とどものがたり

雑句

とこしずめ かむくらまつる もりのおく


 時代が下るにつれて、地方の信仰が失われていくと云うのは誠に残念ながらそう珍しい事ではない。近代化の波に呑まれる様に小さな社は姿を隠し、担い手の減少に伴い風習は色褪せてゆくのだ。


 だが時に、それらは姿かたちを異にして、後世へと繋がる事もある。


 旧追汰地方の山間部に位置する或る村落では、魹尾神とどおのかみ(注釈:表記揺れ、鯔尾神とするものもある)というものが祀られているそうだ。

 非常に大きな尾を持つという意味合いで「どのお神」が訛っただとか、トド(当時、この村の人々はきっと目にした事のないであろう幻の生き物という畏怖をこめて)のように大きい神だからだとか、名付けに関しては諸説あるとされる。

 その体躯はいわおの如く、尾の一振りで山を裂く。渓流の一筋は嘗て、怒れる魹尾神が地を砕き生まれたものである。荒ぶる神だが山の豊かさを示す、恐ろしくも雄壮な神であると記されている。

 だが筆者が村に訪れた際、或る古老はこう語った。「魹尾神というものは後世に語り継がれる内、その威容から呼ぶようになった新たな名である」と。

 であれば、原初の名は何なのか。古老は一枚の古びた絵を持ち出して曰く。それには水墨の筆致も鮮やかに、山をのたうつ巨大な黒い怪物が描かれていた。山肌を荒らし、木々をへし折り、地を抉る異形。顔らしいものは見受けられず、それだけにこの怪物が何故暴れているのかすら読み取れぬ、無感情な惨禍。

 命を平らげるうつろなるもの。即ち「屠洞神とどうのかみ」である、と。


「ただしそれも、かの神の仮のすがたのひとつでしかない」


 かの神とはいかなるものか、彼は語ってはくれなかった。何でも、この村には屠洞神としての側面が語り継がれているだけで、元となった別の伝承が存在するのだと云う。その神は百の姿を持ち、見る者によって全く異なる顔となるのだと。


「神とは霧の奥に差す光である。
人はその光を見ようとするが、
霧を神と誤るのだ」


 かの神を祀る社に刻まれていると云う言葉を誦じて、古老は沈黙した。




                    』


竹居伊音助・著 『地方の伝承を紐解く』



▪︎



 芳乃という娘は、物心ついた頃には既に怖い話というものに夢中だった。


 母に絵本の読み聞かせをねだる時、三度に一度は剽軽ひょうきんな顔をした物の怪が描かれたものを持ってくるし、父が新しいぬいぐるみを買い与えようと欲しいものを聞けば、「おばけのやつ」とふくふく笑う。両親に挟まれてやわらかな布団にくるまり、橙色の常夜灯の下で寝かしつけられながら「おきてたらおばけさんくる? あとどれくらいでくる?」などと、びいだまのように丸い目を爛々と光らせて問うものだから、父も母も流石にこれには参ってしまった。


「これは、お祖父ちゃんの血だなぁ」


 父はそう言って苦笑いをした。目に入れても痛くない愛娘とは言え、連日のように「こわいはなしして!」と腹の上で駄々を捏ねられる日々にとうとうお手上げとなったらしい。


「お父さんのお父さん、芳乃のお祖父ちゃんはな、若い頃から怪談が大好きな人だから。芳乃が頼んだらきっと色んな話を聞かせてくれるぞ。ああでも、ちいさい内はあんまり怖すぎる話は聞かせないように頼んでおかないとなぁ」


 つまるところ、自分はネタ切れなので怖い話は祖父に頼んでくれ、という丸投げだった。これは覿面てきめんに効果のあるものだったのだが、芳乃からの攻撃が「いつおじいちゃんちいく? あした? あさって?」に変わっただけでもあった。


「芳乃、無茶言わないの。お祖父ちゃん達のお家に行けるのは、幼稚園が長いお休みに入ってからよ」


 真っ白いタオルに目口を刺繍して一反木綿を作りながら、母はそう嗜めた。彼女は元々、怖いものが大の苦手だったのだが、娘があまりに怪談をせがむものだからすっかり妖怪の類に詳しくなってしまった。


「おやすみになったらいけるの?」

「ええ、次は夏休みね」


 そう請け負ってこそいるものの、内心では戦々恐々としている。以前、彼女は舅の書斎を見せてもらった事があるのだが、立派な書棚にはおどろおどろしいタイトルの背表紙がずらりと並んでいたのだから。舅は決して悪い人ではない。が、それに触発された娘が今よりももっと本格的な恐怖を求め始めた時、自分がどこまでついて行けるかという不安は拭いきれなかった。


 この芳乃の祖父、幸造は西の生まれで、若い頃から怪談好きが高じて無数の書籍を集め、怪談仲間と交流すると言う好事家こうずかだった。自由奔放な性格で、酒の席ですら怖い話を披露しては周囲の肝を冷やすという悪癖があったものの、妻には全く頭が上がらなかった。うつくしくも厳しい妻は、幸造の一方的な語り方にたびたび釘を刺す存在で、彼女があるからこそ幸造はしゃんと立っていられるという掛け替えのない存在だった。

 幸造は三人の息子に耳なし芳一の話を臨場感たっぷりに聞かせて泣かせた過去があるが、孫の芳乃には怖がられたくないと幼児向けの昔話にとどめている。

 そんな幸造に、盆の帰省で息子夫婦に連れられてやってきた芳乃は、大きな目をきらきらさせてせがんだ。


「おじいちゃん! こわいおはなしきかせて!」


 かわいいかわいい孫娘からのそのおねだりに、彼は年甲斐も無く大喜びした。だがそれを表に出す前に、隣にいた妻はすかさず「浮かれて孫に嫌われるような真似はせんでくださいね」と、ぴしゃりと釘を刺す。その為、表面を取り繕って重々しく頷くほかなかった。

 息子夫婦もどこかひやひやした様子ではあったのだが、結論から言えば彼らの心配は全くの杞憂だった。

 幼子相手ならこんなものだろうか、と自信がないながらに幸造が『置いてけ堀』を語ってみせると、


「ようちえんのえほんより、おじいちゃんのおはなしのがこわかったよ!」


 なんて、頬を紅潮させちいさな手を握りしめながら、とても楽しそうに言うのだ。それにすっかり気をよくした祖父は、夕飯の時間になるまで子供向けの怪談を語り聞かせて、やはり妻に叱られてしまった。が、これを経て二人はこれまで以上に意気投合し、晴れて『怪談仲間』となる。


 ともあれ、夏休みだ。それも盆の時期とくれば、怪談語りばかりもしていられない。

 特に、この地域には地蔵盆の習わしがあった。地蔵菩薩への加護を祈るというこの風習に合わせて縁日が開かれ、子供達にはちょっとした菓子も振る舞われる。祖父の怪談とは別に、芳乃もこれを楽しみにしていた。

 その日、芳乃は朝から町の広場に連れて行ってもらって、地元の子供達に混ざって輪投げやヨーヨー掬いをたっぷり楽しんだ。普段は耳慣れない西の方言も、芳乃にとっては大好きな祖父母が使う言葉だ。物怖じせずに一緒に遊んでしまえば、この年頃の子供は驚く程にあっさりと友達になる事がある。

 新しい友人達とはしゃぎ回った後、昼の日が高くなる前に、子供達はそれぞれの親に手を引かれて一度家へ帰らされる。

 芳乃は母と祖母が作ってくれたそうめんと夏野菜の天ぷらをお腹いっぱいになるまで食べて、和室に敷いてもらった芳乃用の小さな布団でこれまたたっぷり眠った。

 そうしてすっかり、朝一番と変わらないくらい元気になった彼女は、祖母に赤い花火柄が散る濃紺の浴衣を着付けてもらってご機嫌だった。酔芙蓉すいふようの花のような白い兵児帯へこおびが、芳乃がはしゃぐ度にひらひら揺れる。まだ肩に届く程度の整えられた髪が、それに合わせてさらさらと靡く。


「あんまりぴょんぴょん動かないの。せっかく綺麗に着付けてもらったんだから」


 母が嗜めるのも、今日ばかりはあまり聞いていそうにない。外は既に薄暗く、夏の夜が迫りつつあった。こんな時間からめかしこんで出掛ける、という事に興奮してしまっているようで、


「もういく? おまつり、いく?」


 と、大人達の足元をちょろちょろ歩き回って急かした。


 地蔵盆の夕べ、子供達はまた、町の広場へ集められる。受付の白いテントで小さな提灯をもらい(豆電球の入ったおもちゃの様なものだが、芳乃はまだ幼いからと父が受け取ってしまった)、時間になったら子供達はぞろぞろと列を成して、町の辻に祀られている地蔵堂をぐるりと一巡する。それぞれの堂の前では町役場の人達が待ち構えていて、お参りを済ませるとお菓子をひとつずつ渡されるので、母に貰った巾着袋にきちんと仕舞った。

 祖父に手を引かれながら、知らない子供達に混ざって薄暗い町をゆっくりと歩く。広場から離れても祭囃子の笛と太鼓が、遠く響いていた。頭上で列をなす赤い提灯のあかりがどこか夢見心地で、芳乃はふわふわと浮き足だっていた。


「ねぇ、おじいちゃん」


 ひそひそと、なんとなく声を潜めて呼び掛けると、祖父は身を屈めてくれた。


「どしたんや。足、痛くなったか?」

「ううん。あのね、おまつりって、すごいねぇ」


 どこかぽうっとして、すっかり非日常に酔った様子の孫娘を見て、幸造は苦笑する。ハレの気配に当てられてしまったらしい。


「そうやな。このお祭りで、芳乃らが元気に大きくなりますようにって、仏さんや神さんにお願いするからな。そらぁ、凄いわなぁ」

「おじぞうさまは?」

「お地蔵さんはな、仏さんの、まあ仲間みたいなもんや。子供を見守ってくださるんやで。それから、この辺の神さんは杜渡御神とどのおかみいうてな。さっき通った森のところに神社があったやろう、あそこに祀られとる神様なんやが、有り難い神様なんやで。山向こうでは屠洞神っちゅうて、まあ荒ぶるもんやとされとるんやが、それだけのもんやない。そもそもの興りは大昔、仁杜にと師いう偉いお人が霧深い森の奥に迷い込んだのが始まりで……」


 つい悪癖が出て講釈を垂れかけた幸造だったが、自分を見上げる芳乃が目も口もまあるく開けてぽかんとした顔をしているのに気づくと、慌てて語りを止めた。


「すまんすまん、芳乃にはもうちょい早い話やったな」

「それ、こわいおはなしになるの?」

「どうやろな。ここの神さんには、怖い面も優しい面もあるもんや。けど、まだ難しいかもしれんから、芳乃が大きくなってからにしよな。とにかくあそこの神社には、子供に優しい神さんがいてはるんやって事だけ、覚えといたらええ」

「そっかぁ」


 芳乃は後方を振り返ってみるが、幼子の目には後ろを着いてきている両親の足しか見えなかった。神社も、鎮守の杜も、影すら見えない。


「かみさまもおまつり、きてるかな」

「もしかしたら来てるかもな。杜渡御神さんは百の顔があるんやで。人に混ざって、遊びに来てはるかもしれん」

「ええー? なあに、それ?」

「それは、またいつかな。ほら、そろそろ次のお地蔵さんやで」


 祖父に促されて、地蔵堂に手を合わせる。

 愛想の良いおじさんが小さなお菓子の箱を手渡してくれたが、芳乃にはそれが神様か、優しいおじさんなのか、全く見分けがつかなかった。

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