蛹化

壱原 一

 

老いらくの体力作りに、夫と連れ立ち早朝の散歩を続けて早6年。


漸く残暑が和らいで歩き易くなってきた先日、帰路の半ばに接する小高い杉林のきわで、奇妙な遺留品を見付けた。


白黒写真とカップ酒だ。


際の1本の根元の、ふかふか湿った黒土に、もっともらしく据えてある。


前夜、その辺りで、若者達が嬌声と共に花火へ興じる音が聞こえていた。遺留品の正面の、歩道との境付近に、蝋と焦げの跡が付いている。


一帯には居ない世代なので、帰省とか通りすがりとか、住人でない手合いだろう。彼等が置いて行ったのか。


我知らず目を留めた私に隣の夫が気付くや否や、興味を引かれた犬猫よろしく「何だこれ」と吸い寄せられ、まじまじ観察し始めた。


*


「何だろ。ごみかな」と応じつつ私も寄り添って眺める。


写真はふちが黄ばんでいて、民家の食卓の上へ、透明プラスチック製の箱型の虫かごが、長辺を手前に置かれているのが、ほぼ水平に捉えられている。


虫かご内部の底面には、複眼を黒々と艶めかせた蝉が1匹、左向きで体側を晒している。


一方のカップ酒は、封が完全に開いていて、中に酒か水か分からない透明の液が満ちている。


細かい土くれが散った水面に、羽化に失敗した蝉の蛹が、傷んだ焦げ茶色を映して浮かんでいた。


此れはごみでは無さそうだ。


早々帰路へ戻るべく足を引いた私と裏腹に、夫が「んん?」と唸って、ひょいと写真を摘まみ上げた。


「何なんだこれ。意味わからん」


不満げに顔へ近付けて睨み、続けて裏へ返す。


裏にはフェルトペンの筆致で日付と人名が書いてあった。文字は経年の退色で薄い赤茶色にかすれている。


反射的にそうと見て取りながら読み終えた右下の隅に、親指の先ほどの寸法で切り抜かれた人の顔写真が貼られている。


不鮮明なカラー写真で、背景は少しの緑と空。


およそ10代に見える人が、やや傾いて顎を引き、眩しそうに顔をしかめている。


縁から食み出した糊の跡が、これもまた黄色く変色していて、随分むかしに貼られたと窺われた。


「ちょっと。変なの。もう置いといて。帰ろう」


我ながら渋い口調で夫の腕に触れ促すと、夫も関心を切り上げて「うん」と速やかに写真を戻す。


「おまじない?流行ってるのかな」「昔□□とかあったよね」とさざめく余韻をなした後は、朝ご飯の卵料理を何にするとか、今日もお洗濯日和になりそうとか、いつも通り話して帰宅した。


全くいつも通りで、何ら違和感は無かったが、どう考えてもその時から夫の様子がおかしくなった。


*


思い返すと、家へ着いて夫が玄関のドアを開け、押さえて待ってれた時、「ありがとう」と私が通っても、更に誰かを待つように暫し俯いて立って居た。


「どうしたの」と訊ねる前に、自ら入って閉めたけれど、寸前、微かに後部を見て、傍らをなぞって顔を上げ、まるで待ち受けていた人が入ったのを見届けた風だった。


虫でも居たかなと思ったのが、今になって良く想起される。


何気なく朝食を終えて、常の如く日中を過ごし、ぼちぼち日の傾いたその夕、夫は縁側に面した仏間で、窓に背を向けて正座し、上体を伏せてうずくまっていた。


両脇を締めて手を合わせ、胸の下へ収めて、こんもりと背中を丸めて微動だにしなかった。


暮れゆく夕日の茜を受けて、赤茶の影になる姿は、さながら羽化を待つ蝉の蛹。


てっきり自室に居るとの合点の下、仏間でしゃかしゃか鳴る音を不審に覗き込んだ私は、突如目にした夫の異様に、息を丸呑みして踏鞴たたらを踏むほどしたたかに肝を潰した。


しゃかしゃかと畳を掻く音は、夫の尻の傍からしていた。


赤々と夕焼けに照らされ、濃い陰影が落ちる仏間の最中、じっと蹲る夫の、湾曲した腰の斜め下から、ついぞ音源の分からぬ音がしゃかしゃか素早く鳴っていた。


拳サイズの1対が、大体おなじ距離と幅で、しゃかしゃか、ざっ、しゃかしゃかしゃかと、交互に前から後ろへ滑る。


前方で軽くのめってはれ、勢い良く立ち消えるその音は、靴下を履いた両足が、忙しく畳を蹴立てて、一心に前へ踏み出すさまを否が応にも想像させた。


とても身軽で、活発な、10代くらいと思われる。


それが夫の背後から、覆い被さる風に組み付いて、中へ中へと分け入って、夫へ“潜り掛けている”。


背を割って殻を脱ぐ工程を、遡って戻り行くように、朽ちた自らの殻を置き、夫を自らの殻にして、途絶した道を外れた先へ、進み直そうとしている。


蛹化ようかしようと試みている。


あさ見た死した蝉の蛹が印象に残っていた所為か、夫の奇態と相俟あいまって、これはそういう事なのだと自明の様に確信され、怒りと、拒否感と、おぞましさが、一挙に逆巻いて身が震えた。


駆け込んで側に膝を突き、取りすがって呼び揺さ振る寸前、夫が伏せて静止したまま、普段の低く太い声で、「良いの?失敗しちゃうよ」と、似ても似つかない調子で言った。


失敗したら死んじゃうよ。


良いの?邪魔したら死んじゃうけど。


「絶対良くないだろう」と見透かして威圧する声だった。


瞬発的な激昂と、一筋の躊躇と警戒に、狂おしくたじろぐ合間にも、足踏みはどんどん狭まって浮上し、摩擦の加減を弱めて行く。


悔しく、じれったく、何としてでも選びたい正しい対処が分からない息詰まる不安を振り切って、「見過ごせるか」と手を上げて平手で夫の背を打った。


*


止めなさい、出て行け、どっか行けと、怯える声を励まして叫び立てながら打っていると、夫は間も無く身をらせ、がばっと起き上がり私を呼んだ。


それしか言葉が出ないかの如く、挑む私を何度も呼んで、両手を覆って捕まえた。


私と区別が付かない位、全身でぶるぶると震え、互いの震えを押し止めるように私を引き寄せて抱き込み、息を切らせて泣き出す私の頭や背をさすってなだめる。


私の肩口に鼻先を埋め、いで脇へ逸れて鼻を鳴らし、もう何十年振りの事なのか、ふすふすとしゃくりを堪えながら、少し泣いていたらしかった。


*


翌朝の散歩の帰り道、同じ場所に写真が無かった。写真が置かれていた跡の手前で、カップの中の蝉の蛹が静かに液に浮かんでいた。


明くる朝の散歩の時には、同じ場所にカップも無かった。


胸に去来する感慨に、私はぐっと口角を結び、すっかり落ち着いた風情の隣の夫を盗み見た。


最近夫は新しく始めた庭いじりに精を出している。


時折わたしを誘ってくるが、虫でも掘り返したら厭だから、私は頑固に断っている。


そんなの如何どうにでもなるのにと、拒むたび夫は快活に笑う。


溌溂と元気なその笑みを、仏間で畳を撫でながら、私はじっと見詰めている。



終.

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蛹化 壱原 一 @Hajime1HARA

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