第3話 教室の涙


 その日の放課後、僕は日直の仕事で教室に一人残っていた。黒板を綺麗に拭き上げ、日誌に当たり障りのない今日の出来事を書き込む。窓の外では運動部の掛け声が遠くに聞こえ、教室の中だけがひっそりとした静寂に包まれていた。昨日から僕の頭の中を占めているのは、橘沙織の完璧な仮面のことだ。彼女の笑顔の裏に隠された一瞬の影を思い出し、僕は小さく溜息をついた。


 日誌を書き終え、教卓の上に置いた時だった。がらり、と昨日と同じように、教室の引き戸が静かに開いた。反射的に身を強張らせた僕の目に映ったのは、またしても沙織の姿だった。彼女は教室に誰もいないと思ったのだろう。僕が教卓の影にいて見えなかったのか、周囲を見回すことなく、まっすぐに窓際の席へと歩いていく。


 声をかけるべきか、息を潜めるべきか。その一瞬の逡巡が、僕を共犯者にした。僕は咄嗟に身を屈め、教卓の影に完全に隠れる。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。出ていくタイミングを失った僕は、まるで盗人のように、彼女の存在から身を隠してしまった。


 沙織は自分の席ではなく、窓際の空いている席に腰を下ろした。そして、ポケットからスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始める。彼女の背中が、僕の方へと向けられている。その小さな背中が、なぜかひどく頼りなく見えた。


 最初は、小さな声で相槌を打っているだけだった。うん、とか、それで、とか。しかし、会話が進むにつれて、彼女の声には徐々に苛立ちと疲労の色が滲み始める。

「だから、もうお金はないって言ってるでしょ。この前渡したのが最後だって…」

 その言葉は、まるで鋭い棘のように僕の鼓膜を突き刺した。お金。昨日、彼女のスマートフォンが震えた時の、あの強張った表情が脳裏に蘇る。


 電話の向こうの相手が、何かを捲し立てているのだろう。沙織はぎゅっと拳を握りしめ、俯いた。

「お父さんとまた喧嘩したの?……もうやめてよ、二人とも。私がなんとかするからって言ってるじゃない」

 その声は震えていた。完璧な彼女からは想像もできないほど、弱々しく、助けを求めるような声だった。僕が知っている橘沙織は、ここにはいない。そこにいたのは、たった一人で重荷に耐える、十七歳の少女の姿だった。


 やがて、彼女の堪えていた感情が決壊する。

「私だって、もう疲れたよ……」

 その言葉を最後に、彼女は通話を切った。スマートフォンが、かたりと音を立てて机の上に落ちる。しん、と静まり返った教室に、次の瞬間、押し殺すような嗚咽が響き渡った。


 沙織は、両手で顔を覆っていた。その華奢な肩が、小刻みに震えている。完璧な仮面は完全に剥がれ落ち、隠されていた生身の心が、悲鳴を上げていた。止めどなく溢れる涙が、彼女の指の間から滴り落ちていく。


 見てはいけないものを見てしまった。僕は呼吸もできず、教卓の冷たい木目に額を押し付ける。彼女の悲痛な泣き声が、教室の静寂を切り裂いていく。それは僕の心をも引き裂くようだった。逃げ出さなければならないのに、足が床に縫い付けられたように動かない。僕にできることは、ただ彼女の涙の音を聞くことだけだった。

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