第四十六話 禁断の書庫

 王城の最深部、禁書庫。

 そこは、時の流れから完全に取り残された、静寂と埃の匂いが支配する空間だった。

 国王の厳命を受け、騎士団長アルトリウスが、重々しい石の扉を押し開ける。

 ギィィ…と、数百年ぶりに空気が震える音を立てて、忘れられた知の聖域がその姿を現した。

 中に足を踏み入れたアイリス分隊と魔王ゼノスは、その光景に息を呑んだ。

 壁という壁が、天井まで届く巨大な本棚で埋め尽くされている。

 そこに収められているのは、羊皮紙の書物だけではない。

 分厚い石版、動物の皮に書かれた巻物、そして、今では解読不能となった古代文明の水晶板まで、ありとあらゆる「記録」が、静かな眠りについていた。


「…ここが、初代英雄の…」

 アイリスが畏敬の念に打たれて呟く。

「ふん。我が魔王城の書庫に比べれば、ただの物置だな。整理整頓がなっていない」

 ゼノスは、魔王としての最後のプライドをかき集め、悪態をついた。

 だが、その目には隠しきれない好奇の色が浮かんでいる。

「ノン! この混沌こそが、知の源泉! 無秩序の中にこそ、真の芸術は宿るのだよ!」

 ジーロスは、早速、埃をかぶった彫像のポーズに美的センスを見出し、うっとりと見惚れていた。


『戯言はそこまでにしろ』

 アイリスの脳内に、ノクトの、仕事モードの声が響いた。

『時間は有限だ。これより「古代法典」の捜索を開始する。ゼノス、初代英雄が残したという石版はどこにある?』

「し、知らん! 私が知るわけなかろう!」

 アイリスの口から発せられた、まるで旧知の仲のような口ぶりに、ゼノスはたじろいだ。

『使えないな。まあいい。全員、手分けして探せ。ただし、勝手に触るな。この部屋には、古代の防衛術式がかけられている可能性がある』

 ノクトの警告は、的を射ていた。

 テオが、金目のものはないかと、宝石が埋め込まれた豪華な装丁の本に手を伸ばした瞬間だった。

 ピリリ、と空気が震え、本から強力な電撃が放たれる。

「ぎゃあああっ! し、痺れるぅううう!」

 感電して床を転がる不徳の神官。

「ひひひ…どうやら、こいつは本物のお宝らしいぜ…」

 彼は、それでもめげずに、ニヤリと笑っていた。


 捜索は、困難を極めた。

 書庫は、迷宮のように入り組んでおり、おまけに、初代英雄が仕掛けた、数々の面倒な罠が、一行の行く手を阻む。

「姉御! この床、踏むと槍が飛び出してくるであります!」

 ギルが、自らの頑丈な体で、床の罠を全て作動させながら、突き進んでいく。

「シルフィ殿! そちらは、底なし沼です!」

「えぇ!? あ、本当です! 道が、緑色に光って見えます!」

 シルフィは、もはや完全にノクトの遠隔操作装置ユニットと化し、彼が「可視化」させた危険地帯を、的確に仲間たちに伝えていた。


 数時間に及ぶ探索の末、一行はついに、書庫の最深部にある、一つの小さな祭壇へとたどり着いた。

 そこに、それはあった。

 何かの硬い石を磨いて作られた、一枚の巨大な石版。

 表面には、人間には解読不能な、複雑な幾何学模様のような文字が、びっしりと刻まれている。

「…これか」

 アイリスが、ごくりと唾をのむ。

『ゼノス、お前の出番だ。魔族に伝わる古文書の知識で、これを解読しろ』

「う、うむ…」

 ゼノスは、懐から古びた羊皮紙の巻物を取り出すと、石版の文字と、必死に見比べ始めた。

「…これは、古代魔族語の中でも、特に儀式に使われた、古魔族文字だ。意味は…『世界の理は、戯神ぎしんのサイコロによって定められる』…? なんて、冒涜的な…」

 ゼノスが、顔をしかめながら、解読を進めていく。

「『第一の理。光と闇は、常に等しくあれ』。『第二の理。生と死は、円環を成すべし』…。む? ここで、文章が途切れているぞ。この続きがなければ、意味が…」

『分かっている。その続きは、こっちにある』

 ノクトの声に応え、アイリスは、石版の裏側を指差した。

 そこには、初代英雄の筆跡で、こう記されていた。

『―――だが、魔族文字は偽り。真実は、人の言葉にあり』

 そして、その下には、人間が使う共通言語で、こう続けられていた。

『「世界の理は、プレイヤーの選択によって変動する」。…「第一の理。光と闇の数値パラメータは、常に均衡を保つよう調整される」。…「第二の理。死亡ゲームオーバーしたキャラクターは、一定時間後、初期地点に復活リスポーンする」。…なんだ、これは…』

 アイリスは、その、あまりに無機質で、不謹慎な言葉の羅列に、背筋が寒くなるのを感じた。


 二つの、異なる言語で書かれた、同じ法典。

 それは、神がこの世界を創造した時に定めた、「表向きのルール(魔族用)」と、「本当のルール(運営用)」だった。

「…つまり、どういうことだ?」

 ゼノスは、完全に、混乱していた。

『簡単なことだ』

 ノクトの声が、響く。

『この石版は、人間と魔物の、二つの知識が揃って、初めて意味を成す、二重構造の暗号になっている。そして、本当のルールは、常に、俺たち人間側に、有利に働くように、書かれている、ということだ』

 それは、この世界の、あまりにも理不尽な、真実だった。


 その時だった。

 石版の解読が進んだことに呼応するかのように、書庫全体が、ゴゴゴゴ…と、地響きを立てて、揺れ始めた。

『…来たか。この書庫の、本当の番人が』

 ノクトの声に、緊張が走る。

 一行の目の前、何もない空間から、一体の、巨大なゴーレムが、姿を現した。

 それは、ただの石の人形ではない。

 初代英雄が、自らの魔力を注ぎ込み、この禁断の知識を、永遠に守らせるために生み出した、伝説の守護者だった。

「我は、法の番人なり」

 ゴーレムの、石が擦れるような声が、響き渡った。

「この先の真実を知りたければ、我を、超えてみせよ」

 アイリス分隊と、魔王の、奇妙な共同戦線。

 彼らの、最初の、そして、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。

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