第3話:午前二時のヌカコーラ(メントス爆弾版)
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### 第三話
時計の秒針だけがやけに大きく響く静寂。
キッチンカウンターに肘をつき、私はスマートフォンの画面をただ無心に眺めていた。今日の午後、夫のジャケットからふわりと香った、知らない香水の匂い。一度ならず、二度までも裏切られた。もう、驚きもしない。
『今日は大事な会食で、終電になるかも』
ああ、まただ。
怒りよりも先に、冷たい諦めが心を覆う。涙はもう出ない。その代わり、私の内側では静かで、もっと禍々しい何かが最終形態へと仕上がっていた。
私はおもろに立ち上がると、戸棚の奥から「それ」を取り出した。レトロでポップなラベルに書かれた文字は「**Nuka-Cola**」。終末の飲み物。
「私たちの今に、ぴったりじゃない」
乾いた笑いが漏れた。私はそれをキンキンに冷やし、一番良いロックグラスにたっぷりの氷を入れた。まるで、大切な客をもてなすかのように。
午前2時過ぎ。
ガチャリ、と鍵の開く音がして、酔いと罪悪感をない交ぜにしたような足取りで夫が帰ってきた。
「ただいまー、遅くなった…。いやー、大変だったよ、今日の会議は」
わざとらしいほど明るい声。その嘘くささに、私の表情筋はぴくりとも動かなくなる。
「おかえりなさい」
声が、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
夫は上着をソファに放り投げると、ネクタイを緩めながらキッチンにやってきた。
「あゝ喉が渇いたな!何か冷たいもの…」
そこで彼の言葉が止まる。テーブルの上に、水滴をまとって鎮座する一本の瓶と、氷の入ったグラスに気づいたのだ。私の、ささやかな「おもてなし」に。
「お、用意してくれたのか?悪いな」
夫はまだ、何も気づいていない。ヘラヘラと笑いながらグラスを手に取ろうとする。
「仕事じゃないよね?」
私の静かな、しかし刃物のような問いかけに、夫の動きが止まる。
彼がゆっくりと私の顔を見た瞬間、その顔から笑顔が消えた。
そこにいたのは、いつもの妻ではなかった。私の顔から、一切の感情が抜け落ちていた。目は瞬き一つせず、ただ夫という獲物を見据えている。口元は真一文字に固く結ばれ、眉間には深く、険しいシワが刻まれている。まるで地獄の門の前に立つ、憤怒の形相をした仁王像のようだった。
しかし、彼の危機管理能力はその程度だった。気まずい沈黙を破るように、彼はテーブルの上のコーラに視線を逃がした。
「あれ?変わったコーラだね?見たことないな」
そう言うと、何を思ったかスマートフォンを取り出し、**パシャリ**、と写真を撮った。SNSにでも上げるつもりなのだろうか。その信じられないほどの鈍感さに、私の怒りは沸点を突破し、そしてーー消えた。
代わりに現れたのは、完璧なまでの無表情。
だが、夫がもし鏡を持っていたなら、そこに映る私の顔を見て腰を抜かしたに違いない。
口角だけが、ほんのわずかに、皮肉な三日月の形に吊り上がっていたのだから。目が、全く笑っていない笑顔ほど恐ろしいものはない。
「あんた、よく見なさいよ」
私の声には、もう何の温度も乗っていなかった。
「それ、コカ・コーラじゃなくて!**ヌカコーラ!**」
「ぬか…こーら…?」
夫は間の抜けた声でラベルの文字をたどたどしく読み上げる。そして、私の次の言葉に、彼の顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
「**Nuclearコーラだよ!** もううんざりだわ!」
夫は弾かれたようにスマホを手に取り、震える指で「ヌカコーラ」と検索した。画面に表示されたのは、核戦争後の荒廃した世界、放射能、ミュータント…そんな絶望的な言葉の数々。
ああ、終わった。彼は直感した。ベロベランダで晒された時とも、鍵穴に捕らえられた時とも違う。これは、本当の終わりだ。
彼はスマホの画面と、テーブルの上のボトル、そして地獄の裁判官のように静かに佇む私を、何度も何度も見比べた。
コーラの瓶が、ただの飲み物ではないことに、ようやく気づいたのだ。
それは、嘘で汚染され、崩壊寸前の私たちの関係そのもの。
一口飲めば、もう後戻りできない、放射能汚染された未来への招待状。
「…ごめん」
夫が何かを言いかけた時、私はリビングの隅に置いていたボストンバッグを静かに持ち上げた。
「そのコーラ、あんたにぴったりでしょ。どうぞ、ごゆっくり」
「…待ってくれ」
「なあに?」
私は悪魔のように、完璧な笑顔を彼に向けた。
「そうそう、さっき電話があってね。**あなたのご両親にも、爆弾発言しておいたから**」
夫の顔が驚愕に固まる。
「あなたの浮気のこと、ぜーんぶ。…ああ、安心して。ただの爆弾じゃないわ。よーく振って、混ぜておいたから。ふふふ」
私の言葉の意味を理解した瞬間、夫の顔は絶望に染まった。
私はそんな彼に、最後のとどめを刺す。
「**そのコーラ、メントス入りよ。** ハハハ!」
甲高い笑い声が、静まり返った部屋に響き渡る。
夫は凍りついたまま、何も言えなかった。彼の目の前には、いつ噴出するかわからない爆弾(ヌカコーラ)と、もう二度と元には戻れない家族関係、そして取り返しのつかない現実だけが残されていた。
こうして、二人の間に、静かで、しかし爆発寸前の核の冬が訪れた。
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