第3話 雨夜の邂逅
### 菖蒲視点
夜の麻布十番。
秋雨は細く、途切れることなく降り注いで、石畳の路地を静かに濡らしていた。街灯の下では、水滴がレンズみたいに光を反射して、まるで無数の瞳が私を見張ってるみたいに、キラキラ瞬いている。その光景は、まるでこの世の醜悪さから切り離された、幻のような美しさと、同時に、私を誘う不吉な輝きを放っていた。
影山菖蒲は、画廊での催しを終えたばかり。玄関前に控えていた運転手に「少しの間だけ待っていて」って声をかけた。驚いたように運転手が顔を上げたけど、私は柔らかな笑みを添えて「気分を変えたいだけだから」と告げると、手にした黒い傘を開いて、ひとり、夜の路地へと足を踏み出した。
第二章での晩餐会――あの完璧な仮面の微笑みと、玲奈と豊に向けた、神経をすり減らすような言葉の駆け引き――その途方もない緊張が、まだ胸の奥でざわめきを立てていた。
そのざわめきを、この冷たい雨に全部沈めてしまいたかった。全身が濡れることで、余分な熱とか、嫌な感情とかを、ぜんぶ洗い流したかったんだ。
_……前世の私は、ただ何も疑わず、能天気に笑ってた。結果は、餓死っていう、あまりにも惨めな最期。_
_今生では違う。仮面を被るのは、もう、愚かさを隠すためじゃない。復讐のため。この命、賭けるわ。_
傘に打ちつける雨音が、ドクンドクンと鼓動みたいに響く。足元には、夜の街に取り残された落ち葉が、雨水と一緒に、溝に押し流されていく。まるで、私の過去の因縁が流されていくかのように。
ふと、背後で靴音が響いた。
雨に掻き消されそうなその足音は、だけど確かに私の歩みに重なって、じりじりと、獲物を狙うかのように近づいてくる。
_……嫌な気配。これ、まさか……? もう、来たというの?_
次の角を曲がった瞬間、二人、いや三人か。黒い影が、行く手を塞ぐように路地を横切った。振り返れば、背後にも人影。あっという間に四方を囲まれる。
男たちは革ジャンやスーツに身を包んでて、手首からは露骨に刺青が覗いてる。粗野な笑みと、生臭いような酒気が雨の匂いに混じって、湿った夜気を一層不快なものにした。
「お嬢さん、こんなとこで一人とは危ねぇなぁ」
「送ってってやるよ。俺たちのクルマでな、へへ」
私は傘を握る手にぐっと力を込め、視線を逸らさずに男たちを見据えた。
心臓は、警鐘みたいに早鐘を打ってる。けれども、前世で味わった、腹の底から凍りつくような飢えと、誰にも助けられない孤独に比べれば——こんな恐怖なんて、取るに足らない。もう、二度と、誰かの言いなりになる、無力な自分には戻らない。
「……結構です。道を開けてください」
毅然とした声。令嬢としての矜持が、私の最後の仮面を守っている。
だけど次の瞬間、男の一人が傘を乱暴に弾き飛ばして、冷たい雨が容赦なく全身を打った。
「いい子にしてりゃ、痛い目は見ねぇよ」
腕を掴まれ、細い身体が無理やり引き寄せられる。
私は思わず抵抗して、爪で男の手を引っかいた。血が滲み、男が「この女ッ……!」と、忌々しげに罵声をあげる。
別の男が背後から腕をねじり上げる。鋭い痛みが走り、息が詰まる。
雨水が頬を伝って、視界が滲んでいく。
_やはり力では敵わない……。でも、だからって屈してたまるか。前世みたいに、ただ無様に奪われて終わるわけには、もう、絶対にいかない。この命が尽きるまで。_
足掻くように踵で相手の脛を蹴りつける。男が「うっ」と呻いた一瞬、腕が解放される。だけど次の瞬間には、別の手が私の髪を掴んで、地面に引き倒そうとした。
その刹那——。
トンネルの奥から、複数の車のヘッドライトが、まばゆい光を放ちながら滑り込んできた。その眩い光に、覆面の男たちが一瞬、たじろぐ。漆黒の車数台が、無駄のない、流れるような動作で横付けし、訓練された人影が、音もなく降り立った。まるで、闇の中から現れた、救済の使者のように。
「組長のご指示です」
冷徹な、しかしどこか安堵させる声とともに、榊原涼子が現れる。その鋭い、一切の無駄がない視線は、瞬く間に状況を完全に制圧した。彼女の部下たちが迅速に動き、覆面の男たちは、抵抗する間もなく、まるで人形のように押さえ込まれていく。
バン、と、車の扉が開かれる。涼子が、雨上がりの冷たい空気を纏い、菖蒲を見下ろす。その瞳には、冷静さの中に、微かな、しかし確かな安堵の色が宿っている。
「こちらへ。安全な車へ移動していただきます」
その一言に、菖蒲は、すべてを理解した。
これは、決して偶然なんかじゃない。竜崎健が、既に、私の動向を読んで、私の命を、この竜崎健が、護るために、動いていたのだ。
胸の奥で、生々しい死の恐怖と、奇妙な、そして抗い難い「救済」への安堵が、複雑に、そして激しく絡み合った。
### 竜崎健視点
同じ時刻、港区の高層ビル最上階。
ガラス窓を伝う雨滴の向こうに、夜の東京が、まるで水彩画のようにぼんやりと揺らめいていた。
竜崎健はソファに腰を下ろし、グラスの中で氷が静かに溶けるのを、無表情に眺めていた。
テーブルに置かれたスマートフォンが、微かに、ブルッと震え、即座に涼子からの報告が入る。
「影山家の令嬢が、麻布十番で、黒田側の人間と思われる輩に襲撃を受けています。」
健の瞳が、微かに、しかし鋭く細まった。
事前に「観察を続けろ」と命じていたのは、決して気まぐれなんかじゃない。
影山菖蒲という存在が、いずれ自分の、この巨大な計画に、深く、そして決定的に絡むと、彼の本能が、そう直感で告げていたからだ。
「人数は?」「四、五名。素性は極道風。背後に、あの黒田の影があるかと。」
黒田義信——政財界の裏に巣食う、最も厄介な男。
いま自分が進めている「洗白」の道において、確実に、そして最も邪魔になる人物だ。
_……影山家の娘が、こんなタイミングで襲われる。それが、偶然なわけ、ないだろう。_
健の脳裏に、第二章での、あの「仮面舞踏会」で見た、菖蒲の瞳の奥に潜む“影”が鮮烈に蘇る。あの娘は、ただの飾りではない。
健はグラスを置き、低く、しかし、一切の反論を許さぬ、絶対的な命令を命じた。
「すぐに救出しろ。影山菖蒲嬢を、無事に確保し、こちらへ、連れてこい。」
無表情のまま下された命令に、涼子の返答は、一切の迷いなんかなく、ただ「かしこまりました」と即答した。
切れた通話の後、健はゆっくりと、まるで自分の内なる感情と向き合うかのように、背凭れに身を沈める。
_彼女は、ただの令嬢ではない。_
晩餐会でのあの立ち振る舞い。表面上は淑やかでも、その瞳の奥には、鋭い刃を隠していた。
それは、権力に盲従するだけの、凡庸な娘には決して宿らぬ光。そして、自分と同じ、闇を背負う者の、証。
興味——もちろん、それもあった。
だがそれ以上に、影山菖蒲の存在を軽視すれば、自分の、この壮大な計画そのものが、狂う可能性があった。いや、狂わせてはならない。
_ならば、利用するまで。_
_彼女の敵は、俺の敵でもあるのだから。_
だが、その冷徹な計算の裏で、健自身も理解できない、ある種の、不快な焦燥感が、彼の胸を掻きむしっていた。彼女が傷つくことへの、本能的な抵抗。
窓を叩く雨音が強まる。
竜崎健は目を閉じ、静かに、次の、そのまた次の手を、そして、彼女の存在が織りなす、新たな運命の糸を思い描いた。
### セーフハウス・双視点
黒塗りの車列は、濡れた舗道を静かに、しかし流れるように滑っていった。
影山菖蒲は後部座席に身を預けながら、まだ冷えきった指先をぎゅっと握りしめていた。雨で重くなった髪が肩に張りつき、衣服からはじわじわと冷気が滲み込んでくる。
窓の外は雨脚が途絶えず、東京の夜景は、まるで涙に滲んだようにぼやけて揺らめいていた。
榊原涼子が正面の席に控えていたが、その無表情は一切揺るがない。
私は問いかけることを選ばなかった。――ただ、これから待ち受けるものを、呼吸を整えながら、まっすぐ、覚悟をもって迎え入れるしかない。
やがて車は港区の一角、人気のないビルの地下駐車場に滑り込む。
案内されるまま進んだ先には、モダンで無機質な空間が広がっていた。
シンプルなソファ、ガラスと鋼で組まれたインテリア、壁際には抽象画が一枚。そこには、権力者の「余裕」と「計算」、そして底知れぬ「闇」が、嫌というほど同居していた。
そして、その空間の中心に、彼がいた。
竜崎健。
漆黒のシャツにジャケットを羽織り、足を組んだ姿は、威圧感というよりも、まるで研ぎ澄まされた刃のような、圧倒的な静けさを纏っていた。
彼の眼差しがこちらを射抜いた瞬間、私は思わず呼吸をひそめる。まるで、魂の奥底まで見透かされたかのように。
「……初めまして、影山菖蒲嬢」
その声は低く、雨音の余韻をずっと引きずるみたいに、私の心に、ズンと、しかし確かな衝撃を与えながら落ちてきた。
### 菖蒲視点
冷えた身体を覆う毛布が差し出される。思わず受け取ったけど、胸の内では警戒心が、まるで嵐のように渦巻いていた。
_なぜ助けたのか――。それを、ちゃんと、この私の口で、問いたださなきゃ。_
「……どうして、わたくしを、救ったのですか」
声がわずかに震えたのは、寒さのせいだ、と自分に言い聞かせる。決して怯んでなんかいない。
竜崎は視線を逸らさず、まるで真実を告げるかのように、淡々と答えた。
「理由は単純だ。君には“価値”がある。そして、君を狙った連中は――俺の敵でもあるからだ。」
短い言葉。だけどその奥には、明確な利益と、冷徹な計算が、透けて見える。
私は唇をきゅっと結び、視線を伏せた。
_利用……そのつもりなのね、竜崎健。でも、私も同じ。あんたの力を、ただ利用されるだけなんて、絶対にしない。無駄にも、しないわ。この命、賭ける。_
### 竜崎視点
少女は濡れた睫毛の影で表情を隠していた。その姿は、一見するとか弱く、折れてしまいそうに見える。
恐怖を必死に押し殺し、冷静を装う——その在り方に、健は、奇妙な、しかし抗い難い親近感を覚えた。まるで、過去の、自分自身の姿を見ているかのように。
「黒田義信の名を、耳にしたことはあるか」
問いかけに、菖蒲の肩がわずかに強張る。その反応は、彼にとって十分だった。
襲撃の裏に黒田が関わっている可能性を、彼女自身が理解していると、それで証明されたからだ。
「今後も君は狙われるだろう。単独で動くのは、あまりにも無謀だ。あの夜のように、命を落としかねん。」
健は淡々と告げた。
それは提案というより、明確な警告。
だけどその口調は、どこか、「私と共に歩め。この竜崎健と共に、生き残れ」と、暗に、しかし力強く促すものでもあった。
### 菖蒲視点
温かい紅茶の香りが、冷えきった指先に、じんわりと感覚が戻り始めたのと重なる。その温かさが、心の奥底に染み渡る。
――竜崎健。
その名は、ただの裏社会の組長なんかじゃない。今後の自分の運命を、大きく、そして決定的に揺るがす、抗い難い存在として、心に深く、深く刻み込まれていく。
「……考えさせていただきます」
短い返答で、私は彼の視線をまっすぐに受け止めた。
逃げず、怯まず。だけど決して、彼に屈するわけじゃない。あくまで、対等に。
健は、フッと、小さく口角を上げた。その笑みは、彼自身の深淵に秘めた感情が、わずかに揺らいだ証拠。
それは、彼女の選択を急かすものではなく——これから始まる、互いの腹の探り合いと、そして、抗い難い運命の始まりを、静かに愉しむような、そんな笑みだった。
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雨音はまだ、遠くで響いている。
影山菖蒲の胸には、恐怖と同時に、言葉にならぬ、しかし灼熱のような熱が、確かに芽生えていた。
それが、単なる復讐心なのか。あるいは、この闇を背負う男への、もっと別の、抗えない、甘美な感情なのか——彼女自身にも、まだ、分からない。
だが、その熱は、もう、彼女の心の奥底から、決して消えることはなかった。
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