第2話 不吉な予兆
学校という名の檻から解き放たれた僕の足取りは、まるで地面から数センチ浮いているかのように軽かった。じりじりと肌を焼く七月の西日は、アスファルトに逃げ場のない熱を蓄積させ、陽炎が風景をぐにゃりと歪ませている。蝉時雨は学校にいた時よりも一層その勢いを増し、まるで僕の解放を祝福するファンファーレのように、頭上から降り注いでいた。汗で湿ったワイシャツが背中に張り付く不快感すらも、これから始まる四十日間の自由を思えば、些細なことのように感じられた。
僕の頭の中は、すでに完璧な夏休みの計画で埋め尽くされている。ゲーム、漫画、アニメ。その三つを、心ゆくまで、誰にも邪魔されずに堪能する。それこそが、僕にとっての理想郷であり、至上の幸福だった。鼻歌交じりで角を曲がると、見慣れた我が家が視界に入ってくる。少しだけ色褪せたベージュの外壁、母さんが手入れしているささやかな花壇。ありふれた日常の風景が、今日だけは僕が帰るべき城のように、輝いて見えた。
玄関のドアノブに手をかける。灼熱の外気に熱せられているかと思いきや、日陰になっているそれは、ひやりとした金属の冷たさを僕の火照った手のひらに伝えてきた。その心地よい感触に、僕は束の間の安らぎを感じる。ここが、現実と楽園を隔てる境界線だ。
ガチャリ、と、いつもと変わらない、少し乾いた音を立ててドアが開く。
「ただいまー」
自分でも驚くほど浮き足立った声が、しんと静まり返った家の中に吸い込まれていった。いつもなら、この時間にはリビングからテレビの音が漏れ聞こえてきたり、台所で夕飯の準備をする母さんの鼻歌が聞こえてきたりするはずなのに。今日は、まるで家の空気が重く澱んでいるかのように、物音一つしない。
僕が靴の踵を指で引っかけて脱ごうとした、その時だった。廊下の奥、リビングへと続くドアが静かに開き、エプロン姿の母さんがぬるり、と姿を現した。
「おかえりなさい、悠希」
その声のトーン自体は、普段と何ら変わりない、穏やかなものだった。しかし、僕の胸の内に巣食っていた楽観的な空気は、彼女の顔を見た瞬間に、まるで鋭い針で刺された風船のように、急速にしぼんでいった。
母さんは、笑っていた。口元は完璧な三日月を描き、目尻には優しい皺が寄せられている。それは、息子の帰りを喜ぶ母親の、教科書に載せたいほどの理想的な笑顔だ。だが、その目は、全く笑っていなかった。感情という光を一切反射しない、ガラス玉のように冷たい瞳が、僕の頭のてっぺんから爪先までを、まるで検品でもするかのように、じっとりと見つめている。その笑顔と瞳の間に横たわる、あまりにも深い断絶が、僕の背筋にぞくりとした悪寒を走らせた。
どこからか、醤油とみりんが煮詰まった、甘辛く香ばしい匂いが漂ってくる。豚の角煮。僕が一番好きな、母さんの得意料理だ。普段の僕であれば、その匂いを嗅いだだけで、腹の虫が喜びの声を上げ、尻尾を振って台所へ駆け寄っていたに違いない。しかし、今の僕には、その食欲をそそるはずの匂いすらもが、何か不吉な儀式のために用意された、最後の晩餐の香りのように感じられた。心地よいはずの匂いが、今は僕の喉を締め上げる。
空気が重い。粘度を増したように、呼吸をするたびに肺にまとわりついてくる。学校から僕についてきた、あの軽やかで輝かしい解放感は、この家の玄関をくぐった瞬間に、重苦しい気配に喰い殺されてしまったようだった。
「……どうかしたの、母さん。何か、あった?」
自分でも情けないほど、声がかすれた。心臓が、ドクン、と大きく嫌な音を立てて脈打ち、その振動が全身に伝わる。喉の奥がカラカラに渇き、乾いた砂漠のようになっていく。
僕の問いかけに、母さんは表情を一切変えないまま、ゆっくりと、そして静かに首を横に振った。その動きは、まるでスローモーション映像を見ているかのようだ。そして、完璧な笑顔を張り付けたまま、その唇が静かに開かれた。
「悠希、大事な話があるの」
その言葉は、決して大声ではなかった。むしろ、囁き声に近いくらい、静かだった。しかし、その一言一句が、恐ろしいほどの鋭さを持った刃物となって、僕の鼓膜を突き破り、楽観主義に満たされていた脳髄を、ぐちゃぐちゃに掻き乱した。天国から地獄へ、などという生易しいものではない。僕の心は、全ての光も音も存在しない、絶対零度の真空空間へと、一瞬にして放り出されたのだ。
ツー、と一本の冷たい汗が、うなじから背骨の溝をなぞるように、ゆっくりと、しかし確実に流れ落ちていく。その、蚯蚓が這うようなおぞましい感触だけが、この世のものとは思えないほど、やけに鮮明だった。
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