『みなみと増川』
今砂まどみ
第1話 『みなみと増川さん、出会う。』
みなみは手帳をぱたんと閉じた。今日のスケジュールは……えーっと、編集会議と原稿チェックと、あと何だっけ? やっと30代になっても、多すぎるみなみの業務は相変わらず覚えきれない。
出版社『文光堂』に勤めて8年。文芸書の編集部で働くみなみは、毎日をせわしなく、でもマイペースに過ごしていた。
昼休み、いつもの会社裏のカフェに向かう。なぜか今日は、すごく混んでいる。
「あれ? 何だろ、イベント?」
首をかしげながら、いつもは上がらない二階へ。人いきれのなか空いている席を探していると、窓際のテーブルに一つだけ空きを見つけた。
「すみません! ここ、空いてますか?」
向かいに座る男性に声をかけると、読んでいた本から顔を上げた。あ、この背の高い人、見たことあるよ。同じ会社の人だ。
「はい、どうぞ」
彼は丁寧に手のひらを差し出して、席を勧めてくれた。キビキビした動きといい、声といい。真面目そうな、人だなあ。
「あの、もしかして文光堂の方ですか? 編集部の井上です。井上みなみ」
「ああ、編集部の井上さんですね。僕は、営業部の増川です。いつもお疲れさまです」
増川さんは優しそうに微笑んだ。話してみると、とても本が好きな人で、読んでいるジャンルも話が合う。営業に使う情報なのか、みなみが編集した作品についても、すごく詳しかった。
「井上さんが担当された『雲の記憶』、本当に素晴らしい作品でした。あの本のおかげで、取引先の書店さんからも随分高い評価をいただいて」
「えへへ、そうですか? 実は私も、あの作品にはすごく思い入れがあって……」
『雲の記憶』は、初仕事でおぼつかないながらも、生まれて初めて作家さんと真剣に進められた企画だ。褒められるのは今でも嬉しい。
「こんなことを尋ねるのも失礼かもしれないんですが、井上さんは、バッグが大きいですよね。もしかして、本を持ち歩いてらっしゃるんですか?」
「あ、そうなんです。いま読んでる本と、担当してる作家さんの新刊と、自己啓発本みたいなやつと、スマホでも読むんですけど、読み返すやつはなんだか、ついアナログに頼っちゃって」
「手帳も手書きされるほうですか?」
「そうなんです! 分かりますか? 書かないとどうしても覚えられなくって」
「工夫されてるんですね」
褒め上手っていうのかな? 営業の人だからだろうか。増川さんは、とても話しやすい印象の人だった。偶然だったけど、今日は相席できてよかった。
そのまま好きな本の話をしていたら、気がつくと昼休みが終わっていた。時間が経つのって、早いなあ。
*
翌週、みなみは朝から青ざめていた。企画会議の曜日を勘違いしていて、重要な企画書がまだ1ページも用意できていない。手帳を見ると、締切は今日だった。
「うわあああー! どうしよう! 忘れてたよー!」
慌てて企画書を作り始めたけれど、グラフの作り方がどうしても思い出せない。パソコン仕事は苦手だ。そういうのが得意そうな同僚に聞いてみようとするけれど、手伝ってもらうのは悪いような気がして、いちいち検索して作り方を調べてしまう。そんなことをしていたら、資料作成は夜中の3時になっても進んでいなかった。
「どうしよう……明日部長に怒られちゃう」
泣いていても仕方ない、自分が悪いのだ。なにはともあれ、仮眠室を借りて横になる。明日も朝イチから取り掛かるしかないのだが、たぶん会議の時間までには終わらないだろう。涙が出てきてしまう。
翌朝、みなみが必死で続きの資料を作成していると、案の定、出勤してきた部長に呼ばれた。年配の部長がわざわざ立ち上がってみなみのことを呼び寄せるのは、まさか雑談のためじゃないだろう。
「井上くん、例の企画、昨日が締め切りだったはずだけど。任せた企画書は?」
「えーっと……すみません、まだちょっと……! もう少し待ってください……」
頭を下げながら言うと、部長は腕組みしてため息をつく。
「井上くん、あのね。君はいつもそうだよね。はっきり言うけど、やる気あるの? 入社何年目なわけ。そろそろ、もう少ししっかりしてもらわないと困るよ」
みなみは涙目になった。やる気だけはあるのに、いまだにそれを疑われるような仕事しかできない自分が、もどかしい。
そのとき、そんなみなみを庇うように、後ろから声がした。
「編集部長、お疲れさまです。営業の増川です」
振り返ると増川さんが立っていて、ぴしりと端の揃った資料とUSBを手に持っていた。
「実は昨日、井上さんから企画の相談を受けまして、市場分析をお手伝いさせていただきました。こちらがお待ちいただいていたデータになります」
「……井上くんが、営業部に相談を?」
部長は資料を受け取って目を通し、感心したように頷いた。
「へぇ、これは詳しいデータだね。感心したよ」
部長はそうUSBを外すと、席を立った。
「井上くん、営業部とも連携が取れてるんじゃないか。締切は守ってもらいたいけど、内容は次からもこの調子で頼むよ」
そう言い残して、満足そうに去っていく。
「増川さん……どうして?」
みなみは涙目のまま、背の高い増川さんを見上げた。増川さんは淡々とした声音で続ける。
「昨夜遅くまで電気がついていたので、もしかして困っているのかなと思いました。勝手にお手伝いしてしまってすみません」
そう増川さんはキビキビとした所作で、サッと素早くみなみに頭を下げた。
「あ、謝らないでください! むしろありがとうございます! 一生ご恩に感じます! お礼に今度、えーっと……何かご飯とか、奢ります!」
増川さんは、相変わらず真面目そうな顔で聞き返した。
「何かって……?」
聞き返されて、咄嗟に頭が真っ白になる。
「うーん、何がいいですかね? わっ、和食は好きですか? それとも意外とイタリアン? とか? な、何でもいいです! 増川さんの好きなものなら高いのでも! 頑張ります!」
感謝の気持ちをわかって欲しくて、みなみは握った拳をぶんぶんと振った。増川さんは困ったような、でも嬉しそうな顔をしている。
「それでしたら、おすすめのお店があるのでそこで。でも、条件があります」
「条件?」
「今度僕が困ったときは、井上さんが助けてください」
「はっ、はい! でも私、あんまり役に立たないかもですが。全力でお助けさせていただきます!」
「ははっ」
増川さんは嬉しそうに笑うと、ぺこっと頭をまたきちんと下げて、編集部から出て行った。
その後ろ姿を反芻して、なんだか、無性にドキドキする。
日差しがキラキラ、開けられた窓から差し込む。
いつものオフィスが広く、明るく心地よく見えている。
みなみは自分でも知らないうち、かろやかに鼻歌を歌っていた。
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