第二十六話 人形の家
そこは、氷の森の奥深くにあった。
一行がたどり着いたのは、巨大な氷の盆地だった。
切り立った氷の崖が、壁となって円形に周囲を囲んでおり、その壁の一箇所だけが、洞窟のようにぽっかりと開いていた。
そこが、唯一の入り口らしかった。
入り口の奥からは、冷たく、そして静謐な魔力が漏れ出ている。
『ここが、レイラの工房、「
『これより潜入を開始する。内部の警備は、恐らく全てが氷の人形だ。ギルを先頭に進め。だが、戦闘は極力避けろ』
(戦闘を…? ですが神様、敵はすでに私たちのことを…)
『百も承知だ』
アイリスの疑問を、
『
分隊は、頷いた。
彼らは、息を殺して、その氷の砦へと、足を踏み入れた。
内部は、回廊になっていた。
壁も、床も、天井も、全てが磨き上げられた氷でできている。
そして、その回廊の両脇には、無数の「作品」が、展示されていた。
氷の中に閉じ込められた、様々な魔物たち。
牙を剥く巨大な狼。
翼を広げた怪鳥。
威嚇するリザードマン。
それらは全て、最も生命力に溢れた瞬間を、完璧な形で、永遠に凍結させられていた。
「…ひどい…」
アイリスは、その悪趣味なコレクションに、顔をしかめた。
「ノン。これは、ひどいだけじゃない」
ジーロスが、悔しそうに呟いた。
「技術は、完璧だ。これほどの生命感を、氷という素材で表現するとは…。だが、そこに、心がない! これは、死の芸術だ!」
テオは、氷像の台座に使われている宝石に、目利きのような視線を送っている。
シルフィは、凍りついた森の小動物たちを見て、悲しそうに目を伏せた。
一行は、回廊の最深部、巨大な氷の扉の前へとたどり着いた。
『…この奥が、玉座の間だ。レイラ本人がいる』
ギルが、その巨大な扉に、そっと、手をかけた。
玉座の間は、広かった。
そして、美しかった。
巨大なシャンデリアのように輝く氷の結晶。
壁一面を覆う、幻想的な氷の彫刻。
その中央に、一つの、氷の玉座があった。
そこに、一人の女が、静かに座っていた。
雪のように白い肌。
氷のように冷たい、青い瞳。
魔王軍四天王、「氷の人形遣い」レイラ。
彼女は、侵入者たちを一瞥すると、ゆっくりと、口を開いた。
その声は、冬の湖のように、静かで、冷たかった。
「…いらっしゃい、泥棒猫さん。そして、私の、汚れたコレクションたち」
彼女の視線は、ゼファーと、そしてギルに向けられていた。
「私の完璧な世界で、ピクニックなどという、ふざけた真似をしてくれたそうね。その罪は、重いわ」
レイラが、指を、かすかに動かす。
すると、彼女の玉座の周りに控えていた、十数体の、美しい騎士の人形たちが、一斉に、剣を抜いた。
「ゼファーを、返しなさい。そうすれば、あなたも、私のコレクションに、綺麗に加えて差し上げてよ」
アイリスは、剣の柄を、強く握りしめた。
(神様…!)
『待て。まだだ』
彼の作戦は、ただ一つ。
この完璧主義者の、プライドと美学を、内側から、破壊すること。
『新人。ギルに、あの氷の冠を、もう一度被せろ』
アイリスは、戸惑いながらも、シルフィが作った、可憐な氷の冠を、ギルに手渡した。
ギルは、不満そうな顔で、それを、自分の巨大な頭に、ちょこんと乗せた。
「…何、その、悪ふざけは」
レイラの、美しい眉が、わずかに、ひそめられる。
『ギル、始めろ』
ノクトの指示を受け、ギルは、近くに落ちていた、氷の彫刻の欠片を、三つ、拾い上げた。
そして、おもむろに、ジャグリングを始めた。
もちろん、彼に、そんな器用な芸ができるはずもなかった。
氷の欠片は、彼の巨大な手の中で、あちこちへ、ぶつかり合う。
一つが、彼の腹に当たり、ぽん、と跳ねる。
もう一つが、彼の頭に当たり、かん、と音を立てた。
それは、芸ですらなかった。
ただの、不器用な巨漢の、滑稽な、一人遊びだった。
「…やめなさい」
レイラの、冷たい声が、響く。
「そのような、醜悪な動き、私の世界で、許されると思っているの?」
彼女の完璧な世界は、ギルの、あまりにも不格好な動きによって、汚されていく。
その時だった。
ギルは、ついに、最後の欠片を、取り落とした。
彼は、それを拾おうとして、巨体で、バランスを崩した。
そして、すとん、と、尻餅をついた。
頭の上の、氷の冠が、斜めに、ずれる。
彼は、きょとんとした顔で、アイリスを見上げた。
その姿は、威厳も、強さも、何もなかった。
ただ、巨大で、不器用で、そして、どうしようもなく、情けない、大きな子供のようだった。
レイラは、その姿を、見てしまった。
彼女の、氷の仮面が、ピシリ、と、音を立てて、ひび割れた。
醜い。
不格好だ。
完璧ではない。
私の世界に、ふさわしくない。
だが。
だが。
「な…な…」
彼女の白い頬が、一気に、朱に染まる。
「か…かわ…」
彼女は、自分の口から、信じられない言葉が漏れるのを、止めることができなかった。
「…かわいそうじゃないのっ…!」
その瞬間、
『よし。
レイラの脳裏では、もはや、戦闘のことなど、どうでもよくなっていた。
あの、情けない巨漢を、保護しなければ。
そして、私のコレクションに、迎え入れなければ。
彼女の、完璧なコレクションの中に、初めて、不格好で、みっともない、一体の人形を、加えたくなったのだ。
ノクトは、一人、塔の自室で、頷いていた。
(どんな完璧なコレクションにも、一つくらい、みっともなくて可愛いものが欲しくなるものだ。人間の心理とは、実に単純なゲームだな)
戦わずして、勝つ。
彼の歪んだ作戦は、またしても、完璧な成果を上げようとしていた。
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