最終話① 『増川、と、井上さん。』
木曜日の夕方。会社裏のカフェ。
増川とみなみは、窓際の席に向かい合って座っていた。
「体調、大丈夫ですか?」
「はい。ご心配おかけしました」
みなみは小さく笑ったが、どこか無理をしているように見えた。
「井上さん」
「はい」
「昨日、井上さんのお話を、中津さんから聞きました」
みなみの表情が、少し固くなった。
「……何を」
「井上さんが、書道で『二番手』だったこと。それから……」
増川は一度言葉を切った。
「同棲していた方が、いたこと」
みなみの顔が蒼白になった。
「……七緒さん、そんなことまで」
「怒らないでください。中津さんは、井上さんのことを心配してるだけです」
「わかってます」
みなみが俯く。
「でも、恥ずかしいです。増川さんに知られたくなかった……です」
「なぜですか」
「だって……」
みなみの声が震えた。
「私、騙されてたんですよ。都合のいい女だったんです。そんなの、恥ずかしくて」
「井上さん」
増川が静かに言った。
「それを騙されていた、恥ずかしいと呼ぶのなら、おそらく僕も、沙耶香さんには騙されていました」
みなみが顔を上げた。
「……え?」
「沙耶香さんは、加賀屋先輩と付き合ってるのに『別れた』と嘘をついて、僕と関係を持ちました。それを僕が恥ずかしいと思っていることを、井上さんは僕のせいだと責めるでしょうか? そんなふうには、思ってほしくないとは、思わないでしょうか。僕のことであれば」
増川が淡々と話す。
「僕も、ただの、都合のいい男でした。本命は加賀屋先輩で、僕はただの、代わりだった」
「増川さん……」
「だから、わかります。井上さんの……気持ち」
増川がまっすぐみなみを見つめた。
「『二番手』だったこと。『代わり』だったこと。それが、どれだけ辛いことか。……その先ずっと、自分を責めてしまう、経験か」
みなみの目に、涙が浮かんだ。
「……そうですね」
「でも」
増川が続けた。
「それは、井上さんが悪いんじゃありません。たぶん、本当は、相手が……弱かった、だけなんです」
「…………」
「南さんの言葉も、すべて間違ってます。こちらは論じるまでもありません」
増川の声が強くなった。
「『諦めるから二番手』なんかじゃない。井上さんは、ただ頑張ってきただけです。どんなに報われなくても、頑張ってきた。むしろあなたはそれだけ純粋に書道が好きだったのだと、僕の場合は思います」
みなみは、涙をこらえていた。
「増川さん……ありがとうございます」
「井上さん」
「はい」
「僕にとって、井上さんは、完全に一番です」
みなみの涙が、頬を伝った。
「……本当ですか」
「本当です」
増川が優しく笑った。
「今までも、この先も、一生。僕の人生で、あなたが、誰よりも大切な人です」
みなみは、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「増川さん、ほんとはね」
「はい」
「私――『一番』じゃないと、やなんです」
増川は少し驚いた顔をした。
「書道でも、恋愛でも、ずっと二番手だった。でも、本当はずっと、一番になりたかった。本当に……なりたくて、たまらなかった」
みなみが真剣な目で増川を見つめた。
「誰かにとっての『一番』になりたい。『代わり』じゃなくて、『本命』になりたい」
「井上さん……」
「わがままですよね。でも、それが私の、本音なんです」
みなみが涙を拭いた。
「増川さんにとって、私が一番なら……本当に、嬉しいです」
増川は立ち上がって、みなみの隣に座った。
そして、そっと肩を抱いた。
「井上さんは、僕の一番です」
「……」
「これからも、ずっと」
「…………」
みなみは、増川の肩に顔を埋めた。
そして、声を殺して泣いた。
増川は何も言わず、ただみなみを抱きしめていた。
窓の外では、夕日が沈んでいく。
カフェの中は、静かだった。
二人だけの時間が、ゆっくりと流れていた。
*
しばらくして、みなみが顔を上げた。
「……すみません。泣いちゃって」
「いえ」
増川が優しく笑った。
「もう、大丈夫ですか?」
「はい」
みなみも笑った。
「増川さんのおかげで、胸が楽になりました」
「よかった」
二人は、また向かい合って座った。
「井上さん」
「はい」
「次のデート、どこに行きましょうか」
みなみが少し考えて、笑った。
「普通のところがいいです」
「普通?」
「映画とか、水族館とか」
「いいですね」
増川も笑った。
「じゃあ、今度の日曜日は?」
「はい」
みなみが手帳を開く。
「今度こそ、置いていかないでくださいね」
「絶対に置いていきません」
増川が真剣な顔で言った。
「井上さんは、僕にとって一番ですから」
みなみの頬が、少し赤くなった。
「……ありがとうございます」
二人は、これからのデートの予定を話し合った。
カフェの外では、夜が訪れようとしていた。
でも、二人の心にはもう、温かい光が灯っていた。
*
その夜、みなみは部屋で手帳を開いた。
今日の日付のページに、小さく書き込む。
「増川さんにとって、私は一番」
それを見て、みなみは笑った。
八年間、ずっと思っていたこと。
「一番になりたい」
それが、やっと叶った気がした。
みなみは手帳を閉じて、ベッドに横になった。
今日は、ぐっすり眠れそうだった。
*
同じ夜、増川も部屋で窓の外を見つめていた。
みなみの涙を思い出す。
「一番じゃないと、やなんです」
その言葉が、胸に残っていた。
増川は、心の中で誓った。
これから、ずっと。
みなみを、一番大切にしよう。
誰よりも、何よりも。
窓の外には、星が輝いていた。
みなみと増川の、新しい未来が、始まろうとしていた。
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