8月のサバイバー

壱邑なお

第1話

 「じゃあ行ってくるね、大雅たいが! こっちが食費で、こっちは非常用。ほんっとーに必要な時だけ、使うんだよ? 

 あん、お兄ちゃんの言う事ちゃんと聞いてね!」


 8月のとある早朝、都内の端っこにある住宅街に建つ、いささかくたびれた賃貸マンション。

 その3階に住居を構える、立花家の玄関先で。

 淡いグレーの夏用スーツを、ぴしっと身に着けた立花はるかは。

 2つの封筒を小5の息子に渡しながら、小3の娘もまとめてギュッとハグした。

 

「明日になったら、かえでお姉ちゃんが来てくれるから! 今夜だけ、戸締りとか気をつけるんだよ?」

『楓お姉ちゃん』とは、別居中の夫の妹。

 元々遥とは親友同士で、子供達とも気の置けない間柄だ。

 

「はいはい、分かったから! ほらもう出ないと、新幹線乗り遅れるぞ?」

 クールに返す、アイドル予備軍のような整った顔の兄と。

「あん、ちゃんとお留守番するよ? ママもお仕事頑張ってね?」

 カラフルなヘアゴムでまとめた、ツインテールの髪を揺らして、潤んだ瞳できゅるんと見上げて来る妹。


「うっ――2人共、まじ天使! 1週間も離れ離れなんて、ママつらたんっ!

 毎晩7時過ぎに、お兄ちゃんのキッズフォンに電話するからね!

 冷蔵庫には常備菜と、冷食も買っといたから、今日はそれで間に合わせて?

 あとは部屋の中でも、熱中症には気を付けるんだよ! 夜もちゃんとエアコンを……」

 あれこれ注意事項を伝える母親をさえぎったのは、スマホがピロリンと表示した『新幹線発車30分前』の通知。


「やっば――行ってきます!」

 慌てて玄関を飛び出して、『入院した同僚の代理で急遽きゅうきょ決まった、1週間の関西出張』に。

 キャリーバッグを引きずりながら、猛ダッシュで出かける母。

「「いってらっしゃーい!」」

 と口を揃えて見送ってから、やれやれと兄はため息を吐き、妹はにんまり口角を上げた。


「母さんがいなくても、『午前中は宿題タイム。食事は3食バランス良く』で行くからな!」

 兄の大雅(11歳)が、少し癖のあるアッシュベージュの前髪をかき上げながら、今後の予定を発表すると。

「えーっ! せっかくの夏休みだし、もっと自由をまんきつしようよー! 

 明日からは楓ちゃんが来るし。何しても怒られないの、今日だけなんだよっ?」

 妹の杏(9歳)が、ぷくーっと水蜜桃すいみつとうのような頬を膨らます。


「お願いっ、お兄ちゃん!」

 両手を合わせて首を傾げる、可愛い妹に

「ったく……今日だけだぞ?」

 わくわくする内心を隠して、しぶしぶと許可を出す兄。

 そんなお気楽兄妹はわずか1時間後に、己らの無力さを思い知る事になる。


「朝からポテチ、さいこーっ!」

「今日だけ、だからな! 明日からはきちんと宿題を――あっペプシ、もうカラだ」

 リビングのソファに転がって、スナック菓子をつまみながら、録画しておいた今期話題のアニメを見る――という『自由』を、全力で満喫中の兄と妹。


「お兄ちゃん、リンゴジュースもお願い!」

「わかった――!」

 空のペットボトルを手に、キッチンに向かった大雅。

 その直後

「何だこれーっ!」

 兄の絶叫が、3LDKの室内に響いた。


「お兄ちゃん? どーしたの!?」

 もしや『G』で始まる、あの黒い生き物が?

 恐る恐るキッチンをのぞいた杏が、兄の背中に声をかける。


 返って来た返事は

「壊れた」


「えっ? 壊れたって――うわっ!」

 足を踏み入れたキッチンの床は、水浸しだった。

「この水なにぃ!? どっから来たの?」

「冷凍庫」

 短く答えてから、くるりと振り向く大雅。


 父親似のきりっとした眉をしかめて、

「冷蔵庫が壊れて、冷凍庫から水があふれれてるんだ」

 噛み締めるように、妹に伝えた。

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