花天月地【第109話 その、星に似たもの】

七海ポルカ

第1話



 西から夕焼けを飲み込むように、真っ黒な雲が迫っていた。


 ジッと部屋からその景色を見やっていた荀彧じゅんいくは、前方の門をくぐり明かりを掲げて一頭の馬が単騎で駆けてくることに気づいた。

 乗り方で分かった。荀攸じゅんゆうだ。


 洛陽宮らくようきゅうに裏手から一直線にやって来ると、眼下の庭園で馬から身軽に下りる。

 寄って来た見張りの兵が慌てて馬を預かるが、荀攸はすぐに建物内に入って来た。

 曹丕そうひはこの奥の私室に戻っている。

 そこへ行くにはこの通路を必ず通らなければならないため、荀彧はその場でしばし待った。

 程なくして荀攸が階段を上って来る。

 

 

公達こうたつ殿」



 荀彧の姿を奥の明かりの側に見つけると、厳しい表情をしていた荀攸の顔が一瞬緩んだ。


文若ぶんじゃく殿。このような場所で……」


 思わず荀彧の肩に手をやり、外気に冷えた体を気遣ったのだが彼は小さく笑った。

「ご心配なく。私はそこの部屋で待たせていただいておりました。そろそろ、まずの報告に貴方か使者が来る頃かと思ってついさっき出て来たのです」

 それでも、もう季節は冬だ。

「文若殿。確かに私は殿下に報告に参じ、一刻も早くその務めを果たしたく思うのですが、しばし話を聞いていただけますか。どうしても腑に落ちないことがあり、殿下に報告を行う前に貴方に目を通していただきたいのです」


 荀攸は懐に入れていた筒を取り出した。

 頷いてそれを受け取り、荀彧は側の部屋を示す。


「あまり時間はありませんが、話を聞きましょう」


 中に入ると大きな火鉢に赤い炭と、ゆらりと微かに火の影があった。


「どうぞ、火の側に。温まってください、公達殿。

 貴方こそ外から来たのですから」


 荀攸はそう言って椅子を進めてくれた荀彧に一礼し、火鉢の側の椅子に腰かけた。

「湯を……」

「いえ、文若殿。目を通していただいてる間に自分でしますのでお構いなく」

 もう一つの火鉢には小さな鍋が当てられ、湯が沸いていた。

 分かりましたと頷き、荀彧も火鉢を挟んで向かいの椅子に腰かけると、書簡を広げる。

 荀攸自らの手で書かれて、これはそのまま曹丕に渡されるものだった。

 素早く目を通し読み終えると、丁度荀攸が荀彧にも湯を入れていた。


「ありがとうございます。公達こうたつ殿。これは直接貴方から」


 書簡を筒の中に戻し、荀攸に手渡す。

 荀彧は湯に手を伸ばした。

 一口、ゆっくりと喉に通す。


「時間が無いと仰いましたね」


「……殿下が離宮に戻られると仰せです。貴方が戻られるまでは、どうかこちらに留まって下さいと説得するのが限界で」


曹植そうしょく殿のことは?」


 荀彧は押し黙る。

 決してその可能性を考えなかったわけではないが、荀攸は小さく息を飲んだ。

 曹丕は自ら曹植を尋問するつもりなのだ。

 そうでなければ恐らく混乱を起こさないために部下に尋問は任せて、洛陽宮に留まっただろう。

 或いは、曹植の方を洛陽宮に召喚するのが正しい筋だ。

 曹丕そうひはすでに後継者争いに勝利し、曹操から後継者として太子の位を与えられている。

 曹植は臣下なのだ。

 それに、いかに幼いころから競い合わされた相手だとして曹丕は曹植が、父の後ろ盾もない状態で自分に斬りかかって来る度胸があるなどとは思っていないだろう。

 曹植が甄宓しんふつを敬慕していることさえ彼は正確に把握している。


 つまり曹植が甄宓を毒殺などするはずがない。

 利用されたことが分かるはずだ。

 それならば自由を奪い封じ込んだりせず、洛陽宮に呼び寄せて話を聞き、城に留め置けばいい。


 離宮はこのまま出入りが封鎖される。

 全ての調査が終わるまでは、内部にいる者は謀反の疑いを掛けられたままなのだ。


 ――これが曹操そうそうの耳に入ったら。


 荀攸は背筋が震えたが、この寒気をもたらしているのがなんなのかは、はっきりと自分でも分からなかった。


「……甄宓しんふつ殿のご様子は?」


 書簡には書かれていなかった内容を荀彧が尋ねる。

 無論、何か事が起きていたら真っ先に荀攸は報告するため、治療中で仔細が分からないのだろうということは分かったが。


「ここへ来る前に宮廷医に話を聞いて来ましたが……喀血は止まりましたが高熱が俄かに出て、良くない状態であると。それ以上のことは分かりません」


 体に宿る、子供のことだ。

 曹丕にはすでに曹叡そうえいという息子がいる。

 だが子はその一人だった。

 甄宓と数年不仲だったこともあるが、結婚して間もなく子は生まれたものの以後甄宓と再び共に暮らすようになってからも、子は無かった。


 妾を持つように重鎮達から曹丕は催促されていたが、ある時自分の娘を曹丕の妾にとしつこく勧めて来た豪族が酒宴の席で死んだことがある。殺したのは曹丕で、自分の正妻を侮辱したからだと答えたらしいが真相はそうではなかった。


 曹丕は自分が後継争いで幼いころから苦しんで来たことが、深い心の傷になっているのだ。

 次に男子が生まれれば、弟王子になる。

 下手に画策などすれば本当にまた死人が出るかもしれない。

 豪族達は、曹丕がようやく手にした後継の座に浮かれてなどいないことは理解したが、それを重荷にしていることもまた見抜いただろう。


 今は甄宓しんふつへの不信は消え去り、彼女は妻というより腹心のように曹丕の側にいて、共に行動することが多くなった。

 だが甄宓が死ねば、曹丕は王であるが故に別の女人を妻に迎えなければならなくなる。

 

 以前は許都きょとに曹操がいて、曹操そうそう曹植そうしょくが甄宓を強く庇護していた為、渦中の人でありながらも甄宓の命を狙うような者は誰一人いなかった。

 しかし曹操が長安ちょうあんに移り、曹植とも離れ、暗殺者が甄宓を狙うならば確かに今であろう。


 だからこそ荀攸は納得が出来なかった。

 曹丕も甄宓もそのことはよく理解していて、どこへ行くにも以前と違ってきちんと護衛はつけていたし、甄宓も迂闊に一人で動くようなことはしない女性だったからだ。

 

「離宮に、現時点で不審な出入りはありませんでした。

 このあと私は離宮に戻り、会っていない全員を自分の目で尋問するつもりです」


「……そうですか。この二日間で離宮の全員を取り調べられたとは。貴方だからこそここまで迅速で正確な報告を行えるのです。公達殿。私も力になりたく思いますが」


「ありがとうございます。ですが、私は大丈夫です。このまま屋敷などに戻っても気になって休めるものではありませんし。そんなことよりも一気にこのまま全ての者を尋問し、敵を炙り出したい」


 荀攸じゅんゆう董卓とうたくの時代、その暗殺を企て謀反の罪を着せられ投獄された。

 そういう高官は多かったが悲惨な尋問がなされたのは分かっていた。

 無実の者を長時間このことで、不安に晒したくないと考えてもいるのだろう。


「敵……」


 荀彧は赤く染まった炭を見つめた。

「敵の姿が見えるでしょうか?」


「そのことなのです。文若ぶんじゃく殿。

 私は全ての人間をこの目で見るつもりですが、まだ会っていない人間も、信頼出来る者たちに尋問を任せてあります。離宮には限られた者しか出入りしておらず、そのほとんどが曹丕殿下と甄宓しんふつ殿直々に任命した者で、そうでない者も曹娟そうけん殿のように信頼の置ける方が選んだ者ばかり。

 私は疑わしい者は見抜けても、疑わしくない者を告発は出来ません」


「貴方は現時点でも、離宮に滞在した者たちは全員が信頼置けるものだと、半ば確信しておられる」


「……残る可能性は、すでに敵を逃したということです。甄宓殿がお倒れになってすぐ私は駆け付け、毒の報告を受けて離宮を封鎖しました。

 迅速であったとは思いますが、確かに一時は混乱していた。

 甄宓殿と曹植殿は庭園を散策しておられました。一度席をお二人が離れた時、侍女たちが茶を淹れ直したのです。

 その時彼女たちは新しい茶碗に差し替えています。

 お二人が戻られた程よき頃茶を淹れ直しています。

 そのあとは、彼女たち以外に誰も浮島には近寄っていません」


「誰もではない」


 荀攸は顔を上げた。

 静かな表情で荀彧がこちらを見ている。


 激しい人生を送って来た曹操の側に、いつも荀文若じゅんぶんじゃくがいた。

 何かこのように二人で夜半向き合って話し合っている光景を、何度も見て来た。

 誰かといる時曹操が激高していることはよくあるが、荀彧と話している時に曹操が声を荒げているのは一度として見たことが無かった。


「そうでした。当人である……甄宓しんふつ殿と曹植殿以外は」


 荀彧は数秒押し黙ったが、立ち上がった。


「そろそろ行きましょう。殿下がお待ちになっている」

「はい」


「何が出来るわけではありませんが、私は外で控えていましょう。

 確かに曹丕殿がみだりに離宮にお戻りになるのは良くない。

 しかしあの方が強く望まれたことならば、根拠なく妨害した方が貴方も私も恨みを買います。

 何かを守るためならそれも必要な時が来るかもしれません。

 ですが今は曹丕殿下の側にいて、信頼され、力になるべきです。

 殿下が望まれたら強くはお引止めしない方がいいと考えます」


「私もそう思います」


 二人は部屋の外へ出た。

 先ほどまでは辛うじて夕日が出ていたが、もう外は完全に暗くなっていた。

 微かに、雨の音もして来たようだ。


「……甄宓殿も、過酷な運命を背負って来られた方です。

 曹丕そうひ殿と出会われたことは逃れがたい運命のことですが、曹丕殿ではなくご自分の運命に絶望し心を閉ざしておいでの時期もあったことは事実です。

 曹操そうそう殿もかつてはあの方の自刃を心配しておられた」


 それは荀攸も知っている。

 曹丕は子を産んだ後も甄宓しんふつを冷遇していたので、彼女に対しての「お前を全く信用していない」という意志は周囲の誰しもに伝わった。

 このまま自分が曹丕に憎まれ尽くしたら、いつかその憎しみは曹叡そうえいにも伝わると考え、あのまま時が過ぎていたら、甄宓は身の潔白を訴えるために自刃していたかもしれない。


 しかしある時から曹丕は甄宓が側に寄ることを許した。

 その代わり甄宓は曹叡を自分の側から離し、曹操とべん夫人に曹叡は預け、養育はそちらに任せていた。

 曹操と曹丕が不仲だったので、それは予てよりの卞夫人の望みだったのだ。

 曹叡が手元にやって来ても、曹操が曹丕を信頼したわけではない。


 しかし甄宓は、曹丕の腹心となった。

 甄宓が曹丕を愛していることは、今は荀彧も荀攸も理解している。曹操もだろう。

 曹丕は甄宓の死など望んではいないことも分かる。


 だから今は、甄宓が服毒など自らしないことは明らかだった。


 曹植は――彼個人の純朴な人柄は、愛する女性を毒殺など出来ないだろうが、果たして命じられればどこまでやるかは分からない。

 曹植の場合、本人は純朴だが周囲の人間は狡猾だった。

 利用される可能性はある。



『誓って、茶が淹れられたあと、曹植様が奥方様の席に近づける場面はありませんでした』



 曹娟そうけんが、そう証言していた。

 しばし茶を飲み談笑し、再び席を立った直後に甄宓は倒れたのだと。

 誰もあの時、毒を入れられる可能性が無かった。

 甄宓と曹植が、照らし合わせたように自分の茶に毒を入れる以外は。


 しかしその可能性は無い。

 曹植は間違いなく甄宓を愛しているが、女はそうではない。

 


「今頃になって甄宓殿が、曹丕殿下を最初から誠実に愛しておられたのだと実感することになるとは」



 曹丕の部屋の前まで来て、荀彧が呟いた。

 

「全てを疑い、真実を明らかにするための労力は、何も恐ろしくありません。

 しかし今日ほど幾らかの可能性もなく主君に何かを報告しなければならないのは初めてのことです。問いかけたいのは曹丕殿下の方でしょう。

 私は答えを持っていない。離宮に戻られると仰られれば、お引き止めは出来ません」



「……確かなことは、今、曹丕殿と曹植殿が正面から斬り合うような愚は、何としてでも避けねばならないということです。

 魏の国の為に。

 公達こうたつ殿、貴方の報告ならば、答えがなくとも曹丕殿下は信頼なさる。

 どうかあの方の心に寄り添い、力になって差し上げてください。

 私は貴方が心許ない時は、必ず光となって貴方を照らしましょう」


 振り返ると、荀彧が真っすぐにこちらを見つめて来ていた。

 少しだけ荀攸は驚いた。


 確かに荀文若じゅんぶんじゃくにはその力があるが、彼はその力を今まで曹操の為に使って来た。

 その不安を照らし、道を示すために。

 それが曹操の側を離れ、一人動き出した。


 荀彧はこれから数多の人間を導くはずだ。


 魏の国の為、

 いつか曹丕が成し遂げる、天下統一と天下泰平の夢の為に。


 曹丕は荀彧に言った。

 曹操が魏王ぎおうとなり荀彧と決別したからこそ、今、自分が【王佐おうさの才】を得ることになったのだと。


 あの言葉は、荀彧の心をきっと強く救い上げたのだ。



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