神功皇后幻想

@pane_melone

第1話 角鹿の海

 ざぶんと水しぶきをあげて、虚空津比売そらつひめの躰は海にのみこまれた。為されるがままに深く沈んでいって、躰をくちなわのようにくねらせて向きを変え、光の網が揺らぐ水底で、岩場に張りついている貝をさがす。わかめや海松みるが揺れていて、少し見つけにくいが、

(ああ、あそこにいるな、あちらには、栄螺さざえが)

 目星をつけて、いったん息を継ぎに海面にあがった。大きく息吹を胸に溜めて、再び潜る。岩に張りついて身を隠しているが、両手を並べたよりもひろそうな、大物のあわびだ。少し離れたところに、栄螺もいくつか見える。打竹さきたけを使って岩から剥ぎ、手網に入れて、もう少し泳ぐ。鯛だ。虚空津比売は腰に付けた銛をそっと握った。ゆっくりと近づいて、瞬時に放つ。

 手ごたえがあった。銛をゆっくりをひきよせると、腹を貫き通された鯛がのたくっていた。大漁だ。光さす水面を目指して水を蹴る。舟に泳ぎついて獲物を投げ込むと、歓声があがった。

「虚空津比売さまは、まこと水優みづおぎであられますな!さっそく浜で焼いて喰いましょうや!」

 船にひきあげてもらい、虚空津比売は躰を荒布でぬぐった。

「ありがとう、河是古かぜこ。皆で食べてくれ。船を出してくれた礼だ」



 海から丘に吹きあげた風が背中を撫で、木漏れ日を揺らした。

 綺戸比売あやどひめは、蕗を摘むためにかがめていた腰を伸ばし、ほっと息をついた。夏の盛りはまだ先だが、日が高くなるにつれ肌は汗ばんで衣裳きものが重く感じられる。目を転じると、角鹿つぬが蒼海あおうなばらが遥々とひろがり、そこに、こんもりと緑の木々を乗せた岬が突き出している。

 鹿の角のような半島に囲まれた嫋やかな海。――「それゆえ角鹿と云う」と古事語ふるごとがたりに言い伝えられたとおりだ。

 綺戸比売はつぶらな眸を細め、ひとしきりその風情を楽しんだ。さてもう少しと濃い緑の重なる梢に目を移し、はっと視線を止める。

 吸い寄せられた眼差しの行く果てには、紅くたわわに色づいた実が、重たげに枝を撓ませている。

 桃だ。

 綺戸比売の喉が、小さくごくりと動いた。桃の実を眞名井や渓流たにがわで冷やしたものは、何よりの御馳走だ。

 綺戸比売は、そっとあたりを見回した。桃の枝の先は、比売が手を伸ばし、少し頑張れば、とどきそうな高さにある。木登りは禁じられていたし、裳裾の長い着物を枝にひっかけて汚したり破いてしまうことを考えると、恐ろしくてできなかった。父はともかく、なにより乳母の由利女ゆりめの怒りようが、雷のようなのだ。

 あとは、跳び上がって、枝を掴むかだが、せっかくの桃を、はずみで地に落としてしまっては、味が落ちてしまう。できれば、もう少し、枝を引き寄せられれば。

視線をめぐらせると、茂った萱の陰に、長い枯れ枝が一つ、落ちているのを見つけた。あれを上手く使えないだろうか。

 綺戸比売は、摘み集めた蕗を入れた籠を、脇に置いた。枝を手繰り寄せてみると、みかけによりもずっしりと重かったが、持ちあげて引っ掛けることができれば、うまく枝をしならせることができそうだった。

「手が汚れるといって、由利女に怒られるぞ」

 不意を突かれて、ひゃ、と喉から悲鳴が漏れるのを、綺戸比売は止めることができなかった。

「ね、姉さま!」

 由利女には言わないで、か、驚かさないで、か、いくつかの言葉が口元を駆け巡ったが、結局はどれも言葉にならず、綺戸比売は両手で口元をおさえたまま姉の挙措をながめるだけだった。

「桃じゃないか、美味しそうだな」

 虚空津比売は、綺戸比売が四苦八苦して、手を伸ばしていたその桃の実を、何気なくヒョイと捥ぎ取った。背が、抜きんでて高いのだ。手足も、楓のように細く長い。背が高いせいで女物の装束きものでは長さが足りず、裾の短い男物の袴を穿いて、膝下がむき出しになっている。うからのなかには、「姉比売様は名の通り、空に届くほど背が高くておられる」と陰であざけっている者もあるそうだ。そういったことは、どんなに隠しても耳に入るものだ。

 虚空津比売は、桃の実をぱかりと二つに割って、半分を妹に差し出した。残り半分は、みずからかぶりつく。

「あ、」

 綺戸比売は差し出されたそれを、やむなく受け取る。冷やせばもっと美味しく、などと思い描いていたことが、すべて言い出せなくなってしまう。心根の弱い事と寂しくなるが、由利女は「比売様はそれでこそ愛されるのです」と言ってはばからない。

「どうした、なにか、・・・これくらい隠れて食べたからって、由利女にどうこう言われることはないだろう?」

 虚空津比売は妹の惑いに、そう問いかけた。なお、二人は母を同じくする姉妹で、同じく由利女に育てられている。姉の方は、生まれつきの気性からか、由利女の「おしとやかに」というしつけに叛き続け、もう諦められている。

「ええ、うん、そうじゃなくて・・・・」

 綺戸比売は、かあっっと、頬が火照るのを感じた。

「せっかくだから、宴にもお出ししてはと思って。」

「・・・なるほどな。じゃ、もういくつか採ればいいだろう。綺戸はよく気が付くな」

 虚空津比売はその長い腕をなめらかに伸ばして、7,8個実の生った枝をぱきりと折った。

「こんなところに自生えてたんだな。残りは、明日やその先に取っておこう」

 すべてを採って客人まれびとに差し出す必要はない、とほのめかして、虚空津比売はにやりと笑った。きりりとした蛾眉、切れ味の鋭い黒曜のような眸が木漏れ日にきらめいた。

「姉さまは、また海に?」

 綺戸比売が鼻をひくつかせた。

「・・・わかるか?衣は、着替えたのだけど」

「髪からも肌からも潮の香がするもの。眞名井で濯がないと駄目じゃないかしら」

「由利女や下枝しづえに見つかる前に、どこかで洗っていこう。綺戸は何をしていたんだ?」

 綺戸比売は、蕗を摘み入れた籠を持ち上げた。

「お父様から、山の菜を集めてくるようにと。『てずから集めた蕗ですと言えば、遣いの君も喜ばれるだろう』なんて言われて」

「灰汁で、指が黒くなってしまうだろ。」

「お父様は、ご自分で蕗を摘んだことなんてないのよ、きっと」

相違ちがいない」

 ははは、と虚空津比売は軽やかな笑い声をたてた。

 眼下の入り江に、ひときわ大きな船が3艘、小舟に曳かれて、入り江に入ってくる。

「船の上で月を眺めての宴か。大王の遣いの君をもてなすとはいえ、父様も凝ったことをなさる」

 虚空津比売は妹の持っていた籠を寄越すように言って、綺戸比売を促して丘を降り始めた。裾の短い衣は身軽で、茂る夏草をものとものせず、斜面を大股で降りていく。綺戸比売は裳裾をつまんで小走りについていく。

「姉さまは、なにか獲れたの?」

「うーん、栄螺が少し、な。やっぱり水手かこには適わないな」

ふきあげてくる風でいちめんの笹百合が揺れた


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