10.魔女見習いリーリヤ①
見渡す限りのすべてが赤く染まる。
未だ雪が残る大地も、トウヒの木も、そして空さえも柔らかくも力強い夕日の色に変えられていく。
夜の帳が下ろされる前のほんのひとときの光景は見る者の心に感傷を与えてやまない。昼と夜の移り変わるこの頃合いは、時に雄大な自然への感動をもたらし、時に歩みを止めぬ時間への寂寥を感じさせる。そして、人では作り出すことが出来ない美しさを孕むからこそ、時に恐怖と共に魔を呼び起こす。
「『大禍時』なんてよく言ったものだね」
徐々に太陽が地平線の向こうへと姿を隠し、周囲の闇が濃くなるほどに目に見えない何かの存在感が増していく気がする。
アルマスは一抱えもある大きな切り株の上に腰掛けながら、ただ太陽が沈む様子を眺めていた。
場所は魔女との約束通り、村の近くにある森の外縁の泉だ。冬の間は分厚い氷の膜が水面を覆っていたのだろうが、残雪があるといっても春を迎えた今となっては穏やかな水面が顔を覗かせている。
儀式が始まるまでもう少し。アルマスは美しき景色を見据えたまま静かに待っていた。
そろそろ日が沈みきる。そんな時刻にシャンと涼やかな音が耳に入った。
「やっとおでましか」
アルマスの佇む泉のほとりの対岸にある森の奥から何かが近づいてくる気配があった。
シャン、とまた澄んだ音色が響く。
さっきよりも大きく、近くに聞こえた。
シャン、シャン、シャン。
繰り返されるほどに大気が震え、森のざわめきが強くなる。
やがて対岸に現れたのは数匹の狼が引くソリに乗った一人の若い女性。太陽が名残惜しむように残した一筋の陽光を浴びて、柔らかに波打つ亜麻色の髪が透けて燃える黄金のように輝いて見えた。
魔女であることを示す黒いワンピースととんがり帽子を身に纏った女性は深い森の闇に溶け込むようでいて、宵闇を思わせる淡く暗い青色の瞳がアルマスの視線を引き寄せてやまない。
眩いばかりの夕日の代わりに優しげな月明かりが顔出すまでのしばしの間、女性とアルマスは互いに互いを見つめ合っていた。
「やあ。久しぶり」
先に声を上げたのはアルマスだった。
無言の間などなかったかのように軽快な語り口で挨拶をする。
対する女性は返事をするでもなく、手に持っていた葉っぱが付いたままの枝のような長い杖のようなものを無造作に振った。
シャランと葉が擦れる涼しげな音を伴って振るう。するとソリに繋がれた狼のうちの一匹が頭を垂れて鼻先で泉の水面を撫でるように突いた。途端に穏やかだった泉の水が静かに広がる波紋と共に凍り付いていく。真っ直ぐに伸びていく氷の道はアルマスのいる対岸まであっという間に届いた。
妖精を使役する魔女の秘術に感心する間もなく、今にも割れてしまいそうな薄い氷で作られた道を狼に引かれたソリがするりと滑ってくる。
アルマスの目前で制止した狼達は、至近距離で目視すれば生き物ではないことがすぐにわかる。氷のように透き通った身体を持つこの妖精を見るのは二度目だ。一度目は昼間に魔女に村まで送ってもらった際だ。
ソリから女性が降りてアルマスの正面に立った。それに合わせてアルマスも椅子代わりにしていた切り株から立ち上がる。灰色がかった薄茶色の長い髪をふわりと背に流した彼女は、アルマスよりも頭一つほど低い。彼女はアルマスを見上げる姿勢で、静かに声を紡いだ。
「―――アルマス・ポルク」
聞く者を落ち着かせる女性らしい柔らかさのある低めの声。黒い衣装を着飾った彼女はそれだけを告げると薄紅色の小さな唇を閉じた。
アルマスの口が弧を描く。
「そう、その通り。そして、君はリーリヤ・メッツァだ。忘れられてなくてよかったよ」
アルマスに名を呼ばれた女性は微かに頷いた。
リーリヤ・メッツァ。『霞の森の女主人』の後継者であり、魔女となりし者。正確に言うのであれば現時点ではまだ魔女見習いであり、この儀式の完遂と共に晴れて一人の魔女となる。
「10年ぶりくらいかな。あの生意気なおちびさんが見違えるように成長したね」
アルマスとリーリヤは初対面ではない。
遠い昔、数ヶ月という短い期間だが幼かった彼女とアルマスはともに暮らしていたことがある。子どもだったアルマスは詳しい事情は知らないが、アルマスよりも更に二つか三つ年下のリーリヤを屋敷で預かっていた。
記憶の中の小さな女の子と目の前の女性を比べてみればやはり面影がある。柔らかそうな亜麻色の髪に、すっと通った綺麗な鼻筋、なにより想いの強さを内包する吸い込まれるような青灰色の瞳。
「・・・」
リーリヤの反応は芳しくなかった。強張った彼女の表情は氷のように冷たく、無機質だった。
それでもアルマスはいつものように軽口を続けようとして口を開き、言葉を出さないまま口を閉じた。
知らぬ仲ではないために親しげに声を掛けてみたものの、改めて考えてみると随分昔に関わりがあった程度の仲だ。幼馴染みというには積み重ねた年月が乏しく、友人というには少しばかり年が離れ、腐れ縁というほど嫌いあっているわけでもない。共に遊んだし、笑い合ったし、喧嘩もした。しかしそれも大人になった今になって思えばほんの一時だけのこと。
果たしてアルマスとリーリヤの関係を言葉にするならば何というのが正しいのだろうか。そして肝心の彼女はアルマスのことをどのように認識しているのだろうか。
会話の糸口が掴めずに口を噤んでしまったアルマスの代わりに声を発したのはリーリヤだった。
「約束」
「へ?」
「約束を守ってくれたのね」
感情の見えなかった鉄面皮が綻ぶように細やかな微笑みが浮かぶ。よく目をこらさなければ見逃してしまうほど僅かな変化だった。それは緊張のなかにどこか安堵の感情が滲み出ているように見えた。
ひょっとしたらアルマス同様に距離感を掴み損ねているのではないかと勘ぐっていたが、リーリヤの様子を伺うにその心配は杞憂のようであった。『よく知らない馴れ馴れしい男』と思われて要らぬ警戒を与えないですんだことは喜ばしいことだ。
このまま和やかに昔話に花を咲かせでもすれば、長い間顔を合わせることもなかった互いの溝も少しは埋まるというものだろう。実際、アルマスもそうしようかと考えていた。
彼女の言う『約束』というものに心当たりがあると返答できるのであれば。
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