第7話 蘇る感覚
「……ちゃん」
俺は今日、和奏と口づけをした。
いや、口づけなんて生易しいものなんかではない。
あれは草原を独りで歩いていた俺が捕食者によって一方的に蹂躙されたようなものだ。
「おにい……! …………ちゃん、聞いてる⁉」
「え……あ、ああ。聞いてるよ」
「嘘つかないでよ。お兄ちゃん心ここにあらずって感じだったもん」
莉子が「ぷんすか」という擬態語が似合うようなふくれっ面で俺の方を睨んでいた。
今は夕飯の時間。
莉子はいつもの感覚で俺に世間話を繰り出していたんだろうが、申し訳ないことに、まったく話が耳に入ってきていなかった。
それほどに、昼間の出来事は衝撃的だったのである。
いけない、このままだとまた俺は迷宮の中へと誘われるところだった。
そんな俺の様子で、さすがに違和感を感じたのか。
莉子は箸を茶碗の上に置いて、俺の顔を覗きこむような姿勢で尋ねてくる。
なお、俺たちの間には大きな机があるため、実際に覗き込んでいるわけではない。
「お兄ちゃん、今日なんかあった?」
これが普通の反応である。
まぁ、結論から言えば、何かはあったんだが。
「嫌なこと?」
「わからないんだ。あれが嫌なことだったのか」
「なるほどねー。もしかして、その何かをどういう風に受け止めればいいかわからなくて悩んでいたの?」
「細かいことで言うと他にもいろいろあるが、大方そんなところだな」
なんであんなことをしていたのか、今思い出すと全くわからない。
そう、今まで俺が和奏に対して思っていたのと同じことを、過去の俺にも思っているのだ。
理解が及ばない行動の数々。
途中から俺は和奏に身体も心も脳みそすらも支配されたかのように、従順に行動していた。
「お兄ちゃんがそんなに悩むなんて珍しいね」
「そ、そうか?」
「うん。私ちょっとだけ嫉妬しちゃうもん」
「そんなこと言われてもな……」
まさか、俺が一番大事に思っているのは莉子で、莉子が幸せならオールオッケーのマインドで生きているとも言えないし。
そして、今そのマインドが覆されそうになっているので、より一層言いづらくなっている。
「昨日のラーメンを食べてる時のお兄ちゃんはまだ楽しそうだったよ?」
「そうだな、昨日のラーメンな……」
その時、田舎の町内放送のように頭の中に流れてくる「ラーメンとどっちの方が美味しい?」という発言。
俺は最後には「パフェ」だと答えてしまっていたはずだ。
それは、莉子と二人でラーメンを楽しく食べていた時間を自分の手によって否定、破壊したかのように思えて、後ろめたさを加速させている。
「ねえ、お兄ちゃん。なんでもいいの。辛いことがあったら私に相談して? お兄ちゃんが苦しんでる姿なんて見たくないよ」
莉子は本気で俺のことを心配してくれている。
本当に本当に、莉子は俺の自慢の妹だ。
だけれど、莉子に対してこの悩みをぶつけるわけにはいかない。
「莉子、ありがとうな。でも、これは俺自身で解決しなきゃいけない問題なんだ」
「お兄ちゃん……」
「大丈夫。本当に行き詰ったら、ちゃんと相談するから」
嘘。
大好きな妹に嘘をつくのは胸が痛む。
キリキリと心臓が締め付けられている音が聞こえてくるようだ。
でもこの嘘はただの嘘じゃない。
俺が成長するために、莉子を巻き込んで傷つけないように守るための嘘だ。
莉子はまだ納得がいってないような様子。
当然だろう。
俺が莉子の立場なら、納得なんかするはずがないし、なんなら悩みを打ち明けてくれない兄に対して罵倒をするかもしれない。
それをしないだけで、莉子は我慢強くて優しい子であることがわかるはずだ。
「ごちそうさま、莉子。美味しかったよ」
「うん! 洗い物は私がしておくから、お兄ちゃんはお風呂に入ってきて!」
「いつも任せっきりで悪いな」
「謝罪より感謝でしょ? それに、お兄ちゃんにやらせたところで、お皿を割られるのはわかってるし」
「酷い言い草だな」
俺のツッコミにクスクスと笑う莉子を背中に、風呂場へと向かった。
脱衣所で服を脱ぎながら、ふと唇が気になって触ってみる。
もう彼女の唾液は莉子のご飯で上書きされてしまっているだろうが、彼女の唇の感触だけは上書きされないのではないか、そう思った。
明日、どんな顔をして和奏に会えばいいんだろう。
そもそも、明日和奏はいつも通り家の前まで来てくれるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺はこの後の夜を過ごした。
次の日、和奏は学校を休んだ。
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