第11話 『小松原さんとみなみ、と、七緒さん。』
小松原の机の上に、実家からの封筒が届いていた。
水色の、いかにも事務的な封筒。差出人は「小松原芳隆」と父の字で書かれている。中を開けると、見知らぬ男性の写真と、簡単な経歴書のようなものが入っていた。
『良い縁談です。来週の日曜日、都合をつけてあります』
短い一筆箋が添えられている。
小松原は、その写真をじっと見つめた。全く知らない人だった。
「また…………」
ため息をついたとき、後ろから声をかけられた。
「小松原ちゃん、どうしたの? なにが届いたの?」
七緒さんが覗き込んでくる。
「あ、七緒さん……」
写真を隠そうとしたが、七緒さんの目は早い。
「なにそれー?! まさかお見合い写真みたいなー?!」
「……はい」
小松原は小さく頷いた。「えっ?!」と七緒さんは動揺している。
「お父さんが勝手に決めてしまって。来週会うことになってるみたいです」
七緒さんの表情が曇った。
「か、勝手にって? ……いまどき、マジでそんな親いんの? 小松原ちゃんは、それでいいわけ?」
「いいわけないじゃないですか……」
小松原は迷った。昨日病院で、みなみさんと七緒さんに本音を話したばかりだった。
「私、本当はお見合いなんてしたくないんです。でも、うちのお父さんって私の話を聞いてくれないというか……」
「だったら、断っちゃいなよ。会う必要ナシって言っちゃえ」
七緒さんはあっけらかんと言った。
「そんな、簡単に言いますけど……」
「簡単じゃないんだろうけどさ。でも、小松原ちゃんの人生だって、昨日も言ってたでしょ?」
小松原が口を尖らせたのを見て、みなみさんまでもがやってきた。
「あ、七緒さん。もしかして小松原さんのこと困らせてるんじゃないですか? 小松原さん、あれから体調はいかがですか?」
「みなみさん……」
七緒さんが事情を説明すると、みなみさんは心配そうな顔をした。
「お見合い……って。小松原さん、それは大丈夫なんですか?」
「大丈夫って……」
「昨日、小松原さんは『自分らしい生き方を見つけたい』って話してくれたじゃないですか。それが、本当の気持ちなんですよね?」
みなみさんの優しい声に、小松原の心が揺れた。
「もちろん、本当の気持ちです。でも……」
「でも?」
「怖いです。お父さんに反対したら、すごく怒るかも。もう家族じゃないって言われるかも。なんか、そういう恐怖があるんです。私、もしかして一人になってしまうかもしれない」
小松原の声が震えた。
「一人にはならないよ」
七緒さんが断言した。
「あたしたちがいるじゃん。井上ちゃんもあたしも、小松原ちゃんの大味方だから」
「……大、味方?」
「小松原さん」
みなみさんが静かに言った。
「私も昔、すごく怖い思いをしたことがあります。『雲の記憶』っていう、それまで目立ったヒットのない作家さんの企画を、初めて自分で通そうとしたときに。部長に大反対されて、周りからも家族からも、みんなに無理だって言われて……」
小松原はみなみさんの話に聞き入った。
「でも、諦めなかったんです。自分が本当にやりたいことだったから、辞める覚悟で挑戦しました。小松原さんはきっと私よりも、そういう勇気や自信、ちゃんとあると思います」
「みなみさん……」
「それにさあ」
七緒さんが続けた。
「小松原ちゃんのお父さんだって、結局娘を幸せにしたくて言ってるだけでしょ? だったら、小松原ちゃんが本当に幸せになれる道を見つけたって分かれば、きっと嬉しいんじゃないかなあ」
小松原は、二人の先輩の言葉を胸に刻んだ。
「…………分かりました。お父さんと、ちゃんと話してみます」
*
土曜日の午後、小松原は実家に向かった。みなみさんと七緒さんが、駅まで送ってくれる。
「大丈夫? 無理する前にあたしらに電話! だからね?」
「はい。でも、自分の言葉で話してみたいんです」
小松原は微笑んだ。
「会社に戻ったら二人がいてくれるって分かってるから、勇気が出ます」
*
実家のリビングで、お父さんが新聞を読んでいた。
「お疲れさま、お父さん」
「おお芳佳。明日の件、準備はできてるか? 着物ならもう頼んであるからな」
お父さんは、新聞から顔を上げずに言った。
「お父さん、その件で話があるんだけれど」
「話? 何だ」
小松原は、深呼吸した。
大丈夫だ。きっと、大丈夫。
「そのお見合い、お断りしたい」
お父さんの手が止まった。ゆっくりと新聞を畳みながら、ため息をつく。
「芳佳、何を言ってるんだ? せっかく良い話を持ってきてやったのに」
「それは、悪かったかもとは思うけど。でも、私には結婚より他に、やりたいことがあるんです」
「やりたいこと? 仕事のことか? 女がそんなもので、一生食べていけると思ってるのか?」
お父さんの声が厳しくなった。
「食べていけます。私、お父さんが思ってるより、しっかり社会人してるんで」
「だがな、芳佳。女はいつか、結婚して家庭を持ちたくなるものなんだ。それが自然なことなんだよ」
「でも、それはそのときに、私が決めることじゃないですか? お父さんが好きにするようなことだと思ってません」
小松原は、震える手を握りしめた。
「私の人生は、私が決めたい……んです。お父さんに心配をかけるつもりはありません。でも、お父さんの言うような価値観だけで生きるのは、私には合ってないんです」
お父さんは、黙っていた。長い沈黙が続いた。
「…………お前は、本気でそう思ってるのか?」
「はい。この上なく本気です」
「…………そうか」
お父さんは、ため息をついた。
「芳佳がそこまで言うのは珍しいからな、仕方がないから、今回は無理強いはしない。だが、あとで後悔しても知らないぞ」
「後悔しません。自分で決めたことですから」
小松原は毅然と言った。でも、ちょっと涙が浮かんでしまっていた。
お父さんは、再び新聞を手に取った。
「…………まあ、仕事が忙しくても、うちに顔ぐらい出しなさい」
それは、お父さんなりの、理解の表現だった。
*
月曜日の朝、小松原は晴れやかな顔で出社した。
「小松原ちゃん! どうだった?」
七緒さんが駆け寄ってきた。
「うまくいきました。お父さん、最後は理解してくれました」
「よかった!」
みなみさんも嬉しそうに微笑んだ。
「これで、思う存分自分らしく生きていけますね」
「はい。二人のおかげです。本当にありがとうございました」
小松原は深く頭を下げた。
「何言ってんの。こっからが本当のスタートでしょ?」
七緒さんがいかにも「良いことを言った」という顔で、ニヤニヤと笑った。
「そうですね。私、頑張ります」
小松原は新しい決意と共に、自分の席に向かった。
ふと、増川先輩が通りかかる。
「小松原さん、体調はもう大丈夫ですか?」
「はい! ありがとうございます、先輩! 今日から小松原、また頑張ります!」
小松原の返事に、増川先輩は少し驚いたような顔をした。いつもと違う、明るい雰囲気を感じ取ったのだろう。
騒ぐみなみさんや七緒さん、小松原の席を後にして、増川先輩は静かに自分の席に向かった。
(……なんだか、井上さんの周りに、また僕より親しい人が増えたような……)
そう思いながらも、増川は小松原の変化を、心の中で静かに評価した。
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