Elysium Code

マスターボヌール

Chapter 1 兄という重荷

1


 放課後の教室に、チョークの粉っぽい匂いが漂っている。

 窓の外では桜が散り始めていた。四月も半ばを過ぎて、新学期の緊張感もすっかり薄れた頃合いだ。

 俺——桐島ユウは、机に頬杖をついたまま、ぼんやりと校庭を眺めていた。部活にも入らず、友達もいない。典型的な帰宅部の高校二年生。別に珍しくもない光景のはずなのに、なぜだか胸の奥がざわついている。


「桐島。」


 突然声をかけられて振り返ると、クラスメイトの田中が立っていた。人のよさそうな丸い顔に、どことなく申し訳なさそうな表情を浮かべている。


「ああ、田中か。どうした?」

「その……お前の兄さんって、桐島レンだよな?」


 心臓が嫌な音を立てた。

 桐島レン。俺の二歳年上の兄。現在大学一年生。そして——


「テレビで見たんだ。全国模試で三年連続一位とか、IQ180とか……マジですげぇよな。同じ桐島だから気になって」


 田中の言葉が遠くに聞こえる。

 またか。

 いつものことだ。俺の名前を聞いた途端、みんな同じ反応をする。「あの天才の弟」として見られる。それ以外の何物でもない。


「……まあ、そうだな」


 曖昧に答えて立ち上がる。田中はまだ何か言いたそうだったが、俺はそそくさと教室を出た。

 廊下を歩きながら、いつものように考える。

 なぜ俺は桐島レンの弟として生まれてきたんだろう。


2


 家に帰ると、玄関に見知らぬスニーカーが置いてあった。

 リビングから声が聞こえてくる。母の笑い声と、それに応じる男性の声。まさかとは思ったが、リビングのドアを開けた瞬間、やはりそこにいたのは——


「おかえり、ユウ」


 ソファに座っていたのは、間違いなく兄のレンだった。

 黒縁メガネをかけた整った顔立ち。すらりと長い手足。大学に入学してから一層洗練されたオーラを身にまとっている。母は隣に座って、まるで芸能人でも家に来たかのようにはしゃいでいた。


「レン君ったら、今度テレビ出演のお話があるんですって。それも全国放送よ!」


 兄は苦笑いを浮かべている。昔から注目されることを嫌がる性格だった。それでも結果的に注目されてしまうのが、桐島レンという人間だった。


「久しぶりだな、ユウ」


 レンが俺に向けて微笑む。屈託のない、優しい笑顔だった。

 それがかえって辛い。


「……ああ。元気そうだな」


 できるだけ平静を装って答える。レンは少し眉をひそめたが、何も言わなかった。


「ちょうどよかった。レン君、ユウに勉強を教えてくれるって言ってくれてるのよ」


 母の言葉に、俺の顔がこわばる。


「あー、いや……別に俺は——」

「謙遜しないの。この前の中間テスト、散々だったじゃない」


 母の言葉に、俺の頬が熱くなる。確かに数学で赤点を取った。でも、わざわざ兄に頼むことはない。

 というより、頼みたくない。


「ユウの苦手分野を聞いてきたんだ。数学の微積分あたり、つまずきやすいからな」


 レンが気遣うような口調で言う。その優しさが、逆に俺の劣等感を刺激した。


「大学で忙しいだろ。わざわざ俺のために時間を作ってもらわなくても——」

「弟のためなら時間はいくらでもある」


 レンの即答に、俺は言葉を詰まらせた。

 なぜそんなに簡単に言えるんだ。まるで俺のために時間を使うのが当たり前だとでもいうように。


「それに、最近面白いものを見つけたんだ。一緒にやってみないか?」


 レンが取り出したのは、一枚のディスクだった。パッケージには見慣れない文字が印刷されている。


『Elysium Code』


「これは……?」

「次世代VRMMORPGのβテスト版だ。まだ一般には公開されてない。開発会社の知り合いから特別にもらったんだ」


 レンの目が輝いている。昔から新しい技術に対する興味は人一倍強かった。


「VRなんて、うちにヘッドセットあったっけ?」

「それも一緒に借りてきた。最新型だ。従来のVR機器とは没入感が桁違いらしい」


 母がぱちぱちと手を叩く。


「まあ、兄弟でゲームなんて久しぶりね。小学生の頃はよく一緒にやってたのに」


 確かに、昔は一緒にゲームをやっていた。でもそれは、まだ兄と俺の差がそれほど開いてなかった頃の話だ。今は違う。

 ゲームでも、勉強でも、きっと何をやっても兄に敵わない。


3


 レンは結局その日の夜まで家にいた。

 夕食を一緒に食べ、母と楽しそうに会話を続けている。俺は適当に相づちを打ちながら、早くこの時間が終わらないかと願っていた。


「そういえば、大学ではどんな研究をしてるの?」


 母の質問に、レンは少し考えてから答えた。


「人工知能と認知科学の境界領域、かな。人間の意識がどのようにして生まれるのか、それをコンピュータで再現できるのか、そんなことを考えてる」

「難しそうね……」

「でも面白いんだ。人間の心って、実は僕たちが思ってるよりもずっと複雑で、同時にシンプルでもある」


 レンの話に、俺は少し興味を引かれた。人工知能の話なら、さっきのゲームとも関係がありそうだ。


「そのゲーム、AIが関係してるのか?」

「鋭いな、ユウ」


 レンが嬉しそうに微笑む。


「NPCの行動パターンに革新的なAIを使ってるらしい。プレイヤーの行動を学習して、まるで本物の人間のように反応するんだそうだ」

「本物の人間のように?」

「感情を持ったかのように振る舞う。怒ったり、悲しんだり、時には理不尽な行動を取ったり……」


 レンの説明を聞きながら、俺は何となく不安を感じた。

 それって、本当にゲームなのか?


 夜の九時頃、レンは重いバッグを担いで帰っていった。


「VRセットは置いていくよ。時間があるときに試してみるといい。パスワードは『brothers』だ」

「なんで英語なんだ?」

「兄弟って意味さ。僕たちはずっと兄弟だからな」


 レンの言葉に、俺の胸が痛んだ。

 兄弟。そうだ、俺たちは兄弟だ。でも、それがなぜこんなに重荷に感じるんだろう。


 レンを見送った後、俺は自分の部屋に戻った。

 机の上には、あのディスクが置かれている。『Elysium Code』。エリシウムコード。

 エリシウムって、確か楽園って意味だったはず。


 ふと、窓の外を見る。

 遠くの高層マンションの窓が、いくつか光っている。あの光の向こうにも、それぞれの人生がある。それぞれの悩みがある。そして、それぞれの兄弟がいるのかもしれない。


 でも、みんな俺と同じような気持ちなんだろうか。

 優秀な兄を持つことの重圧を、理解してくれる人はいるんだろうか。


 ベッドに身を投げ出しながら、俺はため息をついた。

 明日からまた学校だ。また「あの天才の弟」として見られる日々が続く。

 それが嫌で、でも逃げられない。


 そんな時、ふと思い出したのが、兄の言葉だった。


『エリシウム。楽園。』


 楽園があるとしたら、俺もそこに行ってみたい。

 兄のことを忘れられる場所。

 桐島レンの弟じゃない、ただの桐島ユウでいられる場所。


 そんな場所が、本当にあるんだろうか。


---


*Chapter 2へ*

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