゃんは――ここにずっといるんだもん」


唯は虚ろな瞳で顔を上げる。「……れ、い……ちゃ……」とかすれた声で呼ぶ。

「出して……よ……また……学校に……い、きたい」


その切実な願いに、玲は数秒だけ目を丸くしたあと、甲高い声で大笑いした。


「何言ってるの? もうここに来て――七年だよ?」

「……七……年……?」


「そうだよ。人間は七年も姿を見せなかったら、もう死んだことになるんだよ。唯ちゃんは世間では『死んだ人』。この世界のどこにも存在しない。完全に――私だけのものなの」


絶望に染まっていく唯の顔を、玲は陶酔の色を浮かべながら眺めた。


「でもね、もう七年……。ねえ、唯ちゃん。外に出たい?」


その言葉に唯の表情がわずかに変わった。光を失った瞳の奥に、小さな希望のきらめき。弱々しく、こくりとうなずく。


「ふふ……」玲は微笑みながら唯の頬に手を添えた。

「じゃあ、私の言うこと、ちゃんと聞いてくれるなら――外に出してあげてもいいかもね」


唯の顔が、ほんの一瞬、明るさを取り戻す。

しかし、玲はその表情を見届けるや否や、楽しそうに続けた。


「でもその前に……今日も私のピアノ、聴いてね? 毎日聴きたいって唯ちゃんが言ったから、私はこうして毎日弾いてあげてるんだから」


にっこりと無邪気に笑いながら鍵盤の前に座る玲。

唯の肩がびくりと震え、唇が小刻みに開閉する。


――そして、音が始まった瞬間。


「いやあああああああああああ!!!」


絶叫が防音室に木霊する。泣きじゃくりながら、唯は自分の両耳を必死に塞ぐ。だが鎖につながれた身体では逃げられない。

鍵盤の音はノイズキャンセリングのように部屋を満たし、唯の心を削り続けた。



数年後。


華やかな舞台の上、照明を浴びてピアノの前に立つ玲。

コンクールの表彰式。優勝者としてマイクを向けられ、観客の視線を一身に受けていた。


「どうしてこんなに素晴らしい演奏ができるのか?」とインタビュアー。


玲は涙を浮かべながら、ゆっくりと語り始めた。


「私には……子どもの頃から、ずっと私の演奏を聴いてくれる、唯一の子がいました」


会場が静まり返る。


「その子は……事情があって、もう私の演奏を聴くことはできません。けれど……私は今も、その子のために弾き続けています」


会場中が拍手に包まれ、やがてスタンディングオベーションへと変わる。


控室に戻った玲は、マネージャーに抱きつき、歓喜の涙を見せた。

だが、その背後にノックの音が響く。


「どうぞ」


ドアを開けると、そこに立っていたのはやつれた老夫婦だった。

「まだに唯のことを想ってくれていて……玲ちゃん、ありがとう」


唯の両親だった。


玲は穏やかに微笑んだ。

「いえ……もう届いてはいないですけど、私は今も、ずっと、これからも唯ちゃんを想っています」


「ふふ……もしかしたら、唯もこの会場を見ていたかもしれないねぇ」

老夫婦は涙ぐみながら玲と手を握った。その横でマネージャーも目を潤ませていた。


夜、帰宅した玲は自室の防音室のドアを開け、声を弾ませた。


「唯ちゃーん!唯ちゃんのおかげで賞をとれたよ!」


だが、中は空っぽだった。


一瞬、息が止まる。次の瞬間、振り返ってマネージャーを見つめる。

そして、かすかに微笑む。


「……って、聞こえてないか」


苦笑しつつ、マネージャーの袖を引き、部屋の隅に座らせる。


「まさか……自分で耳に指を突っ込んで、聴力を潰すなんて思わなかったよ」

玲は悲しそうに呟き、すぐに笑みを取り戻す。


「そんなに私のピアノ、聴くのが嫌だったのかなぁ。でも……まあ、結果オーライよね」


マネージャーの姿は唯とは似ても似つかない。顔も身体も違う。

それでも玲は、慈しむようにその頬を撫でる。


「唯ちゃんが外に出るには、準備が必要だったんだ。だって、もう唯ちゃんは世間では死んでるんだから……死人が外に出られるわけないでしょ?それに、唯ちゃんは私だけのもの、他の誰かには見せたくないもん」


玲は楽しそうに囁く。

「顔も身体も変えて、逃げないようにGPSを埋め込んで……声帯まで切っちゃったけど。これで唯ちゃんの声は、私だけのもの」


そう言ってイヤホンを耳に差し込む。

流れてきたのは――録音された唯の絶叫。


「……ね、唯ちゃん。今日も弾くから、ずっと聴いててね」


満面の笑みでピアノの前に座る玲。

防音室に再び旋律が響きる。唯は叫ぶがその声は誰にも届かない・・・。

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ノイズキャンセリング 久田井交 @majiru_sh

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