第20話 夕暮れの買い物
僕のモノクロだった世界に再び鮮やかな夏の色が戻ってきた。安堵で抜け殻のようになった僕に、千聖お姉ちゃんは悪戯っぽく笑いかける。
「それで、結局何が食べたいの悠希くん?」
その問いに僕の頭は再び真っ白になった。思考能力はまだ絶望の淵から完全には帰還していない。僕はまるで生まれたての雛鳥のようにただ口をぱくぱくさせることしかできなかった。そんな僕を見て彼女はさらに楽しそうに笑う。
「じゃあ悠希くんの好きなものにしてあげる。何がいい?」
好きなもの。そう言われて僕の口から咄嗟に飛び出したのは、子供の頃からずっと変わらない僕にとっての御馳走の名前だった。
「ハンバーグ……が、いいです」
「ハンバーグね。オッケー」
彼女はそう言うとぱちんと指を鳴らした。そして「じゃあ冷蔵庫の中身を見て足りないものを買いに行かないとね」と言って僕の部屋から出て行こうとする。
その背中を見た瞬間、僕は強い衝動に駆られた。駄目だ。彼女を一人でこの家から出してはいけない。一秒でも長くこの二人きりの空間に彼女を引き留めておかなければ。
「俺も行きます!」
気づいた時には僕はそう叫んでいた。それはほとんど本能からの叫びだった。僕のその必死の形相に千聖お姉ちゃんは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに「ふふ、分かった。じゃあ一緒に行こっか」と優しく頷いてくれた。
僕たちは二人で夕暮れの道を歩き始めた。昼間のすべてを焼き尽くすかのような太陽はもういない。空はオレンジと紫が混じり合った優しいグラデーションに染まっている。アスファルトに残った熱気がむわりと足元から立ち上ってくる。昼間はあれほどけたたましかった蝉の声はいつの間にか、カナカナと鳴く涼やかなヒグラシの声に変わっていた。
僕たちは並んで歩いていた。時々腕が触れ合いそうになるその距離に、僕の心臓は大きく高鳴った。僕は彼女の少しだけ後ろを歩く。風になびく彼女の艶やかな黒髪から目が離せない。そのあまりにも無防備なうなじに僕は昼間の興奮を思い出していた。
なんだこの感じは。まるで新婚の夫婦が二人で夕飯の買い物にでも行くみたいじゃないか。
その甘美な錯覚に僕の頬は自分でも分かるほどカッと熱くなった。自然と口元がだらしなく緩んでしまう。
近所のスーパーマーケットは夕飯の買い物に来た主婦や、仕事帰りのサラリーマンで程よく賑わっていた。自動ドアをくぐった瞬間、ひんやりとした冷房の空気が火照った僕の体を心地よく包み込む。様々な食材の匂いが混じり合ったスーパー特有の匂いがした。
僕たちは二人で一つの買い物カゴを持った。
「玉ねぎはこっちの方が安いよ」「ひき肉はやっぱり合挽きがいいかな」
そんな他愛のない会話を交わしながら二人で商品をカゴの中に入れていく。そのあまりにもありふれた日常的な共同作業が、僕の幸福感を極限まで高めていった。
会計を済ませ僕たちは一つのビニール袋を片方ずつ持ってスーパーを出た。ずしりとした食材の重み。カサカサと袋が擦れる音。すっかり夜の闇が迫ってきた道を僕たちはまた並んで歩く。そのすべてが僕にとっては夢のように幸福な時間だった。
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