一話/裏通りとアルコール漬けの名文

 三日前、スポーツ店で安売りしていた黒のランニングシューズが、明かりの消えた裏通りに溶け込む。

 表通りのざわめきや車の音に耳を傾けながら、俺は軽く息を切らしながら走っていた。


 振る腕の冷たさに、半袖のTシャツを着たことを後悔する。

 エアコンの効いたオフィスでは気づかなかったが、冬の足音が音もなく近づいていたらしい。


 信号のある十字路で進行を止め、横断歩道の手前をクルクルと円を描くように歩いてみる。

 学校の授業ですぐ止まるなと怒られたことを思い出し、誰もいないからやってみたものの、なんの効果があるのだろうか。


 信号を確認するのと同時に、横断歩道の向こうにある自販機が目に入る。

 炭酸の爽快感を想像し、喉を鳴らしていると、横から女が顔を覗かせた。

 思いがけない登場に点字ブロックの上を重点的に踏み歩いていた足を止める。


 フリルがあしらわれたピンクのワンピースに、底の厚い靴。

 頭の高い位置での2つ結びは、幼稚園児を連想させる。


 俺のような日陰者には苦手なタイプの人間だった。


 向かい側にはコインパーキングがある。

 俺に炭酸飲料の誘惑をしてくる自販機も、そのコインパーキングの敷地内に設置されたものだ。

 コインパーキングの利用客かと思ったが、横断歩道に向かうおぼつかない足取りと手に持った銀色の長い缶を見てその可能性を払拭した。


 点滅する青色を横目に、何事もなかったかのように小さく足踏みをする。


 目の前の信号が放つ青色を確認すると同時に、向かいの女と目が合った。

 脳内で緊急アラートが鳴る。

 安全圏へ逃げるため、うつむき加減で足早に去ろうとする。


「おじさぁん、こんばんわー」

 右腕を優しく掴まれ、アルコールの香りが鼻につく。

 眉間にシワが寄っていることを知ってか知らずか、女は離す気配を見せない。


「月がぁ、ヤバいっすねぇ」

 横断歩道の中心で、アルコールに浸した挙句握りつぶしたような文豪の名文を突きつけられた。


「おじさん、ちょっとぉ、道案内して欲しいの」

 細い指で掴まれた腕が、来た道の方へ少し引っ張られる。


 人をおじさんおじさんと連呼するような、礼儀がなっていない酔っ払いを相手するほど、俺は暇じゃない。


 そう伝えて手を振りほどくか悩んでいると、目の前の信号が点滅を始めるのが見えた。

「はぁ……」

 渋々、横断歩道を引き返した。


 横断歩道の手前まで戻ると、女は腕から手を離す。

「〇〇駅って、どっちですかぁ」

 女は、バス停2個分先にある駅名を口に出した。

「この道をまっすぐ行って、突き当たりを左。そのすぐ右を曲がってまっすぐ行くと大通り。大通りに出たら、ずっと左に行けば着く。結構歩くから、タクシーで行った方がいい」


 女の顔を覗き込むと、案の定ぼんやりとしていた。

「――道、分かったか?」

 俺の問いかけに、頭をユラユラと左右に揺らす女。

 両耳に付いた大量のピアスが、信号の青色を反射し、小さな星のように輝きを放つ。


「えっとね、この辺が迷路だってことは分かりやした!」

 あっけらかんと言い放つ言葉に、ため息を返す。


 俺は、先程まで走ってきた道へつま先を向ける。

「大通りまで、案内するから着いてこい」

 ぼんやりとした目に喜びが満ちる。


「やった!」

 女は、俺の右腕に両腕を絡ませる。

 普段感じない人の温もりに、心臓が小さく弾んだ。


「ありがと、おじさん!」

 仏の顔も三度まで。俺の眉間もこれ以上寄せられない。

 俺は無言で女の腕を引き剥がし、表通りへと歩き出した。

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