第37話 もう朝は来ない

 鳥のさえずりもカーテンの隙間から差し込んでくる太陽の光もない。


 もうあれから何日、いや、何週間が経ったのだろう。


 最後に学校へ行ったのはかなり前のことのように思える。


 

 目が覚めて布団から起き上がっても、学校に行くことはない。


 行くことはない、というより行けない。


 学校にいけないどころか、自分の部屋から出ることさえ許されないのだ。


 

 カーテンも窓も開かず、カーテンの上から板が打ち付けられていて、外からは見えないようになっている。


 それまで部屋の中に置いてあった時計はデジタルもアナログも全て回収されてしまった。


 その上、スマホもパソコンも取り上げられてしまい、外部との接触は全くできない。


 要は監禁されてしまっているというわけだ。


 

 もちろん信じたくはない。

 

 俺がこんな状況になってしまっているということも、こんな状態にしている犯人の正体も。


 だって――――。



「あ、起きてるね、お兄ちゃん」


 

 改造され、部屋の中からは開錠することができない鍵がいくつもついている扉。


 それがゆっくりと開いて、一人の少女が入ってくる。


 

「莉……子…………」



 彼女の左手にはお盆が乗せられており、そこには俺に食べさせる用の料理がいくつかあった。


 これはもう毎日のことで、一日三食分は必ず用意してくれる。


 床に両膝をつき、着々と食事の準備を進めている莉子の顔は穏やか。


 しかし、俺にはそれが果てしなく怖いものに見えた。



「じゃあお兄ちゃん、手を合わせて?」


「…………うん」


「はい、いただきます」



 莉子はそう言って、いつものように両手を合わせながら深く頭を下げた。


 外の世界で見ていた頃と何一つ変わらない、淑やかなその仕草。


 それが、俺のいる場所が監禁部屋だという現実をまるで塗り替えるように見せつけてくる。


 そして、その圧に負けるかのように、俺も重い鉄塊のような腕を動かし、手を合わせた。



「…………いただきます」


「ちゃんと言えて偉いね、お兄ちゃん」



 莉子が微笑む。


 その笑顔はこの部屋のどこにも差し込まない光のよう。


 しかし同時に、俺の心を凍えさせる最大の恐怖の対象であった。



「今日はね、お兄ちゃんの好きなハンバーグだよ。ちゃんと作れてるかな?」



 莉子は湯気の立つ皿を俺の目の前に滑らせた。


 肉汁とソースの混ざる香りは食欲をそそるものだったが、俺の喉は砂で塞がれたように固く閉ざされたままだった。



「――――なぁ莉子。もうやめにしないか」



 莉子は決して俺のことを肉体的に傷つけるようなことはしない。


 だが、優しく退路を断ってくるような莉子の言動そのものが、俺にとっては怖くて。


 だから、こうやって意見を言うことさえ、どれだけ勇気を振り絞ったのか分からない。



「ん?」


 

 それなのに。


 それなのに、莉子は少しも動揺せず、優雅に自分のハンバーグをナイフとフォークで切り分ける。


 その音すら、この密室では不快なほど響いた。



「お兄ちゃんは何を言っているのかな?」


「わかってるだろ⁉ お前が俺のことを……俺のことを…………」


「監禁してるって言いたいの?」



 俺の熱量とは対照的に、莉子の声は冷静そのものだった。



「美味しいね」



 莉子は切り分けた肉を口に運び、満足そうに目を細める。



「は? 莉子、俺は――――」


「お兄ちゃん。私はね、お兄ちゃんを守っているんだよ?」



 俺の言葉を遮って放たれた莉子の言葉は、静かで、優しくて、まるで小さな子に言い聞かせているものかのようだった。


 その口調が俺の神経を逆撫でする。



「守る、ってなんだよ」


「そうだよ? この世界にはお兄ちゃんを狙う、恐ろしい毒がいっぱいあるでしょ? 三室戸和奏、瀬川杏子、園池彩芽……みんな、お兄ちゃんを『自分のものにしたい』って言って、お兄ちゃんを汚そうとするんだもん」



 血の気が全身からスッと引いていくのが分かった。


 莉子はいつから俺たちの関係を把握していたのだろうか。


 そんなことを思っても、俺にはそれを知る術なんてものは無い。



「外の世界は全部が競争で、愛の奪い合いなの。お兄ちゃんが少しでも隙を見せたら、他の子たちがすぐに毒牙を剥いてくる。お兄ちゃんは優しすぎるから、きっとまた惑わされて、傷つけられちゃう」



 莉子はフォークを置き、真っすぐに俺の目を見てくる。


 彼女の瞳はまるで鏡のように透明で、底知れない狂気を湛えていた。


 少なくとも、俺はそういう風に感じた。



「でも、ここは違う。私が管理する、お兄ちゃんと私のための安全な箱庭。外から毒は入ってこないし、お兄ちゃんを傷つける人もいない。お兄ちゃんはただ私の愛だけを受け取って、毎日を幸せに過ごせばいいの」



 俺は兄として莉子のことが好きで、彼女を守っていかなければいけない、なんて思っていた。


 なのに、なんでこんなにも吐き気が込み上げてくるのだろう。


 これが妹としての「愛」なのだろうか。


 いや違う……!



「それは愛なんかじゃない! お前の、ただのエゴだ!」


「エゴ? 本当にそうかな?」



 莉子は首を横に傾け、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


 そして、俺の頭を優しく撫でる。


 その手のひらが、まるで枷のように感じられた。


 莉子の手を振り払う、という選択肢は俺の中に無かったのだ。



「私はね、本当に、本当にお兄ちゃんを愛しているんだよ。この世の誰よりも、誰よりも。だから、誰にもお兄ちゃんを渡したくない。誰にも奪われたくない。ねぇ? 他の子たちの愛は偽物だけど、私の愛だけは、本物でしょ?」



 俺はもう妹の言葉に理性が通じていないことを悟った。


 この監禁は彼女にとっての「完璧な愛の証明」なのだろう。



「莉子。俺がもし、お前の愛を受け取らなかったら、どうするつもりだ?」



 不思議そうな顔で俺の顔を覗き込んできた莉子は、再びあの満面の笑みを浮かべた。


 

「ふふっ……大丈夫だよ、お兄ちゃん」



 俺の耳に囁かれた莉子の甘い声。


 一体何が大丈夫なのか。


 さらに莉子が続けたのは、理解が追い付いていない俺の頭をさらに突き放す言葉だった。



「大丈夫。だって、お兄ちゃんがどこにも行かないように、私がちゃんと薬を混ぜてあげたから」



 背筋に電気が走る。


 身体が急に重くなる。


 視界が歪み、天井の木目が回り始める。


 目の前のハンバーグから立ち上る湯気は、まるで俺を閉じ込める甘い毒の靄のように見えた。



「お……れのハンバーグ……か…………」


「うん。美味しかったでしょ? お兄ちゃんの嫌な記憶も、外の世界への執着も、みんな消えて、莉子のことだけを愛する、新しいお兄ちゃんになれるんだよ」



 莉子は再び椅子に座り、残りのハンバーグを切り分け始める。



「これから、二人でずっと、ここで暮らそうね。誰にも邪魔されない、永遠の二人だけの世界で」



 俺は最後の力を振り絞って、その皿をひっくり返そうとした。


 莉子の手を掴み、この茶番を終わらせようと藻掻いた。


 だが、指先は虚しく空を切る。


 体は鉛のように重く、抗議の言葉も喉の奥で潰えていった。



「さあ、お兄ちゃん。莉子の愛の檻へようこそ。この茉莉花の香りが、お兄ちゃんの全てを包み込んであげるからね」



 何を言ってるんだ莉子は。


 もう何もわからない。


 ただ妖しげな笑みを浮かべた莉子が俺から遠ざかっていくのだけはわかった。


 もう体勢を保つことさえできなくなって、そのダルさから俺はカーペットの上に倒れこんでしまう。



 そして聞こえてくる、鍵がかけられる音が二つ。


 それは、俺の世界の終わりを告げる、静かで決定的な音だった。



 朝起きたときに和奏がベッドにいたことも、彩芽と一緒に下校したことも、全てが夢の中での出来事だったみたいだ。


 

 だって俺は――――莉子だけのお兄ちゃんなんだから。

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前門のヤンデレ、後門もヤンデレ 高坂あおい @kousakaao

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