青春ゾートロープ 「私を忘れないで」

@sora-iro0gou

第1話:旧校舎の謎について 

青空を映す教室の窓は、開け放たれて心地よい風が吹きこみ、白いカーテンを静かに揺らしている。


雲ひとつない空を背にした校庭の銀杏の葉は黄金色に染まり始め、朝の日差しを浴びて葉脈が透けて見える。


黒板の右側に貼られたカレンダーは、1984年10月。黒板の隅には、チョークで書かれたとは思えないほどの細く美しい文字で「10月1日(月)」と記されていた。

窓際に座る時任カイトは、黒縁メガネの奥の瞳で黒板を見つめていた。いや、正確には黒板ではなく、長い黒髪をなびかせながら化学式を書いている理科教師で担任の紀藤真理子の背中を。

白衣がわずかに揺れる袖口から、時折のぞく白く細い手首に見とれている。カイトは紀藤に密かな憧れを抱いていた。


彼女は、ふだん黒か紺色のロングスカートのスーツのセットアップで、ネクタイを締めていることも多い。いわゆるジェンダーレスというスタイルでダイアンキートンのようだ。授業中は、スーツの上に白衣を着ている。


その姿は、彼の目に映る世界のどんな風景よりも美しく思えた。


窓から差し込む陽光が、机の上に並べられたビーカーやフラスコなどの実験器具に反射して小さな虹を作り、それが紀藤先生の白衣にも映り込んでいた。


そんな世界に浸っている時任に「おい、カイト。また紀藤先生見てるのか?」前の席の杉山紘一が振り向いて、からかうように小声で言った。

背が高く、痩せ型の杉山だ。カイトは思わず身を硬くして、ノートに視線を落とした。紙面には授業内容ではなく、紀藤先生の似顔絵らしき落書きとカメラの絞りとシャッタースピードについてのメモが走り書きされていた。

「見てないよ」カイトが小さく否定すると、後ろの席の中島透が時任の背中をつついて、分厚い眼鏡を指で直しながら口を挟んだ。

中島は背が低く、少し丸みを帯びた体型で、アニメとマンガが大好き。今日も彼のカバンからは、最新号の「週刊少年ジャンプ」の端が覗いていた。

「お前、嘘下手だな。顔真っ赤じゃん」三人は写真部の部員だった。

いや、正確には写真部の全メンバーだった。廃部寸前の弱小部を、亡き父から受け継いだペンタックスMEへの思いだけで支えていたのはカイトだった。

父の形見のカメラは、彼にとって単なる道具ではなく、世界を切り取る特別な窓だった。

「好きなら素直に言えばいいのに」と杉山が続けた。


カイトは答える代わりに、ふと窓の外を見た。


青空に照らされた校庭に黒塗りのトヨタのクラウンが二台入ってくる。

そこから降りてきたのは黒いスーツを着た4人の男性。それを出迎えた校長先生は、黒スーツの男たちに深く会釈をした。

その姿はのどかな秋の中学校という周囲の風景に溶け込まず、異物のように感じられた。


「また来たな」と中島がつぶやいた。

「文部省だろ」「なんでこんなに頻繁に来るんだ?」カイトが疑問を口にする。「まぁモデル校らしいからな。定期的に視察が来るんだって」杉山が答えた。

「しかし、去年から急に増えた気がする」


その時、黒板に向かいチョークを走らせていた紀藤先生が突然振り返り、カイトと目が合った。一瞬だけ、彼女の瞳に何か不思議な光が宿ったように見えた。それは警戒心のようでもあり、悲しみのようでもあった。

カイトは慌ててノートに目を落とした。心臓が早鐘のように鳴っていた。


放課後、軽音楽部の部室からはマイケル・ジャクソンの「Thriller」のリズムに合わせて歌う声が聞こえてきた。


写真部はその隣の小さな個室。

写真部のメンバーは文化祭の準備について話し合っていた。

個室はスイッチで赤い安全灯になり、暗室にもなる。

狭い空間には現像液の独特の臭いが漂っていた。

壁には様々な写真が展示され、その中には時任の父が撮ったプロ級の作品も数枚あった。時代を感じさせる木製の暗室用具とアルミ製の現像タンクが、棚に整然と並んでいた。


「あ、写真部のみなさーん!えーと根暗3兄弟のみなさーん!」

軽音楽部の角田真理が扉を開けて顔を出した。

水分の少ないほうきのようなボサボサ頭で銀縁眼鏡をかけた彼女は、色白でやせている。彼女はいつも早口で人をからかうのが得意、とくに根暗でお宅ぞろいの写真部メンバーは恰好のターゲットだった。

その後ろには親友の岩田妙子の小さな顔も見えた。

岩田も色白で、背が低く、いつも角田の影のようについてまわっていた。彼女は松田聖子を意識したような、いわゆる聖子ちゃんカットで、少しだけ口紅を引いていた。


「なにぃ?また角田ぁ?」杉山がいらっとした警戒するように聞き返す。

「文化祭、どうする?またつまんない写真展?」角田がにやにやしながら言った。「うるさいな。お前らだって毎年演奏会でしょ」中島が反論する。

椅子から立ち上がり、眼鏡を直しながら話す彼の姿は、いつもより少し勇ましく見えた。

「そうなのよ」角田が部屋に入ってきた。

「だから今年は違うことしたくて。ねえ、たえちゃん」岩田が小さく頷いた。

「そう。いまマイケルのスリラーにはまってて…」

「あたしゃね。大沢誉志幸とプリンス派だけど」角田が言い添えた。

「たえちゃんは大江千里とマイケル・ジャクソンの大ファンなの」

「大江千里かー」杉山が急に興味を示した。ワラビーっていいよな」

「あっ!知ってるの?」岩田の目が輝いた。

「あの独特な少年っぽい声!それに眼鏡姿がたまらないの。ねえねぇ、ラジオで聞いたんだけど、11月に新曲『十人十色』が出るらしいよ」

「マジで?」杉山が目を輝かせた。

「先週の、“コーセー歌謡ベスト10”で、もうかかったんだよ。“十人十色”……。千里って、ちょっとユーミンに似てない?」

「僕は大沢誉志幸の『そして僕は途方に暮れる』が好きだよ」カイトが珍しく会話に加わった。

「あの切なさが…なんていうか…」

「時任くん、わかるじゃん」角田が驚いたように言った。

「歌詞もいいよね。作詞家の銀色夏生!知ってる銀色って女なんだよ!」

「ああ知ってるよ」カイトは少し恥ずかしそうに頷いた。

「なんか…あの人の詩って、ちょっと切ないんだよね。微笑みながら消えていく?だっけ」

「あっ!でも、そんな話はいいの。ほら、スリラーの話に戻って」角田が話題を戻した。

「スリラー?」カイトが聞き返す。

「ほら、あれ、ゾンビってお化けでしょ?それで思ったんだけど」角田の目が輝いた。

「文化祭、いっしょにお化け屋敷やらない?」

「お化け屋敷?」三人がほぼ同時に声を上げた。

「そう!文化祭の10月31日ってハロウィンなのよ。お前たちみたいな根暗は知らないと思うけどアメリカではお化けの祭りで盛り上がる日なの」角田が熱く語る。「わたしたち軽音楽部は効果音や音楽を担当して、写真部は映像とか衣装とか考えてくれれば…」

「なんで俺たちが?しかもさぁーお前呼ばわりやめろよなぁ」杉山が眉をひそめた。

「だって、写真部って…」岩田が小さな声で言った。

「ふふふ。ほら、暗いイメージあるじゃん」

「おい!」中島が怒りかけたが、カイトが遮った。

「いいかも」彼は意外な言葉を口にした。

「ただの展示より目立つし」「ほんと?」角田が驚いた顔で言った。

「じゃあ決まり!」彼女たちが去った後、杉山がカイトに詰め寄った。

「なんで引き受けたんだよ」

「だって、このままじゃいつか廃部になるし」カイトは淡々と答えた。

「少しは目立ってさ、写真部の存在意義をさ」

「まあ、それもそうだけど…」中島が渋々同意した。

「でも、お化け屋敷か…写真っていってもモチーフどうする?」

「旧校舎とか、いいんじゃない?」カイトが提案した。


校庭の端に佇む旧校舎。本館とは別に建てられた平屋の木造校舎は、ふかい緑のツタが建物全体を覆っていて、古びた木の窓枠と錆びた鉄格子が独特の暗い雰囲気を醸している。

普段は用務員室と物置として使われているが、最も奥にある扉は閉ざされたままだった。かつての理科実験室だという。

ツタの絡まる木造の外壁は雨風で色褪せ、その姿はまるで時間が止まったかのようだった。


「あそこって色々噂あるよな」杉山が思い出したように言った。

「19時に時間が止まるとか」

「野球部のボールが壁に吸い込まれたとか」中島が続けた。

「前にいた用務員が自殺したとか…」カイトが小声で言った。


三人は顔を見合わせ、なぜか背筋に冷たいものを感じた。

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