第6話 『増川と井上さん、完璧なデート。』


 増川直文は、スマホの手帳を開いた。そこには、メモがびっしりと書き込まれている。


「スペインバル『エル・ソル』、午後七時予約済み」

「おすすめメニュー:パエリア、アヒージョ、生ハム」

「話題:井上さんの好きな本、最近の編集の仕事、趣味について」


 マラソンの件で井上さんに迷惑をかけてしまった分、今度こそ、完璧なデートにしなければならないと増川は心に決めている。


 昼休みを返上し、いつものカフェでさらに詳細な計画を練った。レストランへの最適なルート、雨が降った場合の対処、会話が途切れたときのため、予備の話題まできっちりと決めておく。何度も読み返し問題や抜けがないことを確認すると、頭がクリアになって、ようやく心が落ち着きを取り戻した。


「これで大丈夫なはず……」


 手帳を閉じながら、増川はため息をついた。

 自分は真面目なほうだと言われる。それは必ずしも批判というわけではないのだろうけれど、井上さんにもそう思われてしまったらと思うと、無性に不安になるのだ。


   *


 待ち合わせした駅前に、井上さんがテトテトと現れた。白のブラウスにキャメルカラーのスカート。いつもより少しだけお洒落をしてくれた様子の姿に、増川の胸がときめく。


「増川さん、お待たせしました!!」


 井上さんが、そう白くて小さな手をひらひらと振る。


「いえ、僕もたった今来たところです」


 嘘だった。実際は、三十分前からこうして待っていた。


「今日はよろしくお願いします!!」


 井上さんの屈託のない笑顔に、増川は内心で計画を振り返る。


 まず店に案内して、予約したテーブル席に座り、メニューの説明を簡単に話しながらオーダーする。


 大丈夫、――完璧だ。


「エル・ソルというお店です。仕事でたまに使うんですが、スペイン料理で、雰囲気もカジュアルで過ごしやすいお店です」


「わあ、楽しみです!! スペイン料理って、実はあんまり食べたことなくて」


 増川は内心で安堵した。事前に調べておいて正解だった。井上さんに、新しい体験をしてもらえる。



   *



「いらっしゃいませ。増川様でしょうか」


 青色の看板のレストランに着くと、店員がそう朗らかに出迎えてくれる。


 計画通りで、安堵する。


「はい、七時に席を予約していただいた」


「申し訳ございません。実は急遽、大きなご予約が入りまして。テーブル席がご用意できなくなってしまいました。カウンター席でしたらご案内できるのですが」


 増川の頭が、真っ白になった。


「カウンター……席?」


 計画にはない展開だ。テーブル席での向かい合った食事を前提に、全てを組み立てていたのに。


「申し訳ありません、他の店を探しましょうか」


 増川が振り返りさっそく提案すると、井上さんは驚いたように両手を左右に振った。


「とんでもないです!! カウンター席、なんだかおしゃれでいいですね!! 増川さんと隣同士で、ゆっくりお話できるの嬉しいです!!」


 井上さんの笑顔と言葉に、増川は複雑な気持ちになる。


「……では、カウンター席で、お願いします」


   *


 カウンター席に座ると、予定とは全く違う雰囲気だった。


 隣同士で座ることで、自然と距離が近くなる。肘が、触れそうなほど。


「メニューを見てみましょうか」


 増川は覚えていたメニューの知識を披露しようと思ったが、実際のメニューを見ると、調べていたものとは微妙に違っている。


 季節限定のメニューが多く追加されていて、価格もピンからキリまで違う。


「ええと……」


 準備していた説明が、役に立たない。


 取引先相手ならスムーズに対応できるのに、井上さんが隣にいると思うと頭が働かなかった。


「増川さん、どれも美味しそうですね!! 何がおすすめですか?」


「……正直に言うと、僕もここは仕事で使うことがあるだけで、よく来るわけではないんです」


 完璧な案内をするつもりだったのに。


 しかし、井上さんは嬉しそうに笑った。


「えへへっ! じゃあ、一緒に選びましょう!」


 井上さんの提案で、二人でメニューを覗き込む。


 肩が軽く触れ合って、増川はドキッとした。


「パエリアって、二人で分けるものなんですね。ふぅ〜ん……」


「アヒージョは、パンに付けて食べるやつです」


「ああ!! 見たことあります!! ガーリックのやつですね」


 用意していた会話の話題リストは、スマホの中のまま使うことなく、自然と料理の話で盛り上がっていた。


   *


 パエリアが運ばれてきた。大きな平鍋に美しく盛られた、彩り豊かなスペイン料理。


「わあ、きれい!!」


 井上さんの歓声に、増川も思わず感心した。パシャパシャと写真を撮っている井上さんは、心底この状況を楽しんでいるように見える。


 よかった。


「僕が分けますね」


 大きな丸型スプーンでパエリアを取り分けながら、増川の手が少し震えた。井上さんが、この上ないほど近くで見上げているからだ。


「増川さん、お上手ですね」


「そう……でしょうか」


 褒められて嬉しいはずなのに、素直に喜べない自分がいる。計画通りにいかないことへの罪悪感が、まだ心に残っている。


 アヒージョのオリーブオイルにパンを浸しながら、井上さんが小さく「あつっ」と声を上げた。


「大丈夫ですか?」


「はい、ちょっと熱くて。失敗しちゃいました。てへへ」


 増川は自然と井上さんの手を心配して見つめた。距離が、近い。


 ふと、目が合う。そのまま、見つめ合う。自然と、会話が途切れた。


 増川は、意を決して口を開いた。


「井上さん、実は今日……僕は、すごく入念に準備してきたんです」


「準備、ですか?」


「メニューも調べて、話すことも考えて……でも、全部、予定通りじゃなくなってしまって」


 増川は、申し訳ない気持ちで打ち明ける。完璧主義の自分が、今日ほどうまくいかなかった日はなかった。よりによって今日でなくても、いいのに。


「本当ですか? 増川さん、全然そんなふうに見えないのに……!」


 井上さんが、驚いたような顔をする。


「計画通りにできなくて、すみません」


「とんでもないです!!」


 井上さんの声が、少し大きくなった。


「増川さんが私のために、そんなに準備してくださっていたなんて……嬉しいです。えへへ」


「でも、失敗ばかりで」


「失敗なんてこと、全然ないですよ。増川さんは、誰よりも完璧な方なんです。私にとっては……」


 井上さんの言葉に、増川は顔を上げた。


「そんな増川さんが、私は……」


 井上さんの頬が、カァっと赤く染まる。


「私は……だ、大好き……なんです」


 増川の心に、井上さんの告白が響いた。


 言葉を失う。自分の不完全さを詫びようとしていたのに、それを肯定してくれる人がいる。


「僕も……」


 増川は、素直に答えた。


「僕も、井上さんが……大好き、なんです」


 カウンター席での思いがけない距離の近さが、二人の心も近づけていた。


 ふふ、と井上さんが笑う。


「なんかいいですね」


「なんか……いい?」


「完璧じゃないから、完璧で。いいですね」


 その言葉に、増川は初めて、計画通りでないことの美しさを知った。

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