第5話 秘密の共犯者
翌朝の教室は、僕にとってまるで処刑場のような場所だった。
いつもと同じ喧騒、いつもと同じ友人たちの笑い声、そのすべてが僕の神経を逆撫でする。僕は自分の席で、死んだように息を潜めていた。橘沙織の席は、窓際の斜め前方。視線を上げればすぐに目に入ってしまうその距離が、今は天国と地獄ほどに遠い。
昨日の出来事は、夢ではなかった。
肌に残る彼女の熱の感触、鼻腔の奥にこびりついた甘く生々しい匂い、そして僕の身体が覚えている罪の記憶。そのすべてが、現実だったと告げている。僕は、憧れの少女のすべてをめちゃくちゃにしてしまったのだ。後悔と、背徳的な興奮が入り混じった感情が、胃の中で渦を巻いている。
沙織は、僕のそんな葛藤などまるで存在しないかのように、完璧に普段通りだった。友人に囲まれて、昨日までと何も変わらない、太陽のような笑顔を振りまいている。僕の方を一度も見ない。その完璧な無視が、僕の心をじわりじわりと締め上げた。彼女は僕を憎んでいるのだろうか。それとも、僕の存在そのものを、記憶から消し去ってしまったのだろうか。
授業中、彼女が落とした消しゴムが、転がって僕の足元にやってきた。僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃と共に、その小さな白い塊を拾い上げる。彼女の席まで届けに行く、そのわずか数メートルの距離が、永遠に感じられた。
「……橘さん、これ」
僕の声は、自分でも驚くほどにか細く震えていた。
「あ、ごめん。ありがとう、高木君」
彼女は、クラスのその他大勢に向けるのと同じ、完璧に無関心な笑顔でそれを受け取った。その指先が、一瞬だけ僕の指に触れる。その微かな接触だけで、僕の身体は昨日の熱を思い出して硬直した。
昼休み、一人で弁当を食べていると、沙織の友人グループの一人が僕の席にやってきた。
「高木君、ちょっといい?橘さんが、屋上で話があるって」
その言葉は、死刑宣告のように僕の耳に響いた。
重い足取りで、屋上へと続く階段を上る。吹き抜ける風が、やけに冷たい。扉を開けると、そこに沙織が一人、フェンスに寄りかかって街を眺めていた。風が、彼女の栗色の髪を美しくなびかせている。その姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
僕が近づくと、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。その顔から、笑顔は消えていた。ガラス玉のように冷たい瞳が、僕をまっすぐに見据えている。
「昨日のこと、誰かに話した?」
低く、抑揚のない声だった。
「……話すわけないだろ」
「そう。ならいい」
彼女は短くそう言うと、視線を逸らした。沈黙が痛い。
「あれは……間違いだったの。私も、どうかしてた。だから、昨日のことは全部忘れて」
忘れて。その言葉が、鋭いナイフのように僕の胸に突き刺さる。僕にとっては生涯忘れることのできない、あまりにも鮮烈な出来事を、彼女は「間違い」の一言で切り捨てようとしている。
「学校では、今まで通りに接して。私に話しかけないで。わかった?」
「……ああ」
僕は、頷くことしかできなかった。これで、すべて終わりなのだ。僕は彼女の秘密に触れ、そして、汚した。その罰として、僕は彼女の世界から、完全に追放される。
沙織は僕に背を向け、屋上の出口へと歩き出した。僕はその背中を、ただ茫然と見送る。
しかし、僕の横を通り過ぎる、まさにその瞬間。
彼女は、僕にだけ聞こえるような、か細い声で囁いた。
「また……放課後、あの教室で」
え、と僕が顔を上げる前に、沙織はすでに扉の向こうへと消えていた。
一人残された屋上。冷たい風が、火照った僕の頬を撫でていく。
忘れて、と言った唇で、彼女は次の約束をした。その矛盾した言葉の意味を、僕は測りかねていた。ただ一つ確かなのは、僕と彼女の関係は、終わりではなく、始まったばかりだということだ。誰にも知られてはいけない、秘密の共犯者としての関係が。
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