第30話あなたが心ゆくまで眠れますように。

 「あの、フィリップ様。陛下が突っ伏しているように見えるのですが……。」


 空が星空のカーテンを広げようとする頃、なぜか私はフィリップ様に呼びだされた。


 彼の後ろを着いていくと、帝国の紋章の意匠が付いた扉の前で止まる。

 その向こうには、大量の書類に埋もれたイヴァン様。


 皇帝のような国の上に立つ者は往々にして激務だ。

 一人でやるような量じゃない業務が、常に彼らを付き纏う。


 フリーギドゥムのような大国となると、より大量の仕事をなさねばならぬのだろう。


 それにしても、書類が余りにも多すぎない?

 机と同じぐらいの高さに積みあがっているように見えるのだけど。


 手元にある書類を一枚。皇帝直筆のサインに、修正のお願いと見られる赤い筆跡。

 ほかにも何枚か見て見ると、すべてにサインが書かれていた。


 この量を一人で全部捌いたの?さすがに、一人じゃないよね?

 疲労困憊で倒れこむのも仕方がないわ。倒れない方がおかしい。


 「ここ最近重要な業務が立て込んでいたのと、疲れとをもろもろを発散させるのがへたくそなことで起こった惨劇です。」

 「なるほど……。」


 「私、この前いつ寝ましたっけ」と乾いた声で笑うフィリップ様。

 今気づいたけど、その目の下には、どす黒い隈が。


 いや、あなたも何日間寝ていなかったんだ。

 まだ陛下よりはましかもしれないが、どっこいどっこいでしょう、これは。


 人のこと、全く言えませんよ。本当に笑えない。


 彼ら以外にこの周辺にいる人間の気配はしない。

 もしや、この二人。部下が帰ってからもずっと業務に励んでいたの?


 「そこで、普通に重すぎるので誰か運べる人、となると……」

 「喧嘩を売っています?やるなら、買いますけど。」


 冗談を言ってみたら、「いいですね、それ」と普段の彼ならしなさそうな悪ノリをする。


 フィリップ様、明らかに疲れと夜が遅いことで上機嫌になっている。

 これは早く体を休ませないとまずい。


 「はぁ、分かりました。運びますよ。こんな姿、兵士に見せられないのでしょ?」


 横抱きにするのはちょっとな、万が一見られた時がまずい。

 体格差的にやりにくいけど、おぶるしかないか。


 やっぱり想像していた通り、重量がしっかりある。

 体格とかもがっちりしているから、より運びにくい。


 これは、兵士だと二人がかりじゃないときついだろう。

 私はよく怪我をしたジョセフを背負っていたから、体格のいい男をおぶるのは慣れている。


 そうじゃないなら、かなりの重労働になるのが想像に難くない。


 「彼は極度な人間不信なんです。今まで、信じられるのは私とルカ、そして騎士団長のみ。それ以外はみんな敵、そう認識していたのです。」


 『まぁ、そうでしょうね』としか言いようがない。


 あのパーティーの時、イヴァン様は私と私以外で大きく印象が変わる話し方をしていた。


 この国に来てからも、ルカさんやフィリップ様がいるとき以外はどこか堅い。


 それが人間不信であることがきっかけなのだと言うのであれば、すべて納得がいく。


 「姫君たちが来てからはその不信がさらに悪化してしまって、より仕事とお友達みたいになったときには頭を抱えたのを覚えています。」


 確かにあの姫君たちの態度じゃ一緒にいて心が休まらないだろう。

 むしろ、余計に疲れが積もりに積もって悪循環になる。


 変に彼女たちと関係を構築するよりも、仕事をしていた方が何倍もましに違いない。

 

 「あなたが素直に彼を素直に受け入れて、本当に良かった。」


 安心したように笑みを浮かべながら吐き出す彼も、精神的に追い込まれていたのか、目じりには涙一粒。


 「感謝をするべきは私の方ですよ。彼があの時ハンカチを差し出してくれなかったら、私は壊れていた。今、私が人間ひとであれるのは間違いなく、彼のおかげなのです。」


 本当に、この言葉通りなのだ。


 あの場にはたくさんの人たちがいたというのに、心の中を巣食ったのは空虚な孤独感だった。


 私を化け物だとみる冷ややかな視線、恐れ離れ怯える人々の姿。

 それらすべてが私が惨めだと言わんばかりに、体を締め付けようとする。


 一人だけだったの、一人ぼっちだった私に近づいてこの手を掴んでくれたのは。

 悲嘆にくれ、どこか投げやりになりかけていた私をとどめてくれたのは、イヴァン様ただ一人。


 「フィリップ様、陛下の『冷血皇帝』の評判はが彼が自分を守るために作りだした虚構ですよね?」


 なかなか答えづらい質問なのは承知のことだ。

 でも、いつかは知らなくちゃいけない。彼の隣に立つ者としてその真実を正確に。


 「ええ、その通りです。やはり、あなたは気づかれますか……。」

 「これでも一応上位貴族の令嬢でしたのよ?何かを演じる人は見慣れているのです。」


 「そういえば、あなたはリュミエール出身でしたね」と思いだすように笑うフィリップ様。


 リュミエールの社交界に出席してみたら分かる。イヴァン様の繕う姿が可愛く見えるほど、参加者は何枚もの嘘の仮面をかぶっているのだ。


 「陛下を失望なんてしませんよ。絶対にしません。誰だって、何かしらの仮面をかぶって生活している。だから、逆に人間味を感じられて私は好きですよ。」


 逆に何も取り繕っていない人が恐ろしく感じてしまうほどに毒されている。

 そんな人間がいたら、真っ先に怪しむくらいには。


 だから、自分を偽っているかどうかなんて、そんなちゃちなことを気にしない。


 むしろ、誇るべきものだとさえ思う。


 「今の状況は、彼にとってあまり芳しくないものです。それはお気づきですよね?」

 「夜に安らかに眠れないぐらいには心地いいものではありませんよね。」


 このまま放っておいたら、きっとイヴァン様は姫君たちによって手ひどく壊されてしまう。

 おもちゃの取り合いをする子供たちのように、引っ張り合ってやがては千切れる。


 そんな姿になるイヴァン様を見るのだけは絶対に嫌だ。


 国の長として、責任をもって働いてきた者の末路が最悪なものであってほしくない。一人の人間として、彼の隣に立つ者としてそうさせるつもりは無い。


 「彼がこの国の安寧のために身を粉にして働くのであれば、私は彼の眠る場所を守りましょう。今のように心地よく眠れる場所を。」


 だって、私は『鮮紅令嬢』。

 仮にも多くの人に恐れられる強さを持っているもの。

 

 その力を愛する人のために使うことは何も悪いことではないでしょう?


 「だから、安心してこの夜の中に眠って。」


 その眠りを妨げる者から、あなたのことを守るから。


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