第24話 『サヤカと加賀屋②』


 土曜の午後、小田原駅の改札前。

 増川とみなみ、そして加賀屋の三人が立っていた。


「……来るやろか」


 加賀屋が時計を見る。午後二時に差し掛かった。


「大丈夫ですよ」


 みなみが優しく返した、その瞬間――


 改札から現れたのは、細身で少し、疲れた顔の女性。

 小さな女の子をベビーカーに乗せて現れた。


「……サヤカ」


 加賀屋の声が震えた。


 沙耶香の視線がまず加賀屋をとらえ、そして――増川へ。

 途端に、顔色が変わる。


「……増川くん?」


「ご無沙汰してます、沙耶香先輩……」


 増川が頭を下げる。


 沙耶香の表情が凍りついた。


「……どういうつもり」


 低く冷たい声。


「サヤカ、これは……」


沙耶香が後ずさる。


「加賀屋くん、相変わらず卑怯やな。増川くんまで呼んで……なんの用なん!」


「ち、違う!」


 加賀屋が必死に手を伸ばすが、彼女はその手を振り払った。


「触らんで!!」


 その震える声が、改札口に響いた。


「沙耶香さん!!」


 みなみが、勇気を振り絞って前へ出る。


「私は井上みなみといいます。増川さんの……恋人です」


 沙耶香は一瞬驚き、そして戸惑う。


「……恋人?」


「はい。加賀屋さんと増川さんは今、お友達としてきちんと向き合っています。借金も、加賀屋さんはきちんと返済を始めてます」


 みなみの声は柔らかい。


 沙耶香は気まずそうに目を伏せ、そして加賀屋を睨んだ。


「嘘や……」


「本当や」加賀屋は深く、何度も頷く。


「俺、お前だけは裏切ってへん。六年前も、今も。お前のこと……」


「……信じられへん」


 沙耶香が顔をそむける。


 加賀屋は小さく笑った。


「せや……な。俺、お前にそんくらい、憎まれて当然のことしてきたんや」


 その言葉に、沙耶香は一瞬まばたきした。


「わかった……今日で、最後にする。せめて城址公園までだけでも、一緒に歩かせてくれへんか。それだけでええから……」


 沈黙。


 小さな手が、黙り込んだ沙耶香の服を引いた。


「ママ、おなかすいた」


「ゆい、もうちょっと待っとって」


 女の子――ゆいの目が、加賀屋を見た。


「だあれ?」


 加賀屋はしゃがみ、目線を合わせる。


「……昔の、ママのお友達や」


「ふうん……」


 ゆいは小首をかしげ、加賀屋が差し出した飴を受け取って笑った。


「ありがとう!」


 沙耶香は口をきつく引き結んだままだったが、ほんの少し、その表情は揺れた。


「……歩くだけやで。話は聞かん」


「おおきに、サヤカ……」



   *



 四人とベビーカーは、ゆっくりと歩き始めた。


「どうしてた? この六年……」


 加賀屋が尋ねる。


「知らんわ。あんたに関係ないやろ」沙耶香の声は鋭い。


「……すまん」


「謝ったって、今さら遅いねん」


 そのやりとりを遮るように、ゆいがまた服を引く。


「ママ、あるく」


「ゆい、あかん。ベビーカー乗っとってって」

「いやや!」


 加賀屋がしゃがみ、そんなゆいに手を差し出す。

「ゆいちゃん、おんぶしたろか」


「触らんといてって言うたやろ!」


 沙耶香の制止も虚しく、ゆいは加賀屋の首に飛びついた。


「おんぶ!」


「おんぶやて。ゆいちゃんこう言うてるけど……」

「うん!」


 眉間に皺を寄せて睨んでいた沙耶香が、ふっと横を向く。


「そない喜んでたら、あかんやなんて言えんやんか」


「はは。ママごめんな〜って」

「ママごめんな〜!」


 加賀屋が、ゆいを背負って歩き出す。


「ゆいちゃん、えらい軽いなあ。昨日何食べた?」

「カレー!」

「カレー? カレー好き?」

「だいすき!」


 ゆいの声に、沙耶香は横顔を見つめる。


(……相変わらず、子供にも好かれるんやな)


 小さく呟いたが、本人には聞こえていない。



   *



 城址公園。


「おおきいー!!」


 ゆいが天守閣を指さしてはしゃぐ。


「すごいやろ! 登りたいな!」加賀屋が笑う。


「登りたい!」


「せやけど、今日はママとお話あるから、また今度な〜」


「えー! いややー!」


「ほんなら、ちょっとあの辺でおじさんたちと待っとって。お話が終わったら登ろうな」


 ゆいは渋々、増川とみなみに連れられて遊具へ走っていった。


 ベンチに座った二人。気まずい沈黙が流れる。


「……六月に、三歳になったところや」


 沙耶香が切り出す。


「俺の子やないんやな」


「どう考えてもそうやろ。あんたと別れたころに付き合ってた人の子」


「そいつは」


「妊娠したって言うたら、そいつ既婚者やって。増川くん騙したバチが当たったんかもしれんね」


 加賀屋の顔が苦く歪む。


「……すまん」


「だから謝らんとってって!」


 沙耶香の目から涙が溢れる。


「加賀屋くんのせいやないんよ。全部、うちが選んだだけなんや」


 加賀屋は言葉を失う。


「本当は……忘れられんかった」


 震える声で続ける。


「加賀屋くんを、ずっと。だから、他の人とうまくいかへんかった。だから、あんただけには会いたなかったんや」


 加賀屋が息を呑む。


 そのとき、ゆいが遊具から滑り落ちた。

「いたい……」


「ゆい!!」


 うろたえているみなみと増川を押しのけて、加賀屋が真っ先に駆け寄り抱き上げる。


「大丈夫か。膝すりむいただけや。見てみ、痛くなさそうやん? こんなんゆい平気やな?」


「ゆい痛くない!」キャッキャと、ゆいが笑う。


 沙耶香の目から、再び涙がこぼれた。


「……ずるいわ」


「え?」


「そうやって子供に優しくすんの。昔から、そうやった」


 加賀屋はゆいを抱き上げたまま、真剣な目で沙耶香を見た。


「サヤカ、俺……信じてくれって、今さら言える立場やないの分かってる。けど、俺はもう逃げへんから」


 沙耶香は、手のひらで頬を拭う。


「逃げへんって、増川とお前に……誓うから」


 長い沈黙。


 やがて沙耶香は、小さく頷いた。


「……今日は帰るわ」


「サヤカ」


「どうするかわからんけど、考えがまとまったら、また、連絡するから」


「…………」


 加賀屋は、深々と頭を下げた。


「…………ありがとう…………」



   *



 帰り道、小田原改札前。


「ありがとうございました」沙耶香がみなみと増川に頭を下げる。

「いえ」みなみが微笑む。


 沙耶香は加賀屋に向き直った。


「……ほなね。連絡するわ、いつになるかわからんけど」


 加賀屋は真顔で答えた。


「待っとる。何年でも」


 沙耶香は苦笑した。

「そんなに待たせへんわ、あんたやあるまいし。アホやな」


 言い残して、遊び疲れて眠っているゆいを乗せたベビーカーを押す。

 ゆっくりと、沙耶香の後ろ姿が改札を抜けていく。


 加賀屋は立ち尽くし、拳を握りしめた。


「先輩」増川が声をかける。


「先輩は、ちゃんと向き合いました。だから、きっと」


 振り返った加賀屋は、笑っていた。


「おおきにな。お前らのおかげやわ」


 夕暮れの小田原駅で、再び、物語が紡がれ始めていた。



   *



 帰り道。増川は、みなみに告げた。

「井上さんのおかげです」


 繋いだみなみの指先が、驚いたように跳ねる。

「私は何もしてないです」


 抱きしめたくなる。

 代わりに、離さないよう彼女の手を握る。


「いえ、井上さんがいてくれたから、ここまで来られました」

 心の底から、そう思う。


「…………」

 黙り込んだみなみは、ただきゅっと、増川の手を握り返した。


 みなみが本当は、何を思っているのかは増川にはわからない。


 わからないけれど、この人を僕は、誰よりも大切にしたいと思う。

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