椿村
白湯の氷漬け
椿村
椿が目の前でぼとりと落ちた。その光景をもう何度思い出したことだろうか。雪で濡れた花びらは赤く艶めき、私をきっと睨み上げているようだった。掬ってみると、悴んだ指先と本当に同じ色をしている。私はいたたまれなくなって、椿をそっと抱きしめて帰った。やけに風がつめたく刺さる夕暮れだった。
この三日後に友人は姿を消した。この隔絶した小さな村で雪が止まなくなったのも、ちょうどこの頃だったように思う。
二か月経った今、私は同じ場所で椿と向き合い、真っ赤な一つを選んで枝を切った。丁寧に抱え、神社近くの古びた一軒家を訪れる。奥に進んで引き戸を開けると、布団に横たわっていた高年の男性と目が合った。
「祐一」
かすれた声で名を呼ばれる。そばに正座すると、叔父は上半身を起こして微笑んだ。
「良い椿だ。明後日の儀式にはこれを使うのか」
「はい、師匠」
叔父は皴の刻まれた指でそっと花びらを撫でる、と思うと、ぐっと腕を顔に引き寄せて大きく咳込んだ。私はその骨ばった背中をいつものようにさすった。もう五月というのに張り詰めている寒さが、いっそう堪えているらしかった。
この村では異常気象がよく起こる。そのため湖のほとりにあるこの神社で、大昔から定期的に儀式が行われてきた。神社では夜や月を祀っており、信仰は村では当たり前のことで、長らく災害なしに暮らしてきた。
それ故この雪も当初はいつものことと思われていた。しかし二月、三月、四月と続いたころ、神主である私の母方の叔父が腰を上げた。調べた結果神の穢れによるものだと判断。特殊な儀式をしなければならないとしたが、当の本人は近年体を悪くしている。その血を引く男性が十六歳の私しか居なかったということで、村のはずれにある分家の集まりから神社近くに一人引っ越し、叔父を師匠と仰ぎ修行を大急ぎで始めたのだった。叔父からは素質があると太鼓判を押されており、昔から跡継ぎと言われていたため私自身抵抗はなかった。
儀式では季節の花を捧げる。花は二日前に村で取り、儀式を主だって行う者の家に活けておくことで、あらゆる穢れの依り代となってくれるという。しかし、
「神と穢れは紙一重だ、丁重に扱えよ」
再度横たわった叔父が真剣な目でそう告げた。何度も教わったその言葉に、私は深くうなずく。ではまた明日と立ち上がると、叔父は花瓶を手伝いに持って来させようとしたので、いえ、と首を横に振った。
「友人に頂いたものがありますから」
目じりに皺を溜めた叔父に小さく手を振り、その一軒家を後にした。参拝し、息で手を温めながら小走りで帰る。建付けの悪い戸を押しのけて入り、ひたひたと冷たい廊下を急いで居間に戻ると、点けっぱなしにしておいた炬燵に滑り込んだ。ほっと一息ついて窓辺の花瓶を引き寄せる。それは首が細く底は膨らんでおり、夜や月の装飾が施され、まさに儀式を象徴するような花瓶だった。手元の椿を挿してみると、茶色と暗い影で包まれた部屋に、のっぺりした赤がよく映える。そうして変わらず思い出すのは、ぼとりと落ちた椿と、その後居なくなった友人のことだった。
鍋をコンロに置いておき、大根と鶏肉を切る。友人は村の外の人だった。安っぽいスーツで叔父に名刺を渡した彼は、儀式を補助する代わりに取材をさせてください、と隈の深い目を細めて言った。私がまだ中学生のころで、黒縁の眼鏡もくたびれた合皮の腕時計も、とても大人びて見えた。当時不作を憂慮していた叔父は承諾し、私が今住んでいるこの狭くて古い家を貸した。私はそこを小屋と呼んで足しげく通った。優しい彼と仲を深めるのに時間はかからなかった。
鍋に油を入れて鶏肉を炒める。数年が過ぎ、小屋は書類だらけになっていた。高校には行かず神社を継ぐんだと言い放った私に、彼は万年筆の動きを止めて振り返り、丸く開いた目と口をぎゅっと閉じて、いやそうだよな、と考えてから応援してるよと笑ってくれた。右手で剃り残った髭を触りながら、それから後で話を聞きたいとも呟いた。ぼんやり発せられたその言葉の方が、私は励ましの笑顔の何倍もうれしかった。神社の一員として認められた気がしたからだった。
鍋に大根と水、鰹節を入れて火にかける。今年の二月に会ったとき、書き終えた用紙の山は束ねられ整頓されていた。彼は炬燵の向かいで大きく伸びをし、そのまま卓上に両腕と頭を伏せる。聞くと、叔父が興味深い話をしたという。その昔、何月も続いた冬を儀式で止めてみせた、と先々代の神主が言い張っていたが、そんな儀式は誰一人としてやった覚えがないらしい。ぽっと口走ったその話に食いついたが叔父は曖昧な返事ばかりで、日記かなんかがが残っているかもな、なんて話をやっと引き出したからには探し出すしかない。でも見つからないんだ!充血した目を見開く彼に、私は動揺した。好奇心は猫を殺す、なんて冗談でもない言葉が脳裏をかすめ、私はいつもより早く帰った。別れ際に、
──探してないのはあそこだけだが……
と、いつもの穏やかな彼が呟いたのを覚えている。鬼気迫るあの表情が脳裏に焼き付いて、帰り道にぼうっと道端の垣根の前で立ち尽くしていた。いつもは綺麗な椿が毒々しい赤に思え、その矢先、見ていた一輪が首を落とした。背筋を鳥肌が襲い、たまらず私は逃げ帰った。
味噌をとかしてお椀に盛り、ご飯を温めて炬燵に並べた。ぱん、と手を合わせて目を瞑り、頂きますと呟く。明日明後日に寒さで腹痛に襲われるのを恐れて、早く食べ終えて寝ることにした。一口すすると出汁の香りが鼻腔を満たし、熱い糸が喉から胸へと垂らされていくように、冷えた体に沁みわたるのを感じる。ほっとついた息は、すぐにため息に変わってしまう。二日後の夜、彼は突然私の家の戸を叩いた。げっそりと頬がこけ、口元に笑みを浮かべていても落ち窪んだ目の奥が怯えていた。私は思わず息を呑んだ。大丈夫か、どうしたんだ、問いかけても彼は答えず、一つの花瓶をただ差し出してくる。
──きっと儀式に役立つ。厭になったら割ってくれ
次の日から彼は姿を消した。叔父に聞いてみたが、村の外にでも帰ったのだろうと宥められた。顔を上げると、花瓶の艶やかな椿が目に入る。急に姿を消した彼と落ちた椿を何度も思い返し、また今日も一日が終わった。
翌日、叔父と私は袴に身を包み、儀式の準備を昼前から始めた。集まった村の力自慢達やその家族が、私に気づくと笑顔で声をかけてくれた。髭の濃い筋肉質の壮年に、頑張れと背中をはたかれる。大量の弁当を抱えた夫人は、立派になってと頬に手を添えている。彼らに指示する叔父は背筋を伸ばして声を通らせ、昨日とは別人のようだった。村を不安にはさせまい、という神主の使命感がそうさせているのだろう。私は自然と
境内の掃除に取り掛かる。雑務といえ手抜かりがあってはならない。鳥居から遠く離れたところにある祠まで行き、その下の石畳を入念に磨いていると、不意に祠に違和感を覚えた。
手を止めてその木目ひとつひとつを視線でなぞる。すう、と冷たい風が脚を這い上がる。眼の動きを止めて凝視する。両開きになっている祠の扉がおかしい。黒い鉄の取っ手がひとつ無くなっている。
息が詰まる。ざあっと梢がさざめく。手を伸ばす。雪が指先にまとわりつく。残ったもう一つの取っ手は冷えて、ひた、と中指に吸い付いた。
「祐一、終わったか」
ざっと雑巾を掴んで立ち上がった。深呼吸をして振り返ると、叔父が怪訝そうな顔をしてこちらを伺っていた。はい、と声を張り上げると、休憩だから家においでと去っていく。見送ってからもう一度祠を見てもやはり取っ手は無かったが、さっきほど不思議には思わなかった。
すーっと歯の隙間から空気を吸い込む。まだ鼓動が耳元に響いていた。
家に入ると、手伝いの婦人が廊下の角から現れた。湯呑が二つ乗ったお盆を受け取り、炬燵で休んでいた叔父の隣に座る。
「お疲れさま」
熱いお茶を受け取った叔父は上機嫌に見えた。私も一口含み、儀式自体について深く教えてほしいと頼んでみる。息の交じった声で、しかし明朗に叔父は語りだした。
「祀っているのは夜の神であり月の神である、というのは知っているな。月は暦となり時を刻む。つまり祀っているのは時の神ともいえるのだ。
これは冬から春へ夏へと、時を進める儀式だ。そして滞りなく時が進んだと分かるのは、そうさせた我々儀式に携わる者達だけ。ほかの者はこの異常に関わるすべてを忘れ、何もなかったかのように過ごしてゆく。長い冬は勿論、儀式を行ったことや、関わったものすべてを忘れてしまう。それがこの儀式の神髄なのだ。今が正常だと、幸せなのだと感じないことこそ真の幸せ。知らない方が幸福なこともある」
叔父は湯呑みを両手で愛おしく包み、物思うように目を閉じた。なぜ儀式の性質を知っているのかと聞くと、薄ら目を開けて呟いた。
「先々代であるお前の曽祖父から教わった」
「先々代……それは今のように続いた雪を終わらせた、というあの?」
声が上ずった。友人が最後に話していた人だ。
「よく知っているな。あの時、一匹の獣が穢されたことが原因で、冬が長引いてしまったらしい。儀式も元凶であるその獣の事も、誰一人覚えなんだから眉唾物と思っていたが。その獣の様子を聞いていたからこそ、今回因子を突き止められたというもの」
「その曾祖父について何か知りませんか」
前のめりになると、叔父は正座をほどいて座りなおし、小首を傾げた。
「さあなあ、儀式のやり方は口伝され、自分のことについてすらあまり話さない人だったからなあ。あんなに熱心だった日記だって、はてどこだか……気になるのか」
「はい、調査取材云々と言っていた人が二月に居なくなったでしょう、名前は
「──あの余所者か」
叔父は日本酒でもあおるように勢いよく飲み干した。炬燵の布団をはぎ、突いて出た咳にかまわず廊下へ出ていく、その背中を慌てて追う。
さっき気にかかることを言い漏らしていた。
「穢れに侵された獣が長い冬の原因って、」叔父は大股で遠ざかってゆく、「今回は何がどう穢されたというのですか」
矢継ぎ早に声を投げても、口外するなよと顔をしかめられるばかりだった。
先に境内に戻った叔父は、手伝ってくれた村の皆に感謝を述べていた。休憩前と変わらぬ雰囲気だったが、彼らを鳥居で見送り終えるまで、目を合わせてはくれなかった。私にも余裕がなかった。自分が今から執り行う儀式は何をはらんでいるのかという疑念も、友人を拒絶するようなあの師匠の素振りも、水に墨を垂らしたように胸中に広がって、集中を戻せずにいた。
夕方は数人で手順を確認した。満月が沈むころの明け方に儀式を行う。最初に湖で体を清める。自分の依り代として穢れを吸ってくれていた椿を、そのまま祠に供える。正装の着付けや演奏など、主だって行う私の他に必ず複数人の助けを借りる。祠のすぐ後ろは氷の張った湖であるから、足元には十分気をつけろと念を押された。
「深い湖だ。事故の無いようというのは勿論、夜になると月がここに映る、まさに水月だが、それは神気が濃くなっていることを意味する。下手に近づき魅せられてはならない」
豪雪というのに水面の氷は薄く、黒々とした底無しが広がっていた。先ほどの祠に手を伸ばしていたときを思い出し、吸い寄せられては戻れない、と額に汗がにじんだ。
確認をすべて終えたころ、日は山に半分隠れていた。鳥居まで来て歩を止める。振り返った叔父に、祠に忘れ物をしてきてしまったと伝えると、早く帰って来いよと念を押されつつ懐中電灯を渡された。さくさくと雪を踏みしめて引き返す。初めて師匠に嘘をついた。忘れ物などしていない、ただこの悶々とした気持ちを晴らしたい一心だった。
夜の静けさに包まれ、祠はいっそう陰に沈んで見える。懐中電灯で照らすと、石畳の光沢が反射する。昼の熱心な準備を思い出し、儀式をやり遂げるべきだという使命感が沸々と湧き上がってくる。帰ろう、そう思いなおし、暗い足元を照らした。
そこには紅椿の花びらが落ちていた。
さあっと頭から血の気が引いた。よみがえるいつもの光景を、振り切れないまま一歩後ずさる。ずれた懐中電灯の照らす先にもまた一枚。それは青白い月の光に包まれて、点々、点々と、社の奥の方へ続いていた。昼間掃除したはずだ、誰がこんなことを、とふらふら足が辿る。
ぎちぎちと歯の奥が軋む。雪が滲んで足先が痛い。社の裏の石畳にまぎれ、大きな石板一枚が不自然に盛り上がっているのが見えた。凍える背中を冷汗が伝う。その上に横たわっていた椿一輪を、両手で掬ってどかす。花びらはそこで途切れていた。石畳を照らしてみると下に大きな空洞があり、何か入っているがよく見えない。
私は叔父の話を思い出した。そういえば先々代の曾祖父の日記が見つかっていないのだ。懐中電灯を置いて石を持ち上げようとしてみるが、指に力が入らない。足で蹴ってもびくともしない。友人が何を見たのかを知れば、行方の手がかりも得られるかもしれない。縁に両手をつき、押し上げようと足で踏ん張る。ざり、と石板が動き始めた。もう少し。喉からうめき声が漏れた。もう少し。
手が滑って石板の上に倒れ込んだ。
目に入ったのは黒い布だった。そこから肌色の棒が突き出している。いや、これは……腕だ。痩せ細り、骨が浮き出て角ばっている。息がうまく吸えなくなる。皮の干からびた指が広がったまま固まっている。手首に何かある。くたびれた合皮の腕時計だ。それも、ずいぶん、見覚えが。
鼓動の音が耳元で響いている。ゆっくりと上げる懐中電灯の光が震えている。それは腕を照らし、服を照らし、皮の張った首元を照らして。
友人の顔がそこにあった。恐怖で歪んだその顔は土気色で、まさに穢れてしまったように痩せ枯れて、それでもよく見知った顔で。懐中電灯を放り投げて、腹の底から声が絞り出された。足に力が入らないまま這いずって逃れる。がっ、がっ、と息を無理やり吸い込み、視界が点滅する。半ば狂ったように手で地を引っ搔き足を踏み出し、ぐちゃぐちゃに逃げ出した。
家の戸を開け放って転がり込む。膝から崩れて胎児のように寝転がり、両腕で頭を包みこんだ。奥から足音が近づいてくる。震える指の隙間から見ると叔父が仁王立ちしていた。助かった、飛び起きて友人の事を言おうと口を開き、ふと昼の叔父の言葉が脳裏をよぎった。
──あの時、一匹の獣が穢されたことが原因で、冬が長引いてしまったらしい。儀式も元凶であるその獣の事も、誰一人覚えなんだから眉唾物と思っていたが。その獣の様子を聞いていたからこそ、今回因子を突き止められたというもの
──因子を突き止められたというもの
唾を飲み込む。叔父はあの姿の友人を見つけたのだ。そうして隠した?師匠が。儀式のために。
耳をつんざいたのは怒号だった。
「五時間も何をしていた」
腰が抜けたまま呆然とする。見上げた先には鬼の形相があった。
「大事な儀式の前日だというのにふらふらと。後継ぎとしての自覚が足りない」
五時間も経っていない、祠まで走って椿を辿って石板をどかすのも時間はかからなかったはずだ。あとは……。その後だってまた走ってきた。
「夜は神が時を刻む場、神聖さはときに毒となる。執り行うその身が穢れることなど、ゆめゆめあるまじきこと」
教えてくれなかった。私は儀式を執り行う立場なのに。穢された彼は長い冬とともに忘れ去られる。だから私が、彼の存在を葬り去ることになるというのに。いや、叔父はそうさせたかったに違いない、だってあんな場所に、隠して。
叔父は大きくため息をつきながら横を通り過ぎていき、私は何も言えずにただうなだれていた。柱に縋りついて立ち、居間へゆっくりと歩き出す。友人が来てから儀式の供物に困ることはなくなった。外からきたのに参拝の方法だってよく心得ていた。叔父だって昔はよく家に上げていた。
足元が軋んで音を立てる。私は、私が、儀式を任されたのだ。冬を終わらせなければならない。初めて神社の袴を着た日の誇らしさがよぎった。昼に声をかけてくれた人達の笑顔が浮かび、もし失敗したらと考えて、それらが次々と失望や怒り、軽蔑に変わっていくことを想像した。なぜ分家は村のはずれに家を建てるのか。母は私が跡継ぎだと笑いかけてきても、叔父の話をすることは無かった。
ぐらりと襖に倒れかかる。窓際の花瓶が目に入る。
──きっと儀式に役立つ。厭になったら割ってくれ
その艶やかなくびれを、右手でおもむろに包み込む。とぷんと揺らしながら月明りにかざし、透けた椿の花脈を見上げて。
花瓶を投げ落とした。
空を切る音、沈黙、砕け散る轟音が響いて、陶器も水も一緒くたにぶちまけられた。息を吸って、吐いたら、焼けるような痛みが喉に目頭に迫り上がってくる。膝についた手の爪が食い込む。
滲む視界でろくに見えないなか、無惨に散らばった有様を見下ろし、やってしまったと血の気が引いた。両膝をついて破片をかき集めようとする。どこかを切って水溜まりに血が滲んだ。粉々になったそれが愛おしくて憎らしくて、ぐしゃと顔を歪ませると左手の甲に涙が落ちた。声にならない声が喉に詰まった。
袖でぶっきらぼうに顔を拭い、手のひらほどの大きく残った破片を掴もうとして、ふと、そこから紙切れが覗いていることに気づく。濡れたそれを引っ張り出してみると、手帳から千切られたような跡のある数枚が小さく折られていた。もう一度手首で目元をこすり、ぼやけていた焦点を合わせて凝視する。破けないように外側の一枚をそっとめくって、床に広げてみて、息を呑んだ。
友人の字だった。
『二月十日 祐一君が訪ねてきた。あんまり久しぶりでつい、見つからない日記の話をしてしまった。降りやまない雪を止めた先々代の日記。この村の例の祀り神への信仰が、なぜこれほど熱心なのかを知る手がかりになりうる。ここに住んで数年、調べてないといったら一ヵ所しかない。腹は括った。明日の早朝なら誰もいないだろう』
文をなぞるほど鼓動が速くなっていく。姿を消したのは二月十三日だ。夢中で紙を床に広げていく。文字は滲み、最後の数枚は弱弱しくミミズの這ったようだったが、私は縋りつくように字を追った。
『二月十一日 今帰ってきた、何から書いたらいいか分からない。例の日記は見つけたが、興奮と後悔が入り混じっている。日記によると、祀っているのは時を司る土地の守り神で、しかし元々は祟り神だったという。太陰暦が元なため、時間の齟齬が起きるようないわゆる怪異現象が、月夜に多発するらしい。
文献には対処法だという儀式について書かれている。満月の真夜中に行う。最後に湖に身体を浸す。穢れとは濃縮された神気であるから、それが蓄積された椿を予め祠に供えておき、それから食すことで、身体に神気を宿す。儀式の初めから終わりまで、生きた者は一人でなければならない。
気になるのは、現神主が教わったという儀式と内容がまるで逆であることだ。現神主は「時を進める儀式」だと言っていた、その逆ということは……。まだ調査の余地があるが、この方法でやったという記録が残り、こうして今まで何事もなく過ごしてきたことをみると、効果的だといえるだろう。
問題は、祠だ。日記は祠の中にあった。その場で写真に収めていると突風が吹き荒れ、手を滑らせた。カメラが開いたままの祠の戸にぶつかって、戸が鈍い音とともに外れて落ちた。慌てて拾い上げたが、片方の取っ手、開閉部分の金具とその周りを壊してしまった。村の人々はただ信仰しているのではない、祟りを恐れて祀り上げている。日記と取っ手を中に入れ、戸をはめてきたが、壊してしまった、僕は』
『二月十一日・追 胃が食べ物を受け付けない。さっき食べたもの以上に吐き出してしまった。皮膚の下がひどく乾いていく感覚がする。今日明日は雪だが、明後日の晩は月が良く見えてしまうらしい。震えが止まらない。お腹がすいた。食べたくない』
『二月十二日 朝起きたら、寝る前に閉めたはずのカーテンが開け放たれ、窓から光が差していた。夜中には月光が入り込んでいただろう。それを見て、僕に明日は無いのだと、漠然と、しかし確信めいたものを悟った。打開策が必要だ。満月の夜ギリギリまで誰の眼にも触れず、これを伝える方法が』
最後の一枚は『祐一君へ』と始まっていた。蝶を抱くようにやさしく手に取る。
『こんな形になってしまってすまない。僕は何と言って花瓶を渡したか分からないが、これを割ってくれた時こそ、君に身勝手な頼みができる時だと思う。これは神を鎮める儀式に盾突く、僕の最後の抵抗だからだ。
一昨日は後悔を書き殴ったが、それは冒涜にあたる行為に依るものであって、知ってしまったことに対してではない。人間は時間の積み重ねで成っている。何かを知った以降は、それを知らなかった自分に戻ることはできない。そういった時間の蓄積や差異が、人をその人たらしめる。そうやって生きてきた僕の時間を、僕だけは否定したくはない。
もう長くない、僕は神に連れられるから、時が来たらこの日記の儀式を成功させてくれ。
託すだなんて無責任な行為を、どうかゆるしてほしい。君はどうか、後悔のありませんように』
読み終えるころ、手紙の上側は乾き始めていた。濡れた頬を肩に擦りつける。はっ、と息を吸って止め、腹に力を溜めて立ち上がる。棚から儀式用の装束を取り出し、しゅるしゅると帯を解き始めた。指が恐れでこわばっても、何度も練習した着方を体が覚えている。立派に身を包み、彼の日記を胸元に仕舞って落ちていた椿を拾い上げ、戸に手をかける。少しためらって、しかし首を振り、開け放って神社に急いだ。知った者としてやり遂げてみせる、それが最大の供養と思った。
叔父に気づかれないよう、鳥居はくぐらず祠に辿り着いた。水面の氷に月光が反射し、祠はいっそう影を落とした。緊張で脚がこわばる。深呼吸してそれと対峙し、友人の日記を思い出した。椿を祠に置いておき、最初に行うはずの湖でのお清めは、最後に回して。
手の上下をいつもの逆にして交差させ、満月にかざす。右脚でなく、左脚を後ろに引いてしゃがみ、勢いよく両腕を開いて袖をはためかせる。いつもならばここで椿を供えるのだが。私は祠に置いた椿を手に取り、眉間に皺を寄せ、手首をひねって花をむしり取った。花弁を千切って口に含み、上を向いてむりやり飲み込む。甘さと土の香りが鼻をついた。歯を食いしばり、次々と食べては飲み込んでいく。最後のひとかけらが済んだところで、冷ややかな風が頬を撫ぜて通り過ぎていく。湖の向こうから足元へ、うっすらと霧が広がってきていた。悪寒が背を走る。しかし止めるわけにはいかない。
祠の正面に立ち、目を閉じて祝詞をそらんじる。息継ぎまで正確に、冷静にと心の中で何度も自分を宥める。冷気が肌にまとわりついている。永遠に感じるそれを終え、ゆっくりと瞼を開けて、周りの異常に気が付いた。
霧で一寸先も見えない。ざあっと鳥肌が、腕を、首筋を襲う。あとは湖に身体を浸すだけだ、祠のある方が湖だ。手を前に突き出して下の方を探るが、祠の目の前に立っていたはずなのに何も無い。かひゅっと喉の奥が鳴る。嘘だ。嘘だ、手を四方に振り回し、足がふらつく。視界が暗くなっていき、ぐらりと前に倒れかけた。
突然、目の前に手が差し出された。夢中で掴むと引き上げられ、その手首のくたびれた腕時計に爪が当たった。悴んだ自分の手よりも更に冷たい。立ち直し、放そうと手を緩めると、構わず力強く引っ張られた。何度も転びそうになりつつ、されるがままについていく。
数十歩進んで、途端にふっと手が消えた。行き場のなくなった右手をそのままに固まっていると、ざあっと風が吹き荒れて、目の前の霧が晴れた。一歩先に、氷が薄く、しかし水底がどこまでも深い湖が広がっていた。
「ありがとう」
胸にすっと入ってくる穏やかな声に息を呑む。振り向こうとした途端、とん、と押されて体勢を崩した。湖に落ちていく永遠にも感じられた一瞬、友人の今にも泣きだしそうな笑顔が、霧に包まれて消えていくのが見えた。
「
がぼっと泡を吐き出す。氷のかけらと共に沈み込み、淡い瑠璃色の水面がどんどん遠ざかっていく。水の冷たさが刺すように痛み、もがくほど重い装束がまとわりついて戻れない。遠くぼやけていく視界の真ん中で、満月が凛冽に輝いていた。
瞼を開くと、光が目を刺した。思わず強く瞑り、滲んだ視界を徐々に広げていく。それは辺り一面の雪に反射した夕陽だった。体はコートで温かく包まれて、垣根の前に立ちすくんでいる。
椿が目の前でぼとりと落ちた。私は彼の家へと駆けだした。
椿村 白湯の氷漬け @osuimono_gubi
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