第20話 『増川と加賀屋先輩、対話する。』


 増川は加賀屋先輩を連れて、大さん橋のベンチに座った。


 夜の海風が、二人の間を吹き抜ける。


「……話を、聞かせてください」


 増川の声は、静かだった。


 加賀屋先輩は、ギターケースを膝に置いて、俯いている。

 無精髭の生えた顎が震えた。


「何から、話せばええんか……」


「まず、現状から教えてください。借金はいくらですか」


 加賀屋先輩は、少し驚いたように顔を上げた。


「……なんで、そんなこと」


「返済の計画を立てなくては」


 増川の言葉に、先輩は苦笑いした。


「返済って……お前、まだ俺を……」


「先輩」


 増川は、真っ直ぐに先輩を見た。


「僕は、先輩を見捨てたりはできません。一生、それは無理だと思います。でも、曖昧なままでは、何も解決しないんです。抱えている問題を、事実を教えてください」


 加賀屋先輩は、長いため息をついた。


「……借金は、全部で二百万くらいや。お前のとは、別で」


「借り先は?」


「消費者金融が三社。それと、友達に五十万」


「返済の約束書は?」


「……ない」


 増川は、手帳を取り出した。


「では、今から作りましょう」


「え?」


「まず、僕への百万円。それから、他の借金も整理します。具体的な金額のわかるものはありますか?」


 加賀屋先輩は、戸惑ったように増川を見た。


「増川……お前、何で……」


「先輩、月いくらなら返せますか」


「月に……」


 先輩は口ごもった。


「……いや、俺、できる気せぇへん。この年まで、ほとんど働いたこともないし……」


「では、週単位にしましょう。週にいくらなら」


「週……五千円くらいなら……」


「わかりました。では、週五千円。月二万円」


 増川は手帳に書き込んだ。


「二百万だと、完済まで約八年。長いですが、不可能な年月ではありません」


 加賀屋先輩は、呆然としていた。


「八年……」


「利息もありますよね。先輩、もしもまた逃げたくなったら、この番号に連絡してください」


 増川は、紙に電話番号を書いて渡した。


「これは?」


「債務整理の相談窓口です。僕に連絡しにくければ、ここに」


 先輩は、その紙を握りしめた。


「増川……お前、なんでそこまで……」


「僕は、先輩は、本当は返したい。そういう人だと思うんです」


 その言葉に、加賀屋先輩の目に涙が浮かんだ。


「……返したいよ。ずっと、返したかった。けど、どうしたらええかわからんし、逃げれば逃げるほど、借金は大きくなるしで……」


「では、一緒に考えましょう。まず、今夜は逃げないでください」


「今夜……」


「はい。あそこに、遅くまでやっている中華屋があります。そこで、簡単な借用書を書いてください」


 増川は、近くの食堂を指差した。


 加賀屋先輩は、しばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「……わかった。今夜は、逃げへん」



   *



 小さな中華屋のテーブルで、増川は紙に文字を書いていた。


「借用書。金額、100万円。借主、加賀屋……」


 加賀屋先輩は、その文字を見つめていた。


「増川、お前……なんで、そんなに優しいねん」


「優しくなんかありません」


 増川は、ペンを置いた。


「僕も、先輩を傷つけました。沙耶香先輩とのこと……」


 加賀屋先輩の表情が、強張った。


「……でも、お前、知らんかったんやんな。サヤカからそう聞いてるわ」


「後から、知りました」


「なおさら、なんで……」


「先輩」


 増川は、真っ直ぐに先輩を見た。


「僕は、先輩に本を教えてもらいました。音楽も教えてもらいました。今の僕があるのは、先輩のおかげです」


 加賀屋先輩は、目を逸らした。


「……そんなん、昔の話や」


「でも、事実です。事実は消えません、先輩が逃げたところで」


 増川は、借用書を先輩の前に置いた。


「これにサインしてください。そして、週五千円、返してください。それだけでいいです」


 加賀屋先輩は、震える手でペンを取った。


 そして、自分の名前を書いた。


 書き終えると、先輩は顔を覆った。


「……すまん。ホンマに、すまんかった」


 その声は、嗚咽に変わった。


 増川は、何も言わずに待っていた。


 そして、心の中で思った。


 井上さんにも、ちゃんとすべてを、話さなければ。


 けれど、どう説明すれば、彼女の心を取り戻せるのだろうか。

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