第6話 嫉妬という名の毒
真由美に「どこかへいく」と
恵を失うかもしれないという
体育館の高い天井に、生徒たちの声が反響する。 舞台として区切られた中央では、恵とロミオ役の佐伯が台詞の読み合わせをしていた。
俺は舞台セットの木材にヤスリをかけながら、意識のすべてをそちらに向けていた。
「『ああ、その手に触れるとは、なんという幸せだろう!
この卑しい手によって汚された聖なる宮殿よ、もし……』」
台詞に詰まった恵が、困ったように俯く。
すると佐伯は、練習用の台本を片手に持ったまま、すっと恵の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫、河野。ここは、もっと感情を込めていい。俺がリードするから信じて」
佐伯が、絵に描いたような爽やかな笑顔で言う。恵は、ハッと顔を上げ少し驚いたように目を見開いた後、コクリと頷いて、はにかむように微笑んだ。
その瞬間、俺の中で何かが焼き切れる音がした。
キイッ、とヤスリが木材を削る音が、甲高く耳につく。
俺は、木材を握る自分の手の関節が白くなるほど力がこもっていることに気づいた。
血が頭のてっぺんから足の先まで、一度に逆流するような感覚。
なんだ、あれは……
なぜ、あいつは恵に触れている?
なぜ、恵はあいつに笑いかけている?
それは、今まで感じたことのない、黒く、醜く、そしてどうしようもなく強力な感情だった。
ああ、これが『嫉妬』というものか。
俺は初めて、その毒の名をはっきりと自覚した。
守る? 誰が、何をだ。
これはそんな綺麗なものじゃない。
ただ、俺以外の誰かが恵に触れるのが、恵が俺以外の誰かに心を許すのが、許せないだけだ。
その日の練習が終わると、俺は汗を拭う恵の元へ一直線に向かった。
「恵、ちょっと来い」
「え、達也? なに……わっ!」
俺は返事を待たずに恵の腕を掴むと、ほとんど引きずるようにして体育館を後にした。
目指すのは昨日の放課後、真由美と話したあの体育館裏だ。
「い、痛いよ、達也! なんなんだよいきなり!」
「うるさい!」
日陰になったひんやりとしたコンクリートの壁に、俺は恵の背中を乱暴に押し付けた。
逃げられないように、片腕を壁についてその行く手を塞ぐ。
恵は怯えたような、そして抗議の色を浮かべた瞳で俺を見上げていた。
「なんであいつに触らせてんだよ!」
俺の口から飛び出したのは、自分でも驚くほど低く、怒りに満ちた声だった。
「……えっ?」
「佐伯だよ!
なんであいつとあんなに楽しそうに笑ってんだ!
そんなに女の役が楽しいか!
男のくせにヘラヘラしやがって!
恥ずかしいと思わねえのか!」
言葉は、一度堰を切るともう止まらなかった。
苛立ち、焦り、そして醜い嫉妬……すべての感情が、八つ当たりのような刃となって恵に突き刺さる。
俺が言っていることが、いかに理不尽で筋が通らないことか、自分でも分かっていた。
でも、もう止められなかった。
恵は、俺の言葉を黙って聞いていた。
その大きな瞳に、みるみるうちに涙の膜が張っていく。
唇をきつく結び、何かに耐えるように小刻みに震えていた。
やがて、耐えきれなくなったように震える声で言い返してきた。
「……楽しいわけ、ないだろ」
その声は、絞り出すようで、ひどくか細かった。
「僕だって、男なのに、女の子の役なんて……恥ずかしいに決まってる!
でも、クラスのみんなが決めたことだから、期待に応えたいって……!」
恵の瞳から堪えていた涙が一筋、頬を伝った。
「あの頃の達也なら、きっと応援してくれた……! 僕の気持ち、一番分かってくれたはずなのに……!」
あの頃……
その言葉に、恵の脳裏には、きっと同じ記憶が蘇っていたはずだ。
中学生の秋……駅伝の選手に選ばれた恵は、ひどいプレッシャーでスランプに陥っていた。
そんな時、俺は毎朝、誰よりも早く起きて恵の自主練に付き合った。
朝靄の中、並んで走りながら何度も励ました。
『大丈夫だ、恵。お前なら走れる。俺がついてるから』
あの頃、俺は恵の一番の理解者だった。
恵も俺を一番信頼してくれていた。
揺るぎない、確かな絆がそこにはあった。
「なのに……!」
恵は絶望をたたえた瞳で、俺を強く睨みつけた。その瞳は、まるで知らない人間を見るかのようだった。
「今の達也には僕の気持ちなんて、ちっとも分からないんだ!!」
叫びと共に恵は俺の腕を力いっぱい振り払うと、踵を返して走り去ってしまった。
小さな背中が、夕暮れの校舎の影に吸い込まれて消えていく。
……どこかで聞いた童謡の一節が、不意に頭の中で鳴り響いた。
ささいなことで拗ねてしまう、そんな子供じみた歌。
けれど、これはそんな歌のような「ちいさなこと」なんかじゃない。
俺は言ってはいけない言葉で、あいつの心を深く、深く傷つけた。
体育館裏には、俺一人だけが取り残された。
壁に寄りかかり、ずるずるとその場に座り込む。
言ってしまった言葉の重さと、恵の最後のあの目に、俺はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
物心ついてから俺たちが、こんな風に本気で喧嘩するのは初めてのことだった。
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