のっぺらぼうの恋

奈良まさや

第1話

第一章 孤高の医師


白亜の壁に囲まれた大学病院の廊下を、軽やかな足音が響く。新人看護師の美紀は、今日もまた忙しい一日を迎えようとしていた。


「おはようございます」


同僚たちに挨拶をしながら、美紀は内心でため息をつく。人間社会に紛れて働き始めてから三年。のっぺらぼうとしての正体を隠しながらの生活は、思っていた以上に複雑だった。


八百年とも言われる長い生涯の中で、美紀は百歳。まだまだ子供だ。しかし、様々な時代を生き抜いてきた。第二次世界大戦で多くの友人をなくし、高度経済成長期には地味に女学校の教師として過ごした。そして現代——医療という、最も人の生死に近い場所を選んだのは、自分でも理由がよくわからなかった。


「美紀ちゃん、今日は外科病棟よ」


先輩看護師の声に我に返る。外科病棟。それはあの人がいる場所だった。


桂一男。この病院で最も優秀とされる外科医だが、常に黒い服に身を包む奇怪な男性だった。手術着も、白衣も、すべてが漆黒。まるで死神のような出で立ちに、患者たちは恐れおののくことも少なくない。


それでも、彼の腕は確かだった。どんな困難な手術も成功させ、諦められた命を幾度となく救ってきた。


「桂先生の患者さん、また亡くなったのよ」


廊下で聞こえてきた同僚の囁き声に、美紀の足が止まる。


「三人目よね、この月だけで」


「手術は成功したって聞いたけど……」


「そう、手術は大成功。神の技。でも、全然関係ない病気でポックリ。なんか不気味よね、あの先生」


美紀は眉をひそめた。のっぺらぼうとしての長い経験が、何かしらの異常を感じ取っていた。確かに桂の周りでは、統計的に見て死亡率が高い。しかし、それが彼の技術不足によるものではないことも、美紀にはわかっていた。


病室に入ると、桂が一人でカルテを見つめていた。黒いシャツの袖をまくり上げ、真剣な表情で数字を追っている。その横顔に、美紀の胸が小さく高鳴る。


百歳になってから初めて感じる、この不思議な感情。人間たちが「恋」と呼ぶものなのだろうか。


「看護師さん」


桂の低い声に、美紀ははっとする。


「はい」


「君は……俺をどう思う?」


突然の質問に、美紀は戸惑った。桂の瞳には、深い孤独が宿っている。


「とても優秀な先生だと思います」


「それだけか?」


桂の問いかけに、美紀は言葉を失う。のっぺらぼうとしての直感は、この男性に何か人ならざる気配を感じ取っていた。しかし、心のどこかで、彼を信じたいと思う自分がいる。


「私には……わかりません」


正直な答えだった。桂は小さく笑うと、再びカルテに目を向けた。


「そうだな。誰にもわからないさ」


その呟きに込められた諦めの色に、美紀の胸は締め付けられた。この孤高の医師は、いったい何を背負って生きているのだろうか。


夕暮れの病院で、二つの影が長く伸びていた。


第二章 噂と疑惑


「また桂先生の患者さんが……」


ナースステーションに集まった看護師たちの声が、重苦しく響く。今度は肺がんの手術を受けた50代の男性患者だった。手術そのものは完璧だったにも関わらず、術後2週間で急変し、再入院。そのまま息を引き取った。


「おかしいわよ。あの先生の患者さんばかり」


「でも手術の腕は確かなのよね」


「だからこそ不気味なのよ。まるで死神みたい」


美紀は黙ってその会話を聞いていた。のっぺらぼうとしての冷静な観察眼は、確かに異常な死亡率を捉えていた。しかし、桂の医術には一片の曇りもない。矛盾する事実に、美紀は混乱していた。


「美紀ちゃんはどう思う?」


同僚に振られて、美紀は慌てて答える。


「わかりません。でも、桂先生が意図的に患者さんを……そんなはずは」


「あなた、桂先生を庇うの?」


その問いかけに、美紀は頬が熱くなるのを感じた。庇っているのだろうか。それとも……。


午後の回診で、美紀は桂と二人きりになった。病室を出た廊下で、桂が立ち止まる。


「君は俺を疑わないのか?」


「疑うって……何をですか?」


桂は振り返り、美紀を見つめた。その瞳には深い悲しみが宿っている。


「みんな俺を怖がる。近づこうとしない。それが当然なのかもしれない」


「先生……」


「俺は呪われているんだ。近くにいる人間の寿命を縮めてしまう」


桂の告白に、美紀は息を呑んだ。のっぺらぼうとしての本能が、彼の言葉が真実であることを告げていた。


「だから特殊な黒い服を着ている。少しでもその力を抑えるために」


「それでも医者を続けるのですね」


美紀の問いに、桂は苦笑いを浮かべた。


「矛盾しているだろう? 命を救いながら、命を奪っている」


「でも、先生が救った命の方が多いはずです」


美紀の言葉に、桂は目を見開いた。


「君は……変わっているな」


その時、美紀の胸に確信が生まれた。この感情は確かに恋だった。人ならざる者同士の、奇妙な運命的出会い。


「私も変わり者ですから」


美紀の微笑みに、桂は初めて安らいだ表情を見せた。


しかし、二人の周りには既に暗い影が忍び寄っていた。病院の片隅で、赤い瞳が二人の様子を見つめている。飛倉——血を糧とするコウモリ妖怪が、獲物を定めていた。


第三章 病院内の失踪事件


深夜の病院に、異常事態を知らせるアラームが響き渡った。


「3階西病棟で患者さんが行方不明です!」


夜勤の看護師の声に、医師たちが次々と駆けつける。美紀も急いで現場に向かった。


失踪したのは、胃がんの手術を終えたばかりの60代男性患者だった。病室のベッドには血痕が残り、窓は開け放たれている。しかし、3階からの転落にしては血の量が異常に多かった。


「警察を呼びましょう」


「いや、まずは病院内と落ちたと思われる場所を捜索だ」


医師たちが慌ただしく動き回る中、美紀は静かに血痕を観察していた。のっぺらぼうとしての鋭敏な感覚が、この血に込められた恐怖と絶望を感じ取っていた。


「何か気づいたことは?」


桂の声に振り返ると、彼も血痕を見つめていた。黒いシャツの胸元が、わずかに汗ばんでいる。


「この血の匂い……ただの出血じゃありません」


美紀の呟きに、桂の表情が険しくなった。


「君にそれがわかるのか?」


「私、昔から鼻が利くんです」


嘘ではなかった。のっぺらぼうとしての能力を、人間らしい表現で伝えただけだ。


警察が到着し、病院は一時騒然となった。しかし手がかりは少なく、捜査は難航した。患者は依然として行方不明のまま、翌日を迎える。


「桂先生の患者さんでしょう?」


「また桂先生関係?」


看護師たちの囁きが、今度ははっきりと桂を疑うトーンを帯びていた。失踪した患者も、桂が執刀した手術の患者だった。


「おかしいわよ。いくらなんでも偶然にしては」


「でも先生が患者さんを殺すなんて……」


美紀は胸の奥に怒りを感じていた。桂への疑いの目が、日に日に強くなっている。しかし、のっぺらぼうとしての直感は別のことを告げていた。


この事件の真犯人は、桂ではない。


夜が更けた病院で、美紀は一人で巡回を続けていた。のっぺらぼうの能力を使い、通常の人間には感知できない微細な変化を探っている。


そして、ついにそれを見つけた。


地下駐車場の片隅で、異様な気配を放つ影。人間の形をしているが、その周囲だけ空気が淀んでいる。妖怪だった。


影はゆっくりと振り返る。赤い瞳が暗闇に光り、牙を剝き出しにして笑った。


「よく見つけたね、のっぺらぼうさん」


飛倉の正体を隠した人間の姿は、病院の職員のものだった。医療事務として働きながら、裏では患者を餌食にしていたのだ。桂に罪を被せようと、立場を利用し、桂の患者ばかりを狙って血を吸い、衰弱させて死を早めていたのだ。


「君のお目当ては桂一男だろう?

あの男は危険な妖怪だ。」


美紀の問いに、飛倉は嗤った。


「あの男の側にいると、人間の生命力がどんどん削られる。俺にとっては最高のご馳走さ」


「それで無実の桂先生に罪を着せるの?」


「都合がいいからね。みんな疑ってるし」


飛倉の赤い瞳が、獲物を見つけた獣のように光る。


「でも君は邪魔だ。のっぺらぼうの目は誤魔化せない。目がないくせに、クックッ」


戦いが始まろうとしていた。しかし美紀の頭の中では、既に別の計画が形を成していた。


桂を守るために、自分が事件を解決すればいい。


第四章 真犯人の影


深夜の病院。廊下の明かりを振り切り、美紀は息を殺して地下駐車場へと向かっていた。美紀は、黒いマントを羽織っていた。冷えたコンクリートに反響する靴音の先で、飛倉の気配が濃く漂う。


「飛倉さん——調べさせていただきました。あなたの正体は、コウモリの妖怪ね」


低く囁きながら、美紀は闇に潜む相手を正面に引きずり出した。赤い瞳が暗闇で瞬き、飛倉は牙を剥き出しにして笑う。


「よく分かったね、のっぺらぼうさん」


飛倉が身構えたその瞬間、美紀は顔の輪郭をわずかに歪ませた。光の当たり具合がほんの一瞬だけずれる——その瞬間、のっぺらぼうの能力で自身の顔を飛倉と入れ替える。


監視カメラの死角を利用して、美紀は巧妙な芝居を打った。カメラには「飛倉」が被害者を車に連れ込む様子だけが映り、証拠が残される。のっぺらぼうの能力で飛倉の顔を借りた美紀は、黒いマントで真の姿を隠しながら、完璧なアリバイ工作を行った。


美紀はエンジン音を響かせながら、車を山道へと走らせた。血塗れの縄でぐるぐるに縛った飛倉を後部座席に転がしたまま、さらに山深い場所へと向かう。


月明かりに浮かぶ古い石碑の並ぶ林道の先端で、美紀はブレーキを踏んだ。金属音が夜の静寂を切り裂く。衝突を装った激しい音に混じり、飛倉の呻き声が響く。


「ここで——終わりにする」


その言葉と同時に、美紀は車外へ飛び降り、縄を勢いよく引き絞った。コウモリの牙は鋭く、縛られながらも何度も反撃を試みた。格闘の末、妖怪の抵抗はついに途絶え、林道には深い息遣いと土の匂いだけが残る。


痛みで目が霞み、膝をついた美紀の身体には、飛倉との戦いでできた切り傷と打撲が刻み込まれていた。ゆっくりと視界が暗転しかけたそのとき、遠くからヘッドライトの灯りが近づいてきた。


翌朝、山道をパトロールしていた警察と救助隊が、瀕死の美紀を発見した。血で染まった黒衣は山の地肌に溶け込み、彼女は意識を失ったまま横たわっていた。そばには、一匹の大型コウモリの死骸があった。


監視カメラの映像、救助隊の証言、美紀の証言、現場の状況——すべてが飛倉の単独犯行を物語っていた。桂一男への疑惑は完全に晴れ、静まり返った病院には、夜を越えた安堵だけが充満していた。

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