黄色い長靴

籠目瞳(カゴノメ)

第1話 靴


 ぴしょん、ぴしょん……。


 頭上に聞こえる水の弾ける音を聞きながら、僕は膝を抱え、誰も入ってこられない狭い空洞で、一人憂鬱な溜息を吐く。


 一週間の終わりの日曜日。


 外では、線のような雨が激しく地面を打ち鳴らし、水溜まりの輪を広げていく。それを見つめながら僕は、どんどん気分が塞いでいくのだった。


 自分の足元に目を遣り、「はあ」と一つ溜息を吐く。僕の足をすっぽりと納めた赤地のスニーカーは、出番を失ったことを悲しんでいるかのように黒っぽく濡れてしまっている。


 ほんの少し前、お母さんがプレゼントしてくれた靴だ。我が家はお父さんがいなくてそこまで裕福じゃないから、今年の僕の誕生日プレゼントはこれだった。


 貰ったときは、自分の身を包むものが、一部でも新品のキラキラになって、自分が少し大人になったんだって思えてとても嬉しかった。そんな幸せな気持ちで外を出たところでのこれだ。


 確かに、今日は天気の予報で午後からゲリラ豪雨が降るから気を付けましょう、とテレビのお姉さんが言っていた。それを忘れて飛び出した僕も悪いのかもしれない。だけど、わざわざ今日降らなくてもいいじゃないか!


 そんな僕の憤慨も空しく、雨足はどんどんと勢いを増し、いよいよ駄目だと判断した僕は近くの公園へと避難した。


 雨を凌げそうな、頭を覆える空間を見つけて僕は走り出した。


 そのときにうっかり水溜まりを踏んでしまった。


 その瞬間、僕の宝物は濡れてしまったのだ。


 引き返すわけにもいかないし、どうしようもなくなって僕はそのままこの遊具の中に身を隠した。いずれ雨が止むのを期待して待って。


 だけどその思いも空しく、雨は今も、しとしとと降り続けている。


 どれだけここでそうしていたのかはわからない。雨から守ってくれるここには、時間を知らせる時計がないから。空は雨雲がかかかってどんよりと曇っているから、明るさでもわからないのが怖い。


 一体、僕はどれだけ待ち続ければいいのだろう。ひょっとして、一生このままなんじゃないか。そんな思いが頭を霞める。


 もう、諦めてずぶ濡れになりながら帰るしかないか。そう思い、屈めた腰を起こした時、公園の外を歩いている一人の女の子を見つけた。その子は僕の小学校の同級生で、僕の隣の席の女の子。


 名前は華憐ちゃん。


 頭がよくて、しっかり者だから僕が消しゴムとかを忘れてくると、優しく貸してくれる。


 そんな華憐ちゃんは傘を差して歩いていた。


 しめた、と僕は思った。華憐ちゃんの傘の中に少しの間だけ入れてもらおう。


 僕は狭い遊具の中から精一杯の声を振り絞って華憐ちゃんを呼び止めた。雨にかき消えてしまうかもしれないから、大きめに。


 そうしたら、華憐ちゃんは僕の声に気が付いたのか、後ろを振り返って、自分を呼び止めた声の主を探しているようだった。だから僕は遊具の中から腕と頭だけを出して、大きな声でもう一度、手を振りながら華憐ちゃんの名前を呼んだ。


「華憐ちゃん! こっち!!」


 そこでようやく僕の姿を捉えた華憐ちゃんは、一瞬びっくりしたような顔をしたけど、すぐにこっちへとやってきてくれた。


「そこで何してるの? かくれんぼ?」

「違うよ。雨宿りをしているんだ」

「ふーん」


 華憐ちゃんは僕を見下ろしながら、少し考える素振りをして、「大変だね」と言った。


「そうなんだ。だから、ちょっとだけ――」


 ――傘に入れてほしいんだ。


 そう言おうとして、その言葉は途中で遮られた。華憐ちゃんが、傘を窄めてしまったからだ。


「えっ、なんで?」


 困惑して僕が聞く。


 華憐ちゃんは僕の質問には答えず、体を押し込めて遊具の中に入ってこようとしてきた。


「狭いから、ちょっと詰めて」


 パニックになりながらも、僕は言われるままに奥に体を詰める。遊具は、子供の僕が屈んでやっとこさ入れるくらいの狭い空間だから、二人で入るとなると窮屈で仕方がない。


 華憐ちゃんは体がすっぽりと遊具の中に納まると、そこでようやく僕の質問に答えてくれた。


「私も雨宿りしようと思って」


 答えてくれたけれど、意味が分からない。なんで傘を持っている華憐ちゃんが雨宿りする必要があるのだろう。僕は聞こうとして再び口を開けて、その時、華憐ちゃんが続けて言った。


「今日の靴、下ろし立てなの」


 それで僕は合点がいった。なんだ、華憐ちゃんも僕とおんなじ失敗をしていたのか。


 そう思ったら、なんだか親近感が湧いて、体が密着していることも相俟って、華憐ちゃんのことを変に意識してしまった。そうなるとダメだった。自分の鼓動が華憐ちゃんに伝わっていないか不安で、華憐ちゃんが何かを話しかけてくれていても終始上の空で、学校のこととか友達のこととかいろいろ話してくれた気がするけど、ほとんど記憶はなかった。なんと返事していたのかも覚えていない。


 だけど、一人で雨が止むのを待っているときよりも断然心地が良かった。

 

 そうしてしばらく一緒に雨宿りしていると、突然、「あ」と華憐ちゃんがそれまでの話を中断した。


「雨、やんだみたいだよ」


 そう言って、僕の方にくるりと振り返る。


 同級生の女の子の、とても近い距離の顔に、僕はどぎまぎして「え」とか「うん」とか言葉にならない声を漏らしていると、華憐ちゃんは僕を置いて遊具から抜け出した。


 それまでずっと華憐ちゃんの背中しか見えていなかった僕は、そこで初めて外の景色を見た。


 外は、確かに華憐ちゃんが言うようにすっかり雨が上がっていて、地面に広がった水たまりが太陽の光をキラキラと反射して光っていた。


「私、お買い物の途中だったのを忘れてた。もう行くね」


 華憐ちゃんは思い出したように手を叩くと、僕に向けてバイバイと手を振って、公園から出て去っていく。


 そのとき、ふと華憐ちゃんの足元に目がいった。その足には黄色い長靴が履かれていた。


 僕は去っていく華憐ちゃんを茫然と見つめながら、ゆっくりと遊具から這い出した。濡れていたはずの靴は、すっかり乾ききっていた。

 

 外へと出ると、それまで窮屈な姿勢で屈んでいたから腰が痛くなって、思わずおじいさんみたいに腰を起こした。


 その瞬間、視界が空まで広がって、雨が上がったのを喜ぶ二匹の雀が、ちゅんちゅんと鳴いて、どこかへと飛び去っていった。


 白い光を照らす太陽の麓の空には、七色の虹が架かっていた。

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