第三十八話 英雄の凱旋

 魔王城の正門の前で、歴史上、最も奇妙な見送りの会が開かれていた。

「―――師匠! このご恩は、生涯忘れませぬ!」

 魔王ゼノスは、アイリスの手を固く握りしめ、深々と頭を下げた。

 その目には、感謝と尊敬の涙が浮かんでいる。

 彼の隣では、娘のディアナが、はにかみながら小さな花束をアイリスに手渡した。

 そして、その後ろには、再建中の魔王軍の魔物たちが、ずらりと整列していた。

「聖女様! 我々は、あなた様に教わった『業務効率の改善』と『部下のモチベーション管理』を徹底し、より良い組織作りを目指します!」

 代表のオークが、やけに流暢なビジネス用語で、高らかに宣言する。

 ジーロスがデザインした『目指せ! 残業ゼロのホワイト魔王軍!』という、キラキラしたスローガンが、城壁に掲げられているのが見えた。

 アイリスは、もはや、何と返事をすればいいのか分からなかった。


『新人。何をぐずぐずしている。さっさと出発するぞ』

 脳内に響いたのは、ノクトの、心底うんざりした声だった。

 彼の目的は、ただ一つ。

 アイリスが大事そうに抱えている「夢織りの枕」を、一刻も早く、自室のベッドに設置すること。

 魔王軍の未来など、彼の知ったことではなかった。

「…皆様、お元気で」

 アイリスは、引きつった笑みを浮かべると、グリフォンのゼファーに跨り、仲間たちと共に、魔王城を後にした。

 最後まで、魔王ゼノスの「師匠ー!」という声が、背後から聞こえていた。


 王都への帰還の道は、驚くほど、穏やかだった。

 魔大陸を支配する魔王が、もはや王国に敵意を持っていないのだから、当然だった。

 だが、アイリスの心は、鉛のように重かった。

(…王宮に、戻ったら、何と報告すればいいのだろう…)

 魔王を討伐せよ。

 それが、彼女が受けた、絶対の王命だった。

 しかし、彼女がしたことは、討伐ではない。

 経営コンサルティングだ。

 真実を話せば、待っているのは、王命に背いた罪人としての、裁きだろう。

 だが、嘘を吐くなど、騎士の誇りが許さない。

 彼女が一人、葛藤に苦しんでいると、脳内に、冷たい声が響いた。

『何を悩む必要がある。結果は、出ているだろう』

(神様…! ですが、私は、魔王を倒してなど…!)

『「魔王は、もはや、王国にとって脅威ではない」。これは、事実だ。奴は今、娘との関係改善と、部下の福利厚生のことで、頭がいっぱいだ。世界征服など、考える余裕すらない。我々は、任務を、完璧に、達成したのだ。それ以外の、余計なプロセスを、報告する必要は、どこにもない』

 それは、完璧な、理論武装だった。

 そして、完璧な、欺瞞だった。

 アイリスは、唇を、強く、噛み締めた。


 一行が、王国の国境を越えた瞬間、世界は、彼らの帰還を、熱狂で迎えた。

 街道沿いの村々では、人々が旗を振り、花を投げ、英雄たちの名を叫んだ。

 噂は、彼らの歩みより、遥かに速く、そして遥かにドラマチックになって、王都へと届いていたのだ。

「聖女様が、魔王を、光の魔法で浄化されたらしい!」

「いや、あの巨人が、魔王城ごと、殴り飛ばしたそうだ!」

 もはや、真実がどうであったかなど、誰にも関係なかった。

 人々は、ただ、平和の訪れを、そして、それを成し遂げた英雄の物語を、求めていただけだった。


 そして、一行は、ついに、王都の門をくぐった。

 城門から、王宮へと続く大通りは、民衆で、完全に埋め尽くされている。

 空には、祝福を告げる鐘の音が鳴り響き、色とりどりの花びらが、まるで吹雪のように、舞い踊っていた。

 その、熱狂の中心で、アイリスは、ゼファーの背の上で、ただ、小さくなっていた。

 王宮の前に設けられた式典台には、満面の笑みを浮かべる国王と、そして、氷のように硬い表情の、騎士団長アルトリウスが、一行を待ち受けていた。


 国王は、感極まった様子で、アイリスに歩み寄った。

「おお、アイリス! よくぞ戻った! そなたは、この国を、いや、世界を救ったのだ!」

 彼は、民衆に向かって、高らかに、叫んだ。

「聞け! 我らが英雄、聖女アイリスは、魔王ゼノスの討伐という、不可能を可能にしたのだ!」

 割れんばかりの、歓声と、拍手。

 アイリスは、その声の奔流の中で、意識が、遠くなりそうだった。

 その時、アルトリウスが、一歩、前に出た。

 彼の、鋭い視線が、アイリスを、射抜く。

「…アイリス分隊長。見事だ。して、その証拠は? 魔王の首は、どこにある」

 静まり返る、広場。

 全ての視線が、アイリスの、次の言葉に、注がれる。

 絶体絶命。

 彼女は、もう、逃げることは、できなかった。

『…言え、新人』

 脳内に、ノクトの、最後の指示が、響いた。

『俺の言う通りに』

 アイリスは、ゆっくりと、顔を上げた。

 その表情に、迷いはなかった。

 彼女は、この、巨大な嘘を、最後まで、演じきることを、覚悟したのだ。

 彼女は、アルトリウスを、そして、民衆を、まっすぐに見据え、凛とした声で、告げた。

「魔王ゼノスの首は、ございません」

 ざわめく、群衆。

 アルトリウスの眉が、険しく、吊り上がる。

 アイリスは、続けた。

「彼の魂は、私の光によって、浄化されました。そして、その肉体は、魔王城の崩壊と共に…」

 彼女は、そこで、言葉を切ると、悲しそうに、目を伏せた。

「…塵と、なりました」

 それは、完璧な、嘘だった。

 そして、誰もが、それを信じた。

 聖女の、慈愛に満ちた、あまりにも、悲しい勝利の物語を。

 再び、熱狂的な歓声が、沸き起こる。

 その中で、アイリスは、一人、天を仰いだ。

 彼女は、世界を救った英雄となった。

 そして、世界で一番の、嘘つきとなった。


 その頃、ノクトは、塔の自室で、水盤に映るその光景を、あくびをしながら、眺めていた。

「…やれやれ。これで、全てのクエストは完了だな」

 彼は、アイリスの苦悩も、世界の熱狂も、意に介することなく、ただ、傍らに置かれた、ふかふかの枕を、愛おしそうに、撫でた。

「さて、と。邪魔者もいなくなったことだし、早速、試してみるとしますか。最高の、寝心地とやらを」

 彼の不本意な英雄譚は、今、完璧なエンディングを迎えたのだった。

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