Nadir

@KuReKo151

第1話 死刑囚シエラ・グレン

 低い重低音が足元から伝わってくる。

 金属の床を踏むたび、振動は骨まで響いてた。  

 ここは深度五千メートルにある海底監獄

 "Nadir(ネイディア)"。

 今日、ひとりの死刑囚が処刑される、と同時に監視網の一部が一瞬だけ緩む日でもある。

 カイン・マクラウドは強化スーツの中で息を潜めた。ネイディア潜入から二週間、既にここでの規律にも馴染み、看守の一人として動くことは違和感がなくなっていた。

 だが、今日だけは違う。胸の奥が重苦しい。

理由は簡単だ――今日が、"その日"だからだ。


「……」


 通路を進むと、左右の壁には無機質な蛍光灯が並び、人工酸素の匂いと機械油の臭気が入り混じる。視界の先、幾重もの隔壁の奥に、最下層に世界から集められた極悪死刑囚――世界が処刑すらもできず、ただ沈めておくしかなかった連中の吹き溜まり達がいる。

 その奥の独房のひとつ。

 そこにとある死刑囚がいる。

 シエラ・グレン、男、25歳。

 17人を弄び、世間に衝撃をに与えた最悪の殺人鬼。少年法すら見放して死刑を宣告された極悪少年

 そして、カインが金のために救い出さねばならない標的。

 カインの嫌悪の根源を形にしたような存在だ。本来なら、銃弾を頭に撃ち込んでそのまま終わらせたい。だが任務は「生かして引き渡す」こと。それだけが、自分を縛る鎖だった。

 足を止める。

 厚い隔壁の向こうに、シエラの独房がある。

 壁を挟んでいても、何か冷たいものが肌を撫でるような感覚がした。

 カインは小さく吐息を漏らす。


「……さて」


 操作盤に手をかける。

 圧縮チューブが稼働し、扉を開ける手順に入れるのは、看守権限を持つ者だけ。その権限を持つために用意周到に準備してきたのだ。

 カインは深く息を吸い込み、独房の扉の前に立った。

 死刑囚、シエラ・グレンは独房の中、目隠しをされたまま無骨な椅子に座らされていた。

 爆弾付きの首輪、拘束衣、鎖に繋がれた足。

 目隠しで視界を奪われながらも、椅子に座るその男は、不気味なほど静かだった。


「…誰かいンのか」


 挑発とも独り言ともつかない気だるげな声が独房に響いた。カインは足音を殺していたが、金属床の低い反響がシエラの耳には届いていたようだ。


「……やっぱり、耳はいいな」


 低く押し殺した声を返す。

 強化スーツ越しに腕を組み、目の前の操作盤に視線を落とす。その先に座らされているのは、ボサボサで癖のある髪を揺らし、拘束衣を軋ませる、全身を縛り上げられた怪物。


「耳しか使えねえンだから当たり前だろ。ココに音なんてありゃしねえしな」


 爆弾付きの首輪も、拘束衣も、彼がどれだけ残虐で極悪が物語っていることをカインは知っている。


「俺はカイン・マクラウドだ。死刑執行まであと数時間……それが嫌なら、俺に従え」


 淡々と告げながらも、瞳はシエラを見据えていた。


「明日死刑になる俺を脱獄させンのか?"看守様"も犯罪者の仲間入りだな、おめでとう」


 シエラのその声にはどこか試すような、挑発するような声音が混じっていた。


「犯罪者の仲間入り、ね」


 カインは扉のロックを外す前に躊躇うように手を止めた。


「――今ここにいるのは看守じゃない。お前を外に出せる唯一の人間だ」


 鋭い音と共に、分厚い隔壁のロックが一つ外れた。


「俺を外に出すって本気か?イカれてやがンな」


 シエラの声と共に金属の軋む重低音が独房全体を震わせると、カインの口の端が笑いとも吐息ともつかない形で歪んだ。


「安心しろ。俺は最初からまともな人間じゃない」


 操作盤に手をかけたまま、シエラの向けた顔を真正面から見据える。


「お前の首に巻かれた爆弾、解除できるのは限られた人間だけだ。それだけで、ここに来た理由は察せるだろ」



 金属音が低く響く。

 一つ、二つとロックが外れていく音が、独房全体に反響した。


「成程?首輪の爆発トリガーもお前が握ってるってことね?用意周到だこと」


 シエラが拘束衣越しに冗談めかして肩を竦めるが、カインの目は険しい。


「――選べ。明日、笑って処刑されるか。

それとも今日、俺と一緒に地獄から這い出るか」


 カインの声音には揺らぎはない。

 ただ、その瞳には殺意に似た嫌悪と、任務のために押し殺した理性が交じり合っていた。


「脱獄か、悪くねえが…しっかし脱獄不可能の監獄"ネイディア"から"死刑囚"を連れ出すなんざ…いくら積めば引き受けんのかねえ?」


 ロックを解除していく音にシエラが警戒するようにピクリと体が動かすが、シエラの口の端は煽るように持ち上げられたまま。


「……いくら積めば、か」


 カインはロックを解除していきながら鼻で短く笑った。


「桁が違う。命を売り買いする値段に、相場なんか無い…と言いたいが、お前の身柄に金を払ったやつがいる」


 淡々と告げる声には、一切の情はない。


「俺は雇われただけだ。お前を殺すつもりも、助けるつもりもない。ただ、生きたまま外へ連れ出す。それが契約だ」


 最後のロックが外れた瞬間、低い重低音が独房を震わせた。

 深海に押し潰されるような圧迫感が、一層濃くなる。


「相当な値がついてンだな……成程、目当ては俺の"血液"か」


 シエラはカインの言葉に納得したように言うと、呆れたように肩を竦める。その仕草は自分の体質を知っている素振りだった。


「まあいい、脱獄させンだろ?さっさとこれ解けよ」


 カインはシエラの言葉を無視して、独房の中に不機嫌そのままの固い足音をさせて足を踏み入れ乱暴に目隠しを外すと、シエラが目を細める。


「…ったく、大切な金蔓なんだろ?、優しく扱え」


 目隠しを外された目がカインと合うと、シエラの黒の瞳が緩く笑っていた。

 黒。

 底が見えないほどに濁っていながら、そこに確かに笑いが浮かんでいた。


「……金蔓、ね」


 カインはその瞳と視線をぶつけ合い、短く吐き捨てる。


「安心しろ。金蔓をすぐ殺すほど、俺は馬鹿じゃない」


 そう言いながら、手は首輪の制御パネルにかかったまま、しかしカインの拘束具の鍵を外す手際は速い。軍人時代に培った冷徹さがそこにあった。


「……だが勘違いすんな。お前がただの荷物だってことに変わりはない。依頼じゃなけりゃあ今すぐお前をぶち殺したいくらいだ」


 足元で鎖が外れる音が重く響いた。

 カインは青灰の瞳を細め、シエラを真正面から見下ろす。


「――立て。今日からお前の命は、俺の“管理下”だ」

「はいはい…ま、明日死ぬよりマシだな」


 声は冷たく、同時に張りつめんばかりの緊張に満ちていた。そんなカインとは裏腹に、解放されたシエラは気だるげに立ち上がると、呑気に伸びをしてぐっと体を逸ららし、カインを見た。


「これも残ってンぞ?」


 シエラが冗談めかして首輪をとん、と叩いた。


「……残ってるのは当たり前だ」


 カインの視線が首輪に落ちる。爆薬搭載の拘束具、つまりシエラの命を握る装置。


「それがなきゃ、お前は檻から出さない。その爆弾の制御装置は俺の端末に移してる。脱獄しても爆発はしないが…余計な真似をした時はお前の頭を吹き飛ばす」

 

 短く吐き捨てるように言いながらも、腰の制御キーに指先を触れる。その仕草は、万が一の時には迷わず起爆すると示していた。


「勘違いすんなよ。俺はお前を自由にするためにここにいるんじゃない。生かしたまま連れ出す、それだけだ」


 青灰の瞳が真っ直ぐにシエラを射抜く。

 その視線は、憎悪でも恐怖でもなく、制御すると意思と覚悟に満ちていた。


「……歩け。次に立ち止まったら、その首輪を爆発させる」

「怖ぁ」


 カインの声は淡々としている。だが、その奥に潜むのは揺るぎない決意だった。そんな決意もシエラは呑気に背伸びしてポキポキと骨を鳴らしていた。


「俺の首輪を吹き飛ばしたらお前の金蔓もオジャンだもンな」

「…」

「お前が身の安全を取るか、金を取ってギリギリまで俺を生かすのか見ものだな」


 答えないカインに対して、挑発するような笑みを浮かべるシエラの裏で、黒い瞳が確かにカインを映していた。

 こうして海底で生まれた奇妙な共犯者たちの物語が始まろうとしていた。。  

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