第39話過去を未来のばねとして
「すぐに助けに行けなくて、すまなかった。もっと早く駆けつけていれば、こんなことにはならなかったのに。」
「イヴァン様……」
彼は優しく私の腕を手に取りながら苦々しく言う。
そこまで目立つものではないが、ガラスで切ったときの痕がうっすらと残っているのが目に映る。
痛みはないが、何か糸で引っ張られているような違和感を感じる。
眩暈を起こすほどの血の量が出ていた。
決して、あの切り傷は浅いものではない。
この程度で済んだのが奇跡みたい。
「でも、助けてくださったじゃ、ありませんか。マルダーが攻撃してきたとき……」
あの時、ほとんど死にかけで、一人ではどうにもできなかった。
ここで死んでしまうのか。そう覚悟するぐらいには私はボロボロ。
自らに訪れる死を覚悟したとき、生に引き戻してくれたのはイヴァン様の腕だった。
それだけで私は十分だったのだ。
「君に明日を生きる希望をもらったのに、俺のせいで君の明日がなくなるのが嫌だったんだ。」
「だから、やって当然のこと」と言わんばかりに胸を張る彼。
布団の端を握る彼の手は小さく震えているのが、ぼやけた目でもしっかりと見えている。
こうしてみると、やっぱり彼はとても幼い子供みたいに感じる。
虚勢を張って強がっているけど、その実内面はとても脆い。
だから、純粋に私がかつて言ったであろう言葉に今も縛られている。
「ル、ルイーズ。いきなり起き上がる……なんて」
「私の温度、感じられる?温かいでしょ。これはあなたが私にくれたものなのよ。」
子供のように大人の人を抱きしめるなんて、はしたない真似、するべきではないのは分かっている。
ただ、なんとなく癪だったの。
いつまでも過ぎ去った過去の出来事に心が囚われたままでいるのは。
私も彼も、未来へ歩んでいるというのに、過去しか見ていない。
「私は、ここにいるの。生きて、現実に存在する人間としてここにいるの。」
それが酷く嫌でたまらなかった。
時にはこう、嫉妬を抱くことは何も悪いことではないわよね?
「……そうだな。君は偶像じゃない。ちゃんとここで生きている。」
噛みしめるようにそう唱える彼の瞳の陰りはもうない。
そこにあるのは、ただ私を愛おしいと思う心を隠さない彼の本音。
「あの~、そこのお二人さん。イチャイチャするのは後にして。お医者様が来たからさ」
「き、騎士団長様。いつからいらしたのですか?」
ニマニマとしながら私たち二人を見る騎士団長様。
あれ、私とイヴァン様、今どんな体勢になっているの?
向かい合ってお互いの腕を背中に回して、正面で密着させている姿勢。
これって、いわゆるハグという奴なのでは?
「あ、あぁ。これは、その……。」
「ダイジョーブ、最初からぜーんぶ見ていたから。」
なら、どうして止めに入らなかった!!
堂々と指を立てウィンクをする、楽しそうな騎士団長様に突っ込みたい。
でも、まだ大きな声を出したりすることができないからここは自重することにする。
そもそも、誰かに見られていてもおかしくないのに、あんな行動をとった私が悪いのだ。
なので、もう考えないことにする。
*
「これは、凄いですね。こんなにも回復力の高い人がいるなんて……。昏睡状態だったことによる体力減衰はありますが、それ以外に後遺症はありません。」
唸るように感嘆する医者を見ながらほっと胸を撫でおろす。
我ながら、本当に奇跡だと思う。
薬を飲まされ、大量失血をするなんて考えうる限り最悪の事態だ。
それが軽度で済んだのは、周りの人たちの献身があったからだろう。
「だからと言って、油断は禁物です。これを機に体をしっかりと休めるように。」
しっかりと、視線を合わせる医者は「動いたら分かっていますか?」と言外に行っているよう。
ご最もでございます。
*
「それじゃ~ね~。」
手をひらひらと振りながら医者と共に、騎士団長様は去っていった。
部屋の中に残るのは沈黙のみ。
気まずい。非常に気まずい。
さっきまでの行動が騎士団長様に指摘されたから、きっと今は何をやっても微妙な空気になりそうだ。
「ルイーズ。」
沈黙を先に破ったのはイヴァン様だった。
そんなに覚悟を決めたような顔をして一体どうしたのだろうか?
「君が元気になったら、また二人で散策がしたい。この前はあんな終わり方になってしまったけど、まだまだ案内したい場所があるんだ。」
「だから、ダメだろうか」と言う彼の顔は赤く染まっている。
散策の時とか、常日頃の余裕たっぷりな姿からは想像できないほど初々しい。
彼のこういうところがやっぱり好きなのだ。
その時点で私が返す言葉はもう決まっていた。
「ダメじゃないわ。あなたと行くのならどこまでも行きたいわ。」
愛する人が隣にいることの尊さを教えてくれたあなたとなら、どこへ行っても楽しめる。
そう私は信じたい。
「それで、ちゃんと君に俺の過去を伝えたい。君は過去をばねに前に進んでいるから、俺もそうでありたいんだ。」
人づてでしか聞いたことのなかった彼の過去。
彼自身でさえ、目を背けていたそれが彼の口から紡がれるのか。
彼の手、小刻みに震えている。
「えぇ、もちろん。あなたのことをちゃんと知って人生を歩んでいきたいわ。」
だから、後でとは言わずに今教えてほしい。
本当の意味で未来へ歩むためには必要だから。
どんなあなたでも私は受け止めるわ。
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