第5話 仮面舞踏会の獣たち

### 第一幕 光の海に咲く影


東京、ホテルオークラ――。その大宴会場は、夜になると別世界の様相を呈する。

天井から降り注ぐシャンデリアの幾千もの光は、磨き上げられた大理石の床に煌めく星屑を散りばめ、まるで深淵の湖面のように艶やかに輝いていた。政財界の重鎮たち、名だたる文化人、そして国外から招かれた外交官までもが、この夜の饗宴に顔を揃える。女たちの纏うイブニングドレスは、一つ一つが息を呑むほどに美しい宝石さながら。高貴な香水とシャンパンの甘やかな香りが溶け合い、祝祭的な空気を濃厚に、しかしどこか虚ろに漂わせている。


――これこそが、上流社会が、自らの腐敗を隠すため好んで見せつける、虚飾の饗宴。

影山菖蒲は、会場の奥に設えられた姿見のガラスに、自らの姿をふと映した。


深い藍に黒の糸を織り込んだ着物風のドレス。胸元は大胆に開かれているが、帯のように凛と結ばれたリボンが、確固たる品格を漂わせている。洋の宴に、敢えて和を強く刻み込むその装いは、彼女の揺るぎない意志そのものだった。

周囲の「華やかさ」を競い合う令嬢たちの群れにあって、菖蒲の佇まいはどこか冷ややかで、決して触れることを許さないような、鋭利な美しさを帯びていた。


すでに恭司からの報告は受け取っている。水島豊の資金繰りは、今や限界に近く、この夜の獲物に、我先にと飛びつかずにはいられないはずだ。

菖蒲の瞳は、煌めくシャンデリアの光の下で、静かに、しかし獲物を狙う獣のように細められる。

――今夜、最初の一手を打つ。この仮面舞踏会で。


人々のざわめきが、ふと、奇妙なほどに変わったのは、その時だった。


背の高い男が、漆黒のスーツに身を包み、ゆるやかな、しかし一歩一歩が地面に刻まれるような重みのある歩調で、会場に足を踏み入れる。ネクタイもポケットチーフも、すべてが闇に溶けるような、一切の隙もない黒。だが、その存在感は逆に、異様なほど際立っていた。

竜崎健。

ただ静かに歩みを進めるだけで、周囲の空気の密度が、明らかに変わる。ざわめいていた人々は、まるで一瞬にして呼吸を忘れたかのように彼に視線を奪われ、笑みを浮かべていた口元を固く閉ざした。


菖蒲は、グラスを持つ手をわずかに止めた。

この男の気配は、華やかさで塗りつぶされたこの宴の場には、あまりに似つかわしくない。研ぎ澄まされた鋭い刃をそのまま仕舞い込んだような、危険なまでの沈黙。

だが同時に、何か抗い難い、私を引き寄せる強烈な引力があった。


竜崎の背後には、あの冷静な眼差しをした涼子が控えている。

まるで影が本体に寄り添い、その危険な光を際立たせるように、彼女の気配が健の存在をさらに鮮烈なものとしていた。


「……ようこそ、竜崎様」

声をかけに近づいた令嬢の一人が、健の、凍てつくような冷たい瞳に一瞬で言葉を失う。その場を取り繕うように空虚な笑みを浮かべ、彼から一歩、また一歩と距離を取っていく。

彼はその令嬢を一瞥すら返さず、ただ前だけを、見据えていた。


その冷徹な視線が、ゆるやかに、淀みなく菖蒲のほうへと流れてくる。

瞬間、彼女の胸に、冷たい氷塊を突きつけられたような衝撃が走った。

――見られている。この仮面の奥まで、見透かされている。


周囲に群がる煌びやかな笑みの海の中で、互いの存在だけが、まるで異質な双子のように鮮烈に浮かび上がる。

菖蒲は敢えてグラスを口元に運び、淡々とした仕草で、挑むように視線を返した。

氷のように澄み切った瞳と、宇宙の深淵を秘めたような瞳。

その一瞬の交錯は、会場に流れる音楽や人々の喧騒をかき消すほど、あまりにも濃密で、そして、甘美なほどの緊張を孕んでいた。


「影山嬢……あの方と、知り合いなの?」

隣にいた令嬢が、まるで値踏みするように好奇の視線を投げかけてきた。

菖蒲は薄く微笑むだけで、何も答えない。

ただ、グラスに映る気泡が静かに弾けてゆくのを見つめながら、胸の奥で微かに、しかし確実に熱を帯びていく鼓動を意識していた。


――獣が、仮面を被って集う夜。

今宵、この舞踏会は、必ずや血の匂いを纏うことになる。そして、それは私の手で。


菖蒲は、そう確信していた。


### 第二幕 静かなる入札


宴のクライマックスを飾るオークションが始まった。

会場中央に設えられた壇上に、純白のクロスで覆われた台座が据えられ、司会者が拍子木を鳴らすと同時に、スポットライトが一点を射抜く。


「本夜の目玉――明治期の名匠による、奇跡の屏風絵でございます!」


幕が払われ、金箔を背景に、紅の彼岸花が燃え立つように揺れる大作が、その姿を現した。花弁は見る者の魂を焦がす炎のように艶やかで、見る者の心に妖しげな、抗いがたい影を落とす。


ざわめきがどよめきへと変わり、客席の空気が一層熱を帯びる。

その中心で、欲に濡れた瞳を輝かせているのは、水島豊だった。

彼は恍惚とした目で屏風を見上げ、隣席の取り巻きに耳打ちしては、下卑た、聞くに堪えない笑いを洩らす。


――これだ。

菖蒲の瞳は細められる。恭司から知らされた通り、この屏風は豊がどう足掻いても手に入れたがっていた、まさに垂涎の逸品。だが資金繰りの逼迫した今、これを落札すれば、彼の経営に致命傷を与えることになる。


「開始価格、一千万円!」

司会者の声が、会場に響き渡った。


「一千五百万!」

真っ先に声を上げたのは豊だった。

会場が小さくざわめく。彼が名乗りを上げるのは誰もが予想していたことだが、その声には、すでに焦りが見え隠れしていた。


「二千万!」

別の実業家が、冷静に応じる。


競りは順調に進んでいく――その流れを、まるで切り裂くように、冷ややかな、しかし澄んだ声が割り込んだ。


「三千万」


声の主は、菖蒲だった。

視線が一斉に彼女へと注がれる。

和装ドレスに身を包み、涼やかにグラスを傾けるその姿は、まるで舞台の上に立つ、孤高の女優のように人々の目を奪った。その存在は、このオークションに、一筋の冷たい風を送り込んだかのようだった。


「……影山家の令嬢が、なぜ?」

「彼女が美術品に、そんな大金を?」

囁きが会場を駆け抜け、ざわめきが止まない。


豊の顔が、ぴくりと、不快そうに歪んだ。額に、嫌な汗がにじむ。

「四千万!」


「五千万」

菖蒲は、眉ひとつ動かさずに、淡々とした声で応札する。その声には、一切の感情が宿っていない。


「なっ……!」


当初は余裕を装っていた豊だが、菖蒲の冷徹な、まるで獲物を射抜くような視線に射抜かれるたび、額の汗は明らかに増えていく。その顔は、焦りと苛立ちで赤く染まっていた。

「六千万!」


「八千万」


会場に、再びどよめきが走る。金額の跳ね上がり方が、もはや常軌を逸している。

豊の取り巻きが「社長、冷静に……!」と囁くが、彼はその声が耳に入っていないようだった。

「一億!」


「一億一千万」


菖蒲はわずかに微笑んだ。その唇の端だけが、氷の花のように柔らかく、冷たい光を放っている。


――これで十分。後は、あんたが勝手に自滅するだけ。


「一億一千万でよろしいでしょうか? ……落札!」

司会者の木槌が壇上に打ち下ろされた瞬間、豊の顔は、勝利の昂揚と、現実を突きつけられた青ざめた焦燥が入り混じった、歪で醜悪な笑みに満ちていた。


会場のあちこちから、同情と、あからさまな嘲笑の入り交じる視線が、彼へと容赦なく注がれる。

豊はその全てに気づかぬふりをし、ただ、彼の人生を狂わせるであろう屏風を、凝視していた。


菖蒲はグラスを置き、静かに、そして完全に興味を失ったかのように視線を逸らした。

勝敗は、もうすでに決したのだ。


――母の、そして私の仇へ。第一歩。

胸の奥で冷たい炎が、静かに、しかし確実に燃え立つのを感じながら、彼女はグラスの残りのシャンパンを、唇を濡らす程度に口に含む。


その瞬間、ふと視線の気配に気づいた。

会場の最も奥、闇に溶け込むかのような場所に、竜崎健が立っていた。

彼の眼差しには、驚きも、嘲りも、そして賞賛の感情すら見当たらなかった。ただ、無言の、しかし確固たる“評価”だけが潜んでいる。


菖蒲は視線を受け止めたまま、微かに肩を竦めた。

――どう? これが私の“牙”。あんたが求める資格は、あるかしら?


二人の間に交わされたのは、言葉にならぬ、しかし強烈な挑発と、それに対する深い承認。

その短い一瞥だけで、彼女は確信した。

この夜はまだ終わらない。むしろ、ここからが本当の幕開けなのだと。


### 第三幕 闇より現る声


オークションが終わり、会場は再び歓談のざわめきと、楽団の奏でる軽やかなワルツの調べに戻っていた。

シャンパンの泡が煌めくグラスが行き交う。だがその華やぎの中、水島豊の顔色は、まるで泥水を浴びたかのように暗く濁っていた。


「……影山の、あの小娘が……!」


取り巻きを振り切り、彼は足早に、まるで獲物でも追い詰めるかのように歩く。視線の先には、会場の片隅でグラスを持つ菖蒲の姿があった。

涼しい顔で談笑しているように見えるが、その笑みはまるで氷の膜に覆われているかのように冷たい。


豊は人目を気にしつつも、怒りに駆られ、ついに彼女の前へ立ちはだかった。

「――影山嬢。今夜は随分と、俺を楽しませてくれたな」


「……?」

菖蒲は首を傾げ、静かな、感情の読めない眼差しを向ける。

「何のお話かしら。わたくしには、心当たりがございませんけれど」


「とぼけるなッ!」

豊の声は、怒りで低く、そして切羽詰まったように震えていた。

「お前がさっきやったこと、俺を侮辱したつもりか?! ……この場で俺に恥をかかせて、ただで済むと思うなよ!」


菖蒲は一歩も退かない。その場に、凛と立つ。

「侮辱? 何を仰るのか。わたくしはただ、欲しいものに値をつけたまで。オークションとは、本来そういう場でしょう?」


その冷淡で、有無を言わせぬ声音に、豊のこめかみが、ピクリと不快そうに跳ねた。

「この女……っ!」

今にも声を荒げ、手を伸ばしかけたその瞬間――


「影山嬢にご用ですか?」


背後から、凍るような静かな声が、場の喧騒を切り裂いて割り込んだ。

豊の背筋がぞわりと粟立ち、全身の血が一瞬で冷え切るような錯覚に陥った。

ゆっくりと、恐怖に支配されたかのように振り返ると、そこには竜崎健が、漆黒の夜そのもののような佇まいで立っていた。


黒いスーツの男が、ただ一歩、ゆるやかに踏み出しただけで、周囲の空気が、まるで真空に変わったかのように凍りつく。

その後方には、無言のまま、獲物を狙う狩人のように控える涼子。彼女の眼差しは、鋭利な刃物のように豊を射抜き、逃げ場を、呼吸すら封じる。


「竜崎……」

豊の喉がひくつき、まともに声が出ない。

「い、いえ……私はただ、影山嬢にご挨拶を……その、申し上げようかと――」


「そうか」

健はそれ以上を言わせず、淡々と、感情の乗らない視線を切った。

その一瞥だけで、豊の言葉は喉奥に、無理やりに押し込められた。

怒号よりも、拳よりも強い、底知れぬ圧迫感。豊は冷や汗を拭うように会釈し、まるで蜘蛛の子を散らすように、その場を離れざるを得なかった。


残された空間に、健と菖蒲だけが、静かに立つ。

人々のざわめきが遠くで聞こえるが、二人の周囲だけが、まるで時間が止まったかのように不自然に静まり返っていた。


「……お手を煩わせてしまったようで」

菖蒲が口を開く。声はあくまで冷ややかだが、その指先はグラスを握る力を、わずかに、しかし確実に強めていた。


「気にするな」

健は短く答え、視線を会場の喧騒に滑らせる。

「ここは騒がしい。少し、外に出よう」


返事を待つことなく、彼は歩き出した。その背には、有無を言わせぬ支配者の気配。

菖蒲は一瞬躊躇したが、結局その背を追った。

まるで導かれるように――いや、抗い難い運命に、魂ごと引き込まれるように。


扉を抜けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。

バルコニーには誰の姿もなく、東京の街の灯りが、遥か遠くで、寂しく瞬いている。

シャンデリアの光から完全に離れたこの場所で、ようやく二人だけの、張り詰めた空気が生まれた。


菖蒲は心の奥で、己の鼓動がひときわ強く、運命の鐘のように打ち鳴らされるのを感じた。


――ここから先、もう後戻りは、できない。


### 第四幕 牙を持つ者


バルコニーに出た瞬間、菖蒲の耳に、冷たい夜風がざわりと吹き抜けた。

肌を撫でる冷気が、熱を帯びた頬の火照りを冷ましていく。シャンデリアの眩さから解放された瞳は、瞬く間に東京の夜景を映し出す。遠く霞むビル群の灯が、まるで星のように、あるいは監視の目のように瞬いていた。


背後で、カチャリ、と扉が閉まる音。

竜崎健が静かに立つ。会場で纏っていた黒の気配は、外の闇の中でより一層濃くなり、まるで夜そのものが人の姿を取ったかのようだった。圧倒的で、そして底知れない。


「……お気遣いありがとうございます」

菖蒲は視線を夜景に向けたまま、落ち着いた声で言った。

「ですが、あの程度の男、わたくし一人で、どうにでもできましたのに」


その口調には、彼を突き放す、明確な響きがあった。だが、グラスを持つ手がかすかに震えていることを、自分自身が最もよく知っている。


「そうだろうな」

健の声は低く、夜気に溶けていく。まるで、菖蒲の内心をすべて見透かしているかのように。

「だが――『黒田』の名が出た以上、もはや君一人の、子供じみた遊びではない。」


菖蒲の瞳が、わずかに、しかし鋭く揺れた。

黒田義信。前世でも彼女の家を追い詰め、絶望に突き落とした真の黒幕。

その名を、健の口から、何の躊躇もなく聞くことは、彼がすでに事の核心を、私自身より深く把握している、何よりの証だった。


「……なるほど」

菖蒲は小さく息を吐き、視線を彼に移した。その瞳には、すでに迷いは宿っていない。

「では、あなたは、この舞踏会に獲物を狩りに来たのではなく、私を品定めに来たと?」


健はわずかに口角を上げた。笑みとも冷笑とも、あるいは興味を秘めた観察ともつかぬ表情。

「品定め? 違うな」

彼はゆっくりと菖蒲に歩み寄り、その眼差しを真っ直ぐに、彼女の魂の奥底まで射抜くように向けた。

「俺はパートナーが欲しい。単なる傀儡ではない。この俺と対等に、牙を剥き合えるような、本物のパートナーだ。……お前には、その資格があるのか?」


空気が、まるで刃で切り裂かれたように張り詰める。

夜風すら息を潜め、二人の間に横たわる、僅かな距離だけが、鮮烈に、暴力的に意識される。


菖蒲は心の奥で、微かに、しかし全身を駆け巡るほどの震えを感じた。

この男の言葉は甘い誘いではない。牙を突き立て合う者同士の、危うく、そして極めて刺激的な契約の打診。

利用し合う同盟――その一歩を、今、この場で踏み出せば、もう二度と、前世の平和な日々にも、自らの過去にも、そして平穏な未来にも、後戻りはできない。全てを、差し出すことになる。


「……牙があるかどうか、ですか」

菖蒲は小さく、挑むように笑った。

その笑みには、震える少女ではなく、冷酷な復讐を誓う女の、研ぎ澄まされた強さが宿っている。

「ええ。では、この身をもって、確かめてみますか? 竜崎様。」


健の瞳が、さらに深く、しかし愉悦を湛えるように細まる。

二人の間に、まるで熱を帯びた刃が触れ合うような、濃密な沈黙が流れた。

次の瞬間、彼は小さく、深く頷いた。

「……面白い」


その言葉が合図のように、夜風が再び、二人の間を吹き抜ける。

互いの胸に去来するのは、敵か味方か定め切れぬ、研ぎ澄まされた緊張と、言葉にならぬ、しかし抗い難い微かな熱。それは、まるで運命の糸が絡みつくような、確かな予感。


――これが、共犯者としての、血塗られた始まり。


菖蒲は、心の奥でそう呟いた。


やがて二人は、何事もなかったかのように、静かに会場へ戻っていった。

だがその背を、複雑な、そして凍てつくような眼差しで見つめる女性の姿があった。


藤原綾子。

竜崎家との縁談が囁かれる、この夜会のもう一人の主役とも呼べる令嬢は、シャンデリアの下で完璧な微笑を浮かべながらも、目だけは、バルコニーから戻った二人を、鋭く、そして獲物を捉えるように追っていた。


――竜崎様が、影山菖蒲と? まさか……。


彼女の胸に芽生えたのは、驚きと、激しい困惑。そして、底なし沼のように抑えきれぬ、嫉妬という名の、鋭い棘。

その視線が、すでに次の嵐を予感させていた。


### 第五幕 届いた声


翌朝。

窓辺のカーテンから差し込む朝日が、白いシーツの上を淡く、優しく照らしていた。

菖蒲は机の上に置かれた資料をめくりながら、昨夜の夜会での出来事を、まるで幻を辿るかのように反芻していた。


――竜崎健。


あのバルコニーで交わした言葉の全てが、鮮明に脳裏に焼き付いている。

「牙を持つパートナー」という彼の提案は、菖蒲にとっても、決して軽いものではなかった。

もし受け入れれば、彼女の計画は、確かに、想像を絶する速さで進むだろう。しかし同時に、彼の鋭すぎる牙に、いつか自分の喉を裂かれるような、抗い難い危険も孕んでいる。


ペンを回す指先が、わずかに、震えた。

前世の自分なら、きっと迷わず、恐怖に駆られて拒絶していただろう。

だが今は――。私の心の奥で、確かに何かが揺らいでいる。彼という存在が、冷徹な復讐心だけでは測れない、未知の波紋を広げている。


そんな時。机の隅に置いてあった携帯電話が、かすかに、ブルッと震えた。

画面に表示された、あの男の名前を見て、菖蒲の瞳が、ふと、しかし強く細められる。


――竜崎健。


心臓が、一瞬だけ跳ねた。それは、恐怖か、それとも――。

彼がこちらに、直接連絡を寄越すのは、これが初めてのことだった。


ためらいが、一瞬、心を過る。しかし、すぐにそれを押し殺し、通話ボタンを押した。

耳に届いた声は、夜会で耳にした、あの低く、それでいて私の魂を揺さぶるような響きを秘めた声そのままだった。


『おはよう、影山嬢。昨夜は、よく眠れたか』


平静を装いながらも、菖蒲の胸の奥で、熱がじわりと、静かに広がる。

「……ええ、おかげさまで。竜崎様こそ、随分と早いご挨拶ですこと」


『礼儀だ。俺は、用件を先延ばしにしない主義でね。特に、面白そうな話は、な』


短い沈黙の後、彼は核心を突く。

『黒田の動きについて、今夜、詳しく話したい。直接会おう』


菖蒲は机上の資料に目を落とした。黒田の名前が、赤いマーカーで印をつけられたページに、まるで血の文字のように浮かんでいる。

――避けられぬ相手。だが、その戦いを共にするかどうかは、まだ、この心で決めきれない。


「……場所は?」


『君の選ぶところでいい』


即答だった。

まるで主導権を委ねるかのような言葉。しかし菖蒲には、彼の真意が痛いほどわかっている。これは試しだ。

彼が本当に譲る気などない。ただ、私がどう動くか。どう牙を剥くか。それを見極めようとしているのだ。


菖蒲は小さく、挑むように笑みを浮かべた。

「では――決まり次第、ご連絡いたしますわ」


『ああ。楽しみにしている。お前の、次の手もな。』


通話が切れ、部屋に再び静寂が戻る。

菖蒲は携帯を机に置き、深く、長く息を吐いた。


胸の奥に生まれたのは、不安と、そして抑えきれない高揚感。

危険な取引を前にした時の、あの独特の昂ぶり。それは、生きている、と実感させる、抗い難い熱だった。


「……竜崎健」


名を呟き、菖蒲は窓辺に歩み寄る。

ガラスの向こうに広がる青空は、何事もなかったかのように澄み切っていた。

だが彼女の内心は、もう二度と、あの頃の静けさを取り戻すことはできない。


――これは、ただの取引ではない。

もっと深く、そして甘美で、抗えぬ渦に、私は、もう足を踏み入れてしまったのかもしれない。


彼と交わした言葉が、頭から、心から、離れなかった。


「牙を持つパートナー」


その響きが、まるで魂を縛る、抗いがたい甘美な呪いのように、菖蒲の心を、完全に支配していた。

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