第8話 『増川と井上さん、家庭料理。』
「増川さ〜ん。今日の夜、空いてますか?」
ニヤニヤしている中津さんが営業部のデスクに近づいてきたのは、平日の夕方だった。
「……特に用事はありませんが」
答えながら、増川は書類を整理する手を止めない。中津さんは編集部で、井上さんとよく一緒にいる人だ。何かと圧が強くて苦手なタイプの女性と認識していた。
「実は井上ちゃんが、手料理をご馳走してくれるって言うんですけどぉ。増川さんも、よかったら一緒にいかがですか〜?」
手料理。
増川の手が一瞬止まった。井上さんが、料理を。
「……どうして、僕に」
どうして、当の井上さんでなく、中津さんが。少しの非難を込めて口に出すと、中津さんは意に介さない様子でヘラヘラと笑った。
「だって、増川さん、いつも残業で遅いでしょ? 独身だし、若いし、どうせろくなもの食べてないんじゃないですか? たまにはちゃんとしたもの食べなくちゃダメですよ」
中津さんの言葉に、心の中で焦る。
井上さんの。
手料理。
(手料理。って、まず、どこで? 中津さんと三人で? 僕は何を話せば……?)
「いかがですかぁ? 井上ちゃんの料理、本当に美味しいんですよぉ〜?」
そこだ。
問題は、井上さんの手料理を食べるという、またとないチャンスだということだ。
逃すわけには、いかないだろう。
だから、表情を変えずに答える。
「……分かりました。お邪魔させていただきます」
やった! と、中津さんは小さく飛び跳ねた。
*
井上さんのマンションは、新しくて落ち着いた雰囲気だった。思いのほか高層に住んでいて、中津さんが勢いよく玄関を開けると、何かふわっと柔らかい匂いが漂ってくる。
「増川さん、いらっしゃい! さあ、どうぞどうぞ!」
なぜか、飛び込んでいった中津さんがそう元気よく増川を迎え入れ、奥からはエプロン姿の井上さんがテトテトと現れた。
「増川さん! いらっしゃいませ! 今日はお疲れさまでした。狭いところですが、どうぞどうぞ」
「お邪魔します」
なるべく顔に出さないように、無表情のまま頭を下げた。
内心では、井上さんの無防備な姿に平静ではなかったが、それを表に出すわけにはいかない。
(…………中津さんが居るのはなんでなんだろう……?)
ふと、そんな素朴な疑問が、今さらながらに湧く。
(まあ、今は彼女がいてくれて、助かるのか……)
女性らしい、なんとなくミニチュアな部屋だった。
リビングに通されると、テーブルには既に料理の準備が始まっていた。
木製のローテーブルの上に、人数分の器と可愛らしい柄の鍋敷きが置かれている。
「シチューを作ったんです。寒くなってきましたから」
井上さんがサラダを両手で大事そうに持ってくる。
なんというか、そういう仕草のひとつひとつが、やたら増川の心に刺さる。
エプロンのせい、だろうか。
自分の場違い感がすごい。
「増川さん、座って座って! 井上ちゃんの料理、美味しいんですから。楽しみにしててくださいね」
中津さんが騒ぐのを聞きながら、増川は心の中で、改めて呟いた。
(………で、中津さんは、どうしてここにいるんだろう……)
複雑な気持ちだ。
井上さんがシチューを運んできて、丁寧な手つきで盛り分ける。
見た目には家庭的で、普通の手料理というか、レストランのような洗練さはない。
でも、それがかえって温かみを感じさせて、井上さんがいつの間にかエプロンを脱いでいるのも相俟って、なんだかますます増川には居た堪れない空間になってくるのだった。
「お待たせしました!」
井上さんは、にっこりと両手で大切そうにシチューを差し出した。
焦茶色の、木製の深い小ぶりの器に盛られた、ホカホカの暖かいそれ。
「ありがとうございます」
両手で受け取り、ランチョンマットの上に置く。
この部屋に居るとなんだか料理までもが、小ぶりで可愛らしく見える。
そういう、魔法がかかっているのだろうか。
「いただきます」
増川は無表情のまま、スプーンを手に取った。
(落ち着こう。彼女たちにとってこれは、ただの夕食…………普通の、食事なんだ)
一口すくって、口に運ぶ。
その瞬間——
(………………)
味の衝撃が、口に広がった。
野菜の自然な甘み、肉の旨味、それらが絶妙に調和していて、シンプルに一口目から美味しい。
隠し味に使われているであろう何かが、全体の味を一段深いものにしている。
「……えっ……」
思わず漏れた小さな声。それ以上は言葉にできなかった。
しかしここで、表情は変えられない。
中津さんがこちらをニヤニヤと凝視しているうちは、特に。
「でしょー!?」
しかし、増川が何も言わなくても、中津さんは「言った通りでしょ!」とゲラゲラと笑い転げた。
見れば見るほど増川のものすごく苦手なタイプだが、今はそんなことよりも、井上さんのシチューが異常に美味いことのほうが重要だった。
井上さんは、照れたような笑顔を浮かべて「えへへ」と頬をかいている。
(もっと感想を言いたい。この野菜の切り方、煮込み具合、全てがきちんと計算され尽くしている。でも……僕が井上さんの手料理の批評をするというのは、ここでは特に適切ではない気がする)
増川は無表情のまま、黙々とスプーンを進めた。
静かにひたすら食べることでしか、今の自分には感謝を表現する方法がなかった。
三人のスプーンが皿に当たる小さな音と、中津さんと井上さんの女子トークだけが、部屋に響く。
(美味しすぎる。これが家庭の味? そんなレベルではないように思うけれど)
食べ進めるうちに、増川の心は温かくなっていった。普段の冷たい弁当やコンビニ食とは全く違う、誰かが心を込めて作ってくれた料理の温かさ。
さっきまであんなに居た堪れなかったのに、今はむしろ、ここにずっと居たいような気すらしてくる。
そうか。これがもしかして、『胃袋を掴まれる』という状態なのか。
「増川さん、い、いかがですか?」
井上さんは中津さんに唆されて、優しい声でそう増川を覗き込んでくる。
それでも、井上さんに感想を聞かれているのだから、答えなくては。
増川は一瞬スプーンを止めた。
言葉にならない感情が胸に渦巻いていて、適切な発言が選べそうにもない。
「……美味しいです。とても」
短い言葉だったが、精一杯の感想だった。
(本当はもっと言いたいことがある。この料理がどれほど素晴らしいか。仮にこれを取引先に売り込めと言われれば、たぶん僕は何時間でも営業できるんだろうけれど。でも、今はこれが……限界だ)
「野菜の甘みが出ていて、しっかりコクもある。手をかけて作ってくださったのが伝わります」
なんとか言葉を続ける。
井上さんの顔が、パァッと嬉しそうに輝いた。
「そんな、手をかけたなんて……ふ、普通のシチューですよ!」
「いえ、普通じゃありません」
それは本心だった。これほど心のこもった料理を食べたのは、いつ以来だろう。
「見た目じゃ判断しちゃダメだな……」
井上さんが、なぜか反省したように、小さく呟く。
その言葉に、増川は内心で深く頷いた。
(その通りだ。大切なのは見た目じゃない。込められた気持ちだ)
気持ち……。
ダメだ。
無表情が保てない。
横で中津さんが、ニヤニヤこちらを凝視しているというのに。
そのニヤニヤとしただらしない口元が、こちらにもうつってきてしまう。
唇を噛んで、なんとかそれをこらえる。
「おかわりはいかがですか?!」
井上さんの提案に、増川は即座に答えた。
「……いただけますか」
もう一度、この味を味わいたい。一度と言わず、十回、二十回と、何度でも。
器が再び満たされるのを見ながら、中津さんが次の料理の話を指折り数えているのが聞こえる。ハンバーグ、カレー、オムライス。
「……楽しみにしています」
増川の答えは短かったが、その言葉には確かな期待を込めていた。
(井上さんの手料理を、また食べることができるなら……)
無表情の顔の奥で、増川の心は静かに躍っている。
普段感情を表に出すことのない増川にとって、この温かな料理は自分の本心に触れる、何にも代えがたい宝物になろうとしていた。
そして、今日の当たり障りのない小さな感想が、自分なりの最大級の賛辞だったことを、井上さんにも分かってもらえているのだろうか。
増川はそっと、そんなことを考えた。
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