「昨日の私の現場、○○デパートだったんです。あそこは前にも何度か入って勝手が分かってるし、たまたま常駐だった人が急な事故で駄目になって、私が臨時で入ったんです。嫌なことが続いてたし、たまに施設だと気分が変わると思ったんで、こっちは大歓迎でした。


 昨日が一日目で、あそこは――白井さんも確か入りましたね、前に――、ええと四階まであって、フロアもそんなに広くないんで、警備員は一人で充分なところです。昼間はそこそこ来るお客に売り場の案内をしたり、けっこう楽しくやりました。現場があったかいってのは、真冬にはほんといいですよ。時間が経つのを忘れます。


 日も早く暮れて外が真っ暗になると、店を閉めて私だけになりました。でもデパートの夜の見回りは、わりと気持ち悪いもんでしょう? 懐中電灯の光の中に、わっとマネキンの顔が出ると、ぎょっとしますよね。でも、そのときは自分の問題は解決してるし、なんの心配もいらないと思ってるから、もう口笛まで吹いて気楽に歩いてました。

 あれが起きるまでは……」



 彼の声は次第に低く重く、その小さな目と平たい顔に、うっすら恐怖の色がさしてきました。

「夜中の二時過ぎだったと思います。二階の婦人服売り場の隅々まで周って、次に三階に上がろうと思ったときです。フロアの奥にいたとき、いきなり背後のずっと遠くから、『カタカタカタ』という耳障りな金属音が聞こえてきて、思わず振り向きました。どうも売り場の真ん中からしているらしいんで、急いで行ってみました。

 近づいて音が大きくなると、これはどうもあれだな、とすぐ分かりました。しかしそれだとおかしい、ありえない、と思いながら、音のしている前に着いて、音を間近で聞くと、やはりそうだと確信しました。


 懐中電灯でさっと照らしました。ぎょっとしましたよ。思ったとおり、くだりのエスカレーターが勝手に動いて、上からステップをこっちにどんどん送っているんです。青黒い踏み板が、カタカタとうるさい機械音を立てて動いているのが、下からはっきりと見えます。もちろん、そんなはずがないんですよ、電源は全部落としてるんですから。あるいは勝手に動くような、何かほかの原因があったかもしれません。

 でもそのときは、そんなことを考える余裕がありませんでした。私は、ただただ嫌な気持ちになると、次に一気に悪い予感でいっぱいになって、その場に棒立ちになりました。


 私はエスカレーターの前に立って、降りてくる板の上に広がるどす黒い闇を、じっと見上げていました。そこに確実に何かがいるんです。気のせいじゃありません。あの黒い空間の向こう側に、背筋がぞっとするような、気味の悪いものが立っている。そういう気配が確実にあるんです。

 それは嫌でも、あのことを思い出させました。私がやった最悪のことです。でも、それは済んだことのはず。なぜ今さら。いや、もしかしたら、やはり駄目だったのでは。そうだ、やっぱり成仏などしておらず、あいつらは同じように俺を探していて、いよいよここへ――。


 恐怖と同時に、苛立ちが起きました。んだよ、あいつ、ちゃんと収めたんじゃねえのかよ。金だって払ったろうが。あのインチキ野郎。


 でも、いくら霊能者を恨んでも、もう遅いことがすぐに分かりました。踏み板の一番上に、いくつもの白くて細いものがひょこっと現れました。叫びそうになったのに声も出ません。ただ見上げて、それを食い入るように見つめていました。それは女の足と、脇に並ぶ小さな子供の足でした。それは『カタカタカタ』と鳴り続けるエスカレーターの上から、ゆっくりと降りてきます。白いひざが見え、黒いスカートが出て、それは徐々にこっちへ近づいてきます。


 私は一歩もそこを動けず、ただ息を呑んでそっちに電灯を向けたまま、飛び出そうな目で見つめるだけでした。女の腰の辺りが現れたとき、隣で手を引かれる女の子の首から上が見えましたが、噂どおり、両サイドに垂らすお下げの間に顔はなく、塗りつぶしたように真っ黒で、その上に白いベレー帽が浮くように乗っているだけでした。

 女が降りてくるにつれ、『カタカタカタ』いう音も次第に大きく、その響きに刺すようなまがまがしさを帯びてきました。それは二人の恐ろしい怨念の叫びに聞こえました。


 ついに女の胸が見え、首が見え――両側に垂らす髪の間に、蝋みたいに真っ白なあごがぬっと出ました。固く閉ざす口元が見えて、鼻が見えると、私はもう、全身がただ凍り付いて、ぶるぶる震えていました。相手の目を見たくないと思いましたが、目を閉じようとしても無理でした。ステップの音が『ガタガタガタ』と轟音になって、私に両側からなだれ込んできました。まるで海にいる未知の巨大生物の歯が鳴っているようです。大口をあけて今にも食いちぎろうとするかのようです。

 ついに女の目が見えました。しかし、それは刺すように冷え切った目ではありましたが、思ったほどのおぞましさは感じませんでした。

 二人が私の二メートルほど手前に来ると、いきなりエスカレーターがぴたっと止まりました。


 死んだような静けさが辺りを包み、女は私の向けるライトのぼうっとした光の中で、しばらく私と向き合っていました。

 と、不意に女の口元が大きく吊りあがり、目じりがぐっと下がって、悪意むき出しに、にやりと笑ったのです。私は凄まじい恐怖で縮み上がりました。その瞬間、女は自分の首をぐにゃりと大きく右に捻じ曲げ、ほとんど九十度の角度になって、ちぎれそうにぶらぶらさせながら、その逆さまの顔から、恨めしい上三白の目で、こっちをじっと見つめたんです。

 それは私が廃屋の塀の隙間を覗いたときに見た、あの姿そのものでした。


 それを見たとたん、私は絶叫してその場を駆け出しました。一階の従業員通路に飛び込み、必死に出入り口の扉に鍵を差し込んでいるときも、後ろにあいつらが迫っていることは分かっていました。私は死ぬ思いで外に出て、走りました。そのとき、白井さんのお宅がここから近いことを思い出して……

 それで、その、こうして来てしまったんです。


 今思えば、エスカレーターがあんなに大きな音を立てるはずがないんです。あれじゃ、まるで工場の機械がフル回転する音です。あれはたぶん、あの母娘の放つ凄まじい怒りだったんじゃないでしょうか。あれでは、今さらどんなことをしても、到底許してなんかもらえないと思うんです。


 白井さん、どうしたらいいでしょう。もう俺、どうすりゃいいか、まるで分からないんです」





 一部始終を聞いた巌さんは、さすがに驚きましたが、いったん目を閉じて考えてからひらくと、「自首しなさい」と言いました。

「こうなったら、もう罪を償うしかない。でなきゃ、そいつらはずっと追ってくる。これから警察に行こう。俺も出来るだけ証言するから」


 それを聞いて、斎藤さんはたちまち、まっ蒼になりました。

「け、警察の中にだって、あいつらは入ってきますよ! もっといい霊能者の先生じゃなきゃ、奴らをどうこうなんて――」

「ちがう、君の誠意を見せるんだ」と言い聞かせるように、「心から反省して手をあわせないと、相手は納得しない。相手をどうこうするんじゃなく、向き合わなきゃいかん。恐ろしいだろうが――」

「そりゃ恐ろしいですよ! あれを見てないから分からないんだ! あの、あいつの顔、目……」

 思い出して身を震わせます。

「あんなのを、また拝むなんて、冗談じゃない!」

「いいから、落ち着け」

 度を失う後輩を、巌さんはなんとかなだめようとしました。

「許してもらうよう、彼女たちにお願いする以外に、君に出来ることはないんだ。いや、出来なくたっていい。それでも精一杯やるんだ。それで通じなきゃ、それまでだ。

 とにかく頑張れ、俺もついてる。一緒に謝ろう。な?」



 そう言って手を差し出したそのとき、斎藤さんの目が大きく見開きました。振り向いた巌さんは、あるものを見て、背筋が凍りつきました。部屋の奥の窓に、逆さになった女の血まみれの顔が張り付き、恨めしそうな目でこっちをじっと見つめていたのです。顔は逆さなのに、下には両肩がはっきりとあります。首が大きく下に捻じ曲がっているのです。


「うわあああああやつが来たあああ来たあああああ!」

 斎藤さんは絶叫し、ドアから外に飛び出しました。あっと追ったときは遅く、彼は街道を走ってきたトラックにはね飛ばされ、向かいのマンションの壁に「ばん!」と叩きつけられて、ずり落ちました。



 人が集まってくる中、巌さんが近づいて見ると、彼は目をむいて血の海に横たわっていました。現場で軽い交通事故は何度も見ましたが、人が死ぬところは初めてで、それはあまりにも恐ろしい光景でした。


 でも一番ぞっとしたのは、死体の首が壁に激しく打ち付けられて、上下逆になるほどに凄まじく捻じ曲がっていたことです。(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

駆け込んできた男 闇河白夜 @hosinoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ