第二十一章 秩序の割れ目

取っ手の震えは、いままででいちばん短く、速かった。

早鐘みたいに、美緒の心臓とぶつかり合って拍を乱す。

掌に爪を立て、痛みで輪郭を確かめる。隣で綾乃が、吐かずに吸うだけの息でうなずいた。



扉を押すと、暗闇がむこうから押し返してきた。

かすかな赤い灯りだけが天井の隅で滲み、部屋の輪郭を血の色に染める。薬品のにおい。水と鉄と、甘く腐った匂いが混ざり合い、舌の奥に膜を作った。





——暗室。





壁にはピンチが連なり、濡れた印画紙が何枚も吊られている。

腰の高さには、現像・停止・定着の三つのトレイ。

どれも液面がかすかに揺れ、赤い光を曖昧に跳ね返していた。




美緒は一歩、足を入れる。床は湿っていて、靴底が吸い込まれるように重い。

吊られた写真の列が、わずかな空気の動きに合わせて触れ合い、紙同士の軽い音を立てた。

近づくと、そこに写るものが見えた。廊下、教室、音楽室、食堂、理科室——校舎のどこか。

けれど、決まって「顔の部分だけ」が白く抜け落ちている。白い余白が、赤い光の下でじくじくと脈打つ。




「ここ……」



美緒の声は喉で折れた。

綾乃は首をわずかに傾ける。黒い瞳はもう光を飲み込まないが、手の圧だけは人間の順序で美緒の指を包んだ。




「写るものは、ここで“固定”される。顔は、固定できない」




ピンチに挟まれた一枚が勝手に揺れ、裏返った。

裏面の鉛筆書き——日付の横に、小さな四角と五本の線。

また“日数”。

四角の列が途中で破れ、黒い滲みが紙の繊維を食っている。



現像液のトレイの底から、細い泡がひとつ浮かび上がる。

弾ける瞬間、声が混じった。



〈おい〉

またひとつ。〈待って〉

またひとつ。〈——美緒〉



最後だけが鮮やかで、液面がわずかに脈打った。



美緒は身を引こうとして、足を止めた。

トレイの隣、ステンレスの流しに置かれた小さなタイマーが、独りでに動き始める。

針は右回りではなく、左へ戻っていく。



コツ、コツ、と逆さの時間が落ちる音。

そのたび、吊られた写真の白い顔が、ほんのわずかにこちらへ“向いて”くる。






——呼ぶな。

——忘れろ。

——おなじに。




いつもの囁きが、今度は赤い光の膜そのものから滲み出した。

壁の防光布の折れ目、現像液の縁、ピンチのバネの金属。

どれも同じ声で反復し、声の主が「空間」そのものだと分からせる。




美緒は吊られた列の中に見覚えのある構図を見つけた。

音楽室。黒いピアノの蓋、鍵盤の縁。

写っているのは空のはずなのに、白い余白が鍵盤の上に立っている——写って“しまって”いる。

別の一枚には、理科室の棚。瓶は静止しているのに、液面だけが波紋を持って凍りついた瞬間。

その波紋の中央に、破れかけた紙片。

鉛筆の二文字が、辛うじて残る。




 ——ユウ。




唇が勝手に形を作りかけ、美緒は掌に爪を深く刺した。

赤い灯りの下で、自分の血も赤いと分かることが、まだ救いだった。

色が残っている。色が残れば、輪郭は残る。




綾乃がトレイの端に触れない距離で身を寄せ、低く囁く。


 「ここでは、名前は“露光”だよ。言えば、焼き付く。

  焼き付けば、もう戻れない。……だから、吸って、止めて、定着して、忘れる」



現像→停止→定着。

綾乃の声は男子の声と重なりながらも、工程だけは“説明”の調子で、教師のように落ち着いていた。




 「忘れるのが定着?」



 「うん。忘れれば、形は崩れるけど、消えずに済む。

 覚えて言えば、輪郭は鮮やかになるけど、ここでは“それ”が一番危ない」



タイマーの針が一瞬止まり、コツ、と逆側へ小さく跳ねた。

赤い光が滲み、吊られた写真の列の途中——一枚だけ、人物の“顔”がうっすら浮き上がる。

浮き上がった、と思った次の瞬間、それは真っ白に“戻された”。

見られたこと自体が、消去の合図だった。




列の端に、別格の大きさの印画紙がぶら下がっている。

赤に沈んだ画面は、廊下だ。

天井の蛍光灯、左右に連なる額縁、奥へ奥へと続く「19」。

中央で背中を向けて歩く小さな影——二人分。




美緒と、綾乃。




“今”が写っている。

二人の頭の位置は、白い余白に抜かれている。



美緒は吐きそうになって視線を落とした。

作業台の端に、コンタクトシート(試し焼き)の束。

フィルムの連番に合わせ、○で囲われたコマに鉛筆のメモ。


 〈露出OK〉〈19〉〈次〉


丸で囲われた「19」の文字の上に、四角と五本線の印が重ねられている。

だれかが選び、数え、また選び続けた痕跡。



天井の換気扇が回り出し、赤い薄膜の空気が渦を作った。

トレイの液面が揺れ、波頭が縁で崩れて黒い泡になり、また沈む。

泡のひとつが破裂するたび、男子の声が紙より薄い音量で溢れる。



〈おい〉〈なあ〉〈早く〉〈——美緒〉



最後の一つだけ、いつも鮮やかだ。



美緒は、声に振り向きそうになる自分を、タイマーの音で縫い止めた。


コツ。

コツ。


逆回転の秒針の音に、自分の心拍を合わせる。

呼吸は浅く。吐かない。吐けば、曇りが写真に落ちる。曇りは跡になる。跡は“固定”だ。




その時、壁の防光布がふわりと膨らんだ。

赤い影の奥で、白が生まれる。


—顔の余白。


布の合わせ目から、言葉の直前の形をした唇が覗く。

音は無いのに、美緒の頭の中で、はっきり響く。




——ミオ。

——つぎは。




 綾乃の指が、美緒の手を強く握った。

 骨ばった冷たさ。けれど、握りかえす順序は、まだ綾乃もの。



 「行こう。ここは、“残す”場所。残れば、混ざる」



男子の低い声と完全に重なった囁き。

それでも“連れて出る力”は、綾乃だった。




出口に向けて、濡れた床を踏む。

踏むたび、足跡が赤に濃くなり、すぐに黒へ沈む。

背後でタイマーが逆回転を止め、無音の一拍が落ちた。

吊られた写真の列が、一斉にわずかにこちらへ傾く。

視線のない“視線”が、背中を押す。



扉に手を掛けると、真鍮の冷たさが骨まで入ってきた。

開ける直前、美緒は振り返らない。

振り返れば、名を呼ぶ。

名を呼べば、焼き付く。

焼き付けば、ここで終わる。



闇よりも冷たい廊下の空気が、赤い膜を洗い流した。

額縁の女子たちは笑っている。

けれど、その笑みは暗室のタイマーと同じテンポで、わずかに震えていた。



取っ手の震えは、さらに細かくなっている。

次の「19」は、すぐそこにある。

美緒は掌の痛みを新しく刻み、綾乃と目を合わせた。

綾乃は頷く——息を吐かずに。



廊下に出ても、赤い光の残像はまぶたの裏から消えなかった。

閉ざしたはずの扉の隙間から、まだ赤い膜がにじみ出ているように感じる。

額縁の女子たちの笑顔も、薄く血に染まったように見えた。



美緒は掌を開いた。爪で刻んだ痕は深く、血が黒く乾き始めている。


「……焼き付けられるところだった」


声にすると、その言葉まで残ってしまう気がして、すぐに口を噤んだ。



廊下の床に、自分と綾乃の影が並んで伸びていた。

しかし、影は彼女たちの動きと一致していない。

綾乃が止まっても、影は一歩、二歩と進み、壁に触れて止まった。

まるで“先に行け”と示しているかのように。







「見ないで」




綾乃が小さく囁く。

その声は完全に男子の低音と重なっていた。

けれど、美緒の手を握る力の順序は、まだ彼女のものだった。




額縁の女子たちが、次々と唇を動かす。





 ——わすれろ。

 ——よぶな。

 ——おなじに。





いつもの囁きだ。

だが今回は、影が唇の動きに合わせて声を発していた。

美緒の影の口が勝手に動き、低い声で〈ユウ〉と呟く。

本人は呼んでいないのに。



美緒は掌を再び握り締め、爪を深く突き立てた。


「呼んでない……呼んでない!」


その否定すら、壁に染み込み、写真のように残ってしまうのではと怖れた。







廊下の奥で、次の扉が震えている。

真鍮の取っ手は、これまでよりも強く、まるで心臓そのものの鼓動のように波打っていた。

取っ手の震えが廊下全体に伝わり、天井の蛍光灯がカタカタと揺れた。




綾乃の顔を横目で見た。

頬に乾いた黒い筋は模様のように定着し、瞳は完全に黒で満たされている。

そこにはもう反射も光もなかった。

それでも、美緒の手を握る順序だけはまだ彼女だった。



 「綾乃……もう、あなたは」



言葉が喉で止まった。

問いかければ、答えが残ってしまう。

そして“残る”ことは、この校舎に焼き付けられることだ。







ふと、背後の扉が低く唸った。

閉じたはずの暗室の扉の隙間から、赤い光が一筋漏れている。

そこに吊るされた写真が、まだ揺れているのが見えた。

揺れる一枚の中央には、美緒と綾乃の後ろ姿。

だが今度は、顔の余白が黒で塗り潰されていた。




写真の中の二人は、廊下を進み、次の「19」の扉に手を掛けている。

——未来が、もう焼き付けられている。




美緒の心臓が凍りついた。


「……私たち、もう……」


綾乃の声が重なった。


「進むしかない」


男子の声に完全に溶け込んでいるのに、その言葉だけは綾乃自身のものだった。








取っ手が強く震え、今にも弾け飛びそうに音を立てる。

額縁の女子たちの笑顔は、同じリズムで唇を開閉していた。




 ——わすれろ。

 ——よぶな。

 ——おなじに。




廊下全体がその合唱に支配され、影も声も匂いも一体化していく。

美緒は掌の痛みに縋り、血に濡れた手で取っ手へ触れた。

震えは心臓の拍動とぴたりと重なり、全身が揺さぶられる。




 「忘れる……忘れる」




声に出した瞬間、取っ手の震えが一瞬だけ止まった。

静寂。

次の瞬間、扉の向こうから爆ぜるような音が響いた。





美緒と綾乃は同時に息を止めた。

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