月影の恋歌

立華アイ

第1話 月下の邂逅

夜の空気は冷たく、吐く息が白く揺れた。

 雲の切れ間から覗く大きな月が、村を静かに照らしている。


 施粥所せがゆじょの小さな灯火の下で、ソリは汗に濡れた額を拭いながら、桶を抱えていた。

 粥を炊いた大鍋の片づけ。力仕事は本来、大人が担うものだ。だが、十三歳のソリに代わってくれる人はいない。


「……もう少し……あと、これを運べば」


 小さな背中に桶の重みが食い込む。

 膝が震え、足元の石畳でつまずきかけたその時――


「危ない!」


 強い腕が背後から伸び、桶が落ちる寸前で支えられた。

 驚いたソリが振り返ると、そこには月明かりを背にした一人の青年が立っていた。


「大丈夫か? こんな重いものを、一人で運んでいたのか」

「……っ、ありがとうございます。で、でも……私、平気ですから」


 ソリは必死に桶を抱え直す。だが、その手は小刻みに震えていた。

 青年は眉をひそめ、彼女の様子をじっと見つめる。


「平気に見えない。手が震えている」

「……でも、やらなきゃ。子供たちが、お腹を空かせて待っているんです」


 その一言に、青年は息を呑んだ。

 十三歳の少女の口から出るには、あまりにも重く、真っ直ぐな言葉だった。


「……君は、偉いな」

 思わず零れた言葉に、ソリは目を瞬かせる。

 褒められることに慣れていないのだろう。頬を赤く染めて、視線を落とした。


「え、偉くなんてありません。ただ、放っておけないだけです」

「放っておけない? なぜ?」


 問いかけられ、ソリは唇を噛んだ。

 だが、すぐに小さな声で続ける。


「……私の父は両班でした。でも、母は賎民で……私は母と同じように蔑まれて育ちました。だから……苦しむ人を見過ごせないんです」


 青年は目を伏せ、しばし言葉を失った。

 幼い彼女が背負ってきた境遇の重さに、胸を突かれたからだ。


「……君は、強い」

「強くなんか……ないです。ただ、必死なだけです」


 ソリはそう言いながらも、青年の声にほんの少し救われたような顔をした。

 彼女の頬に月明かりが差し、まるで涙のように光を宿す。


 青年はふと微笑み、軽く首を振った。


「名前を聞いてもいいか?」

「……ソリです。皆からはそう呼ばれています」

「ソリ……か。よく似合う、いい名だ」


 思いがけず真剣に告げられ、ソリの胸が高鳴る。

 だが、彼女も問い返した。


「あの……あなたのお名前は?」


 青年は少し目を逸らし、どこか儚げに答える。


「……名乗るほどの者じゃない。ただの旅の途中の者だ」

「……そう、ですか」


 失望と安堵が入り混じるような声が、ソリの唇から漏れた。

 本当はもっと知りたかった。けれど、それ以上は聞けなかった。


「夜は冷える。君が倒れたら、皆が困るだろう。……もう休んで」

「……はい」


 青年はそれ以上何も告げず、月明かりの下を歩き去っていった。

 背中が遠ざかるのを見つめながら、ソリは小さく呟いた。


「……あの人は、一体……」


 胸に残った温かさとざわめき。

 それは彼女が初めて抱いた、言葉にできない感情だった。


 そして彼女の背後、闇に溶ける路地には、施粥所を監視する役人の影が忍び寄っていた――。

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