第3章 安心できる場所《ユウ》 1
元の世界に未練があったわけじゃない。
家にも外にも居場所のない生活を、今後も続けたいとは思っていなかった。
けれど、死にたいと思ったこともなかった。
喧嘩をしても学校をサボっても、それを咎めるのは生活指導の久保だけで、他に私の行動を責める人はいない。こっそりバイトをしてしたり、ある程度お金が貯まったら学校を辞めて、家を出て本格的に働こうと思っていた。一人でも生きていけるように。
その方が、私にとっても、
だから、自分を終わらせたいなんて微塵も思っていなかった。
「……」
「……」
黒岩を背に、両膝を抱えて座るあたしの隣に、優等生の一条優香が座っている。
先程まで泣いていたあたしとしては、今日初めまともに会話をしたん人間に泣き顔を見られたくはないので、できれば退室してほしいと思ってしまう。しかし、出口も入り口もないこの場所で、「退室してくれ」とは無理な話だ。
唯一の救いは、「泣かせてごめん」の一言以外は何も口にせず、触れず、ただ黙っていてくれていることだろうか。
『鬼のように強い夜叉路木』が目の前で泣いて、なんて声をかければよいのか分からないだけかもしれないが、あたし自身この悲しみとも恐れともしれない痛みが、どんな言葉で治るのか分からない。
涙は止まったが、赤くなって熱い瞼を隠すように、両膝に顔を埋める。
いつまでもこうして丸くなっているわけにはいかない。それは分かっている。けれど、どうしても動き出す勇気がない。
何故一条は、あんなにも淡々と自分の死を受け入れられるのだろうか。
チラッとすぐ隣の一条に目をやる。
一条はこちらを一切見ず、何もない上空をボケーッと見上げている。あたしが落ち着くのを待っているのか。それともやることがなく、ただ座っているだけなのか。中央の椅子以外は物が一切ないこの場所で、できることはかなり限られる。仕方がない。
そういえば、今は一体何時なのだろうか。
外の様子は一切見えない。時計もないこの場所では、今が朝なのか昼なのか夜なのかも分からない。あたしか一条のどちらかがまたあの椅子に座れば、外の様子が分かるのかもしれないが……正直あの時、どうやって一条がこちらに戻って来れたのかよく分かっていないため、危険なことはしたくない。
…せめて時計でもあれば……。
と思ったその時。
「…あれ?」
「え?」
驚くような一条の声に、あたしは勢いよくバッと顔を上げて振り向く。先程までボケッと上空を見上げていた一条の目線が、ある一点の場所を向いたまま止まり、見開かれている。
不思議に思い、一条の視線を追いかけて目を向ける。すると、先程まで何もなかったはずの黒岩の上側に、前の世界でよく見慣れた白い丸時計が掛けられているのが見えた。時計の針は、まもなく二時になろうとしている。
いや、掛けられていると言うよりは、中央の椅子同様黒岩から直接生えているかのような感覚だ。
悲しみと痛みは一気に吹き飛び、あたしは思わず立ち上がった。
「なっ…どういうこと!?」
「わ、分かんない。まさか本当に出てくるなんて…」
「…は?」
一条の言葉が引っ掛かり、我ながら間抜けな声が出る。
本当に出てくるなんて……とは、むしろあたしの台詞ではなかろうか。「せめて時計さえあれば……」と考えていた途端に、狙い澄ましたように時計が現れたのだから。
そう思っている、一条があたしの疑問に答えるように続けて口を開く。
「時計でもあれば今が何時なのか分かるのになぁ、って考えてて。でもまさか、本当に出てくるなんて思ってなかった」
「……あんたも?」
まさかほぼ同時に同じことを考えていたとは思わず、間抜けな声のままそう尋ねる。一条も、あたしが自分と同じことを考えていたとは思っていなかったのか、「そっちも?」と驚くように尋ねてくる。
「…もしかして、ここは《カリーナ》の頭の中だから、私たちが欲しいって思ったらそれが出てくるのかな」
「そ、そんなのありかよ……」
信じられないが、実際に時計が出てきたのだから、信じざるを得ない。
困惑するあたしを他所に、一条はまるで新しいおもちゃを得て興奮する子供のように目を輝かせている。
「すごい!他のものも出てくるかな?本とか」
ウキウキとした声でそう言うと、ギュッと勢いよく目を瞑り、念じるようにうーんうーんと唸る。が、いつまで経っても黒岩に変化は現れない。
しばらくして目を開けた一条は、何の変化も見せない黒岩に「あれ?」と不思議そうな声を上げ、首を傾げる。
「……もしかしてだけど、あんたとあたしの望みが一致しないと駄目なんじゃないの」
「え?」
何の気なしにそう言ってみると、一条は目を丸くしながらこちを見、素っ頓狂な声を上げる。
あたしの見解としては、先程はたまたまあたしと一条の要望が一緒だったために、黒岩に変化が出た。けれど今は、マンガならともかく教科書や小説などの《本》を欲しいとは、あたしは思っていない。
恐らく、この場所はあたしと一条の要望が一致した時に、それに応えて変化を見せるのかもしれない。
確証はないが、あたしはその仮説をそのまま一条に伝える。一条はあたしの話を聞くと、しばらく考えるようにしてから、口を開いた。
「…ちょっと、試してみようか。二人で一緒の物を念じてみるの。矢白木さんは何が欲しい?」
「え…えっ、と……」
確証のない話に耳を傾け、真剣に考えてくれる姿勢に少し戸惑いながら、あたしと一条は話し合いを始めた。
*
話し合いの結果、あたしたちはベッドを希望してみることにした。
休める場所がないこの空間で、最も必要な物として一致したのがそれだった。また、ベッドのような大きな物も出てくるのか、という実験もかねてその結論に至ったのだ。
「よし、やろう。矢白木さん」
「おう」
一条の言葉を合図に、あたしたちはほぼ同時に目を瞑り、強く念じる。何となく気持ちを合わせるために、お互いの手を握ってみる。
体を休めることができる場所。ならば、あたしと一条のベッドは離しておいた方がいいだろう。家族とも川の字で寝たことがないのだから、他人と並んで寝るなど緊張してきっとまともに休めない。
さらに言えば、前の世界で毎日使っていたベッドがいい。家の中で心が安らいだことはなかったが、この真新しい環境に慣れるためには、せめて使い慣れたベッドがあった方が安心できる。
そう思い、前の世界で使っていたベッドを強く想像する。
しばらくそうしてから、恐る恐る目を開ける。そして、目の前の光景に息を呑んだ。
そこには、あたしの望んだ以上の光景が広がっていた。
中央の椅子を基準に円形の空間を二分するようにして、二つの異なる部屋が広がっている。壁で区切られているわけではなく、木目の床と、大理石のような白い床の異なる二つの地面で分けられている。
椅子から見て右側の白い床の部屋は、白いベッドとも木製のデスク、空の本棚だけのシンプルな部屋。反対左側の木目の床は、よく見慣れたあたしの自室だ。真っ赤なシーツのベッドに、誰も片付けないので乱雑に敷かれた布団。最近はあまり読んでいないマンガが並んだ腰の高さの本棚。高校に入ってから一度も座ったことのない、古い木製のデスク。
十六年間過ごしてきた、安らぐかはともかく一応は体を休めることができる場所だ。
信じられなくて、何度も目を瞬かせる。
あたしがイメージしたのは、自分が使っていたベッドであって、部屋までは想像していない。もしかして、一条のイメージだろうか?そう思い、隣に立つ一条の顔を覗き見る。
一条は、目の前の光景にやはり目を輝かせ、子供のようにはしゃいでいた。
「すごいすごい!まさか本当に部屋まで出てくるなんて!」
「…これあんたの部屋?」
必要最低限の家具しかない殺風景な部屋を指差して、そう尋ねる。一条は「ううん」と首を横に振ると、続けて答えた。
「元の部屋は好きじゃないから。けどどうせベッドを出すなら、私と矢白木さんそれぞれの個人スペースがあればいいな、と思って」
「…ふーん」
なるほど、理解した。この空間の仕組みを。
あたしは、できるならば自分の部屋のベッドが欲しいと思い、一条はお互いの個人スペースがあればいいと思った。
二人のイメージが合わさった結果、あたしは自分のベッドが「自分の部屋」ごと現れ、一条は自分の部屋は好きじゃないが「お互いが安心できるスペース」が現れたと言うことだ。
この場所が形を変える条件は、あたしと一条の願いの大部分が一致していること。その他細かい部分は、あたしと一条の願いを照らし合わせたちょうど中間のものが現れるのだろう。
自分の中でそう結論をつけている間に、一条は新しい自分の部屋に警戒もせず近付き、ベッドやデスクを忙しなく見たり触ったりしている。
先程はその不用意さのせいで意識をなくしたと言うのに、と半ば呆れたものの、そのお陰で外に世界があること、自分たちが転生したということが分かった。そう考えれば、あの警戒心を越える好奇心は才能と言えるだろう。
そんなことを考えた途端、その考えと矛盾する光景が目に映り、あたしはその気付きをそのまま疑問として口にした。
「…本棚、空っぽなんだね」
「うん?」
「いや、さっき本が欲しいって言ってたのに、本棚の中は何も入ってないんだ、って思って」
「…あー……さっきは何となく本って思ったけど、どんな本かまでは考えてなかったんだよね」
「ふーん。優等生の一条のことだから、教科書とか参考書とか欲しがるのかと思ってた」
今日初めて話しただけでも、一条優香が好奇心旺盛な人間だということはなんとなく分かる。好奇心旺盛な人間は、勉強好きで、新たな知識を身に付けることが好きなものだと思っていた。だから彼女の本棚には本が敷き詰められていると思ったし、欲しがる《本》は、教科書や参考書の類だろうと思ったのだ。
一条の返事を待っていると、あたしはゾッとした。
つい今までヘラヘラと笑っていた一条の顔が、何が地雷だったのか、スッと表情が消えて冷たい目つきになったのだ。
「……そうだね。私は《優等生》だから。そうなるために欲しくもない参考書を買って、やりたくもない勉強もした。親からそれを強いられて、私もそうしなきゃ、って思ってた……」
顔からは表情という表情が消えているのに、声色には寂しさと後悔が滲んでいる。
その声に、あたしは自分の発言が不適切だったと気付き申し訳ないような気分になった。
『優等生だから参考書を欲しがる』なんていうのは、勝手な思い込みだ。『素行不良だから勉強のできない馬鹿』だなんて思われているのと同じく、肩書きや目につく行動だけで、その人間を知った気になっているだけだ。
その思い込みは当たっている場合もあるが、例外だってある。かくいうあたしも、中学の時まではそこそこ勉強ができた。今は確かに成績下位だが、それはそもそもテストにも普段の授業にも参加していないためにそうなっているだけで、勉強そのものは人並みにできる。そうでなきゃ、そもそも高校に入学できない。
あたしや一条が通っていた高校の偏差値は高くはないが、決して低くもない。少なくとも、名前を書くだけで入れるような、いわゆるFラン高校ではない。そんな高校に入学できる時点で、いくら素行不良でも『勉強が一切できない馬鹿』ではないのだ。
しかしまぁ、行っていないことは事実なので、ある意味で馬鹿であることは認めるが。
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