第十五話 封滅と別紙、そして欠陥
昼の鐘が二つ鳴った頃、司令部の回廊に冷たい靴音が重なった。
封蝋の色は紫。要塞内でこの色を使えるのは、司令と監察局からの連絡便だけだ。差出人欄は「帝都監察局 第三出張監」。宛名は「カドニア要塞司令 カロル・ヴァイス 並びに憲兵隊付警視ユリウス」。
紫の封蝋に、針ほどの細い切れ目があった。開封痕――ではない。監察局独特の“転記痕”だ。公式文書と別紙が揃っている合図。
ユリウスが受け取り、石卓の上で封蝋を割る。
石室は灯りが少なく、窓の外の白光が羊皮紙の縁を硬く縁取った。
僕は壁際に立ち、オットーは一歩引いた位置でペンを構える。ダリオ(装備監)は腕を組んで睨み、兵站参謀ロットムントは無表情。ヴァイス司令は指を組んで黙っている。
まずは“公式の”文面。
簡潔だった。
――「B列補給欠損について、内点検を行い、結果を三日以内に上申せ。騎士団・兵站の協働を要す。関係者の聴取は司令部の許において厳正に実行すること。」
どこにも刃は見えない。どこにでも向けられる言葉。
ユリウスが続いて“別紙”を開く。
別紙は、もっと薄い紙に細い字でぎっしり書かれている。
――「非公開付記:欠損は継続的かつ組織的可能性。内通者の階位推定“准尉以上”。要塞外での横流し市場“ヘルツ回廊”を仮指摘。なお火薬庫事故未遂の報に接す。『偶発的放水』の真相は憲兵側別途報告を待つ。ダリオ・グラーツ装備監の関与疑いは現段階で白。だが彼の管轄下に“灰色”が居る。」
最後の行に、監察局の符牒が押してあった。
この紙が公開される日は来ない。けれど、ここに刃がある。
ダリオが鼻で笑う。「胃袋の落書きは、胃袋の中で回しておけ」
ユリウスは視線を上げない。「——落書きは、水に濡れても残る」
沈黙を切ったのはヴァイス司令だった。
「三日だ。三日で“形”を出せ。倉庫の鍵管理線の洗い直し。兵站の巡回路の抜き打ち検査。憲兵は監査立会い。騎士団は調査の安全確保。……よいな」
“よいな”は命令の終止符。
誰も逆らえないはずだった。
ダリオがわざとらしく肩を竦めた。「剣は剣の仕事をする。胃袋の検査で手を止める気はない」
ロットムントが小声で付け足す。「……検査はやりますよ、司令。やれる範囲で」
やれる範囲。
それが一番危ない。刃は鈍く、胃袋は裂け目から漏れる。
◆
書庫の空気は、司令部よりさらに冷たかった。
石壁に並ぶ棚、亜麻布の背表紙。オットーが梯子に上がり、僕は下で受け取る。
帳簿の匂いは乾いた草と墨。手袋越しでも、紙の繊維が皮膚に伝わる。
「B列の鍵台帳、五年前から遡る」
オットーの声は落ち着いている。「鍵番号、鋳型の出庫記録、複製申請……全部引っ張る」
「はい」
一冊目。二冊目。三冊目。
文字列が波のように目に入ってくる。
——な……つ……き。
耳の奥の水は、今夜は黙っていない。
意味と音が重なり、字が“聞こえる”。
僕は一行ごとに意味を拾い、オットーに数字を読み上げる。
読み上げるたび、背中が薄く冷えていく。
読み上げるたび、何かを置いていく。
「……最後の複製申請、三ヶ月前。申請者“整備曹ヨハン”。承認者“兵站准尉ミェル”。発行印は司令部事務局」
「“事務局”の印影、拡大」
オットーが虫眼鏡を差し出す。
輪郭の一部が微かに欠けている。
——霜の日は、偽印が滲む。
トマの言葉が、遅れて脳裏に浮かぶ。
僕は指で印影の“欠け”をなぞった。紙面が冷たい。指先の皮が、また少し薄くなる。
「偽造の可能性」
オットーが短く言い、余白に符号を書きつける。
「ミェル准尉……」
言葉にした瞬間、めまいが襲ってきた。
棚が斜めに傾く。
紙の文字が波打ち、黒い線が白い泡に変わる。
「ナツキ!」
オットーの声が遠くなり、近くなる。
梯子の金属が鳴り、僕の肩が誰かの腕で支えられる。
呼吸をしろ――と、低い声が命じる。
ユリウスだ。いつの間にか扉の陰にいた。
「目を閉じるな。視線を一点に置け。……ほら、ここだ」
指先が視界の端で揺れ、僕はそこに焦点を合わせる。
耳の奥の水音が一拍引き、また満ちる。
冷たい波が、脳のどこかを撫で、何かをさらっていく。
小さな何か。
名前。
——駅名。
今朝は思い出せなかった“駅”の名が、完全に消えた。
ユリウスが腕を放し、僕は壁にもたれた。
「……問題ない。戻る」
自分で言って、自分の声が少し違って聞こえた。
オットーは僕の顔をじっと見、それから帳簿に視線を戻した。
「休め。俺が続ける。アニカ、麦湯を」
アニカが駆けていき、すぐ戻ってくる。
温かい。手を包む湯気が、痛みを鈍くしていく。
カップの縁に唇をつけたとき、廊下の向こうで甲冑の音が響いた。
冷たい鉄の笑い声と一緒に。
◆
書庫の扉が乱暴に開いた。
ダリオが二人の騎士を連れて入ってくる。
「鍵台帳を引き渡せ。調査は騎士団が預かる」
オットーが顔を上げずに言う。「命令書を」
「口頭で足りる」
「足りない」
ダリオの口角が上がる。「ならば、力で足りさせる」
騎士たちが一歩出る。
ユリウスは一歩、前に出た。
長い沈黙。そのあいだに、ユリウスは単語を三つだけ置いた。
「司令の許可状は」
「ない」
「監察局の閲覧証は」
「ない」
「なら、退け」
無駄のない対話。
ダリオは舌打ちをし、棚を乱暴に叩いた。埃が舞う。
「胃袋は今日も粘るな。……覚えておけよ、見習い」
最後の一言は、僕に向けられた。
彼の目には、憎悪ではなく、好奇があった。
この男は、僕の“何か”に気づき始めている。
ユリウスは彼らが出ていくまで視線を動かさなかった。扉が閉まる音が響いたあと、短く言う。
「別系統で副本を作る。……オットー、書式はお前に任せる」
「了解」
“副本”。
胃袋の字は、水で滲んでも残る。
この世界では、記録すること自体が抵抗だ。
◆
午後。医務棟の裏手――かつての貯水槽を改装した古い保管庫で、アニカが見つけた。
「ねえ、これ……古い地図、だと思う」
薄い布巻きを解くと、乾いた羊皮紙が現れた。端は欠け、墨は褪せている。けれど、線の網の目は生きていた。
要塞の下腹に、細い青の線がいくつも走っている。
水。
井戸。弁。伏流。
さっき開いた“どこか”へつながる管の位置。
右下の余白に、見覚えのある記号があった。
監視塔の壁に刻まれていた、水の文様――円の中の、短い波が三つ。
——監視するもの。
——観察者。
耳の奥で、声がひどく静かにささやく。
——契の印。
「ユリウス」
僕は呼んだ。
彼は図に手を伸ばし、指先で別の印を示した。
「ここにもある」
要塞外輪、南側の崖下。
「“ヘルツ回廊”の入口だ」
監察局別紙にあった地名。
僕の背中に冷たい汗が浮かんだ。
「つまり、横流しの市場は、この水の“出口”の近くにある」
オットーが言葉を継いだ。「物資は地上の門ではなく、地下の弁から“流出”している可能性」
アニカが指を折る。「鍵、偽印、市場、地下……全部つながってる」
「まだ“線”だ。点ではない」
ユリウスが図を巻き直し、布で包んだ。「……今夜、外で目を置く。騎士団はきっと動く」
「今夜?」
アニカの喉が鳴った。
ユリウスは頷く。「火薬庫の件で、胃袋が弁に触れたことは気に食わないはずだ。剣は剣を誇示する。見せる夜になる」
◆
日没。要塞の影が長く伸び、外輪の見張り線が暗く染まる。
外へ出る許可は、物資検分の名目で取れた。僕とオットーが外周の小門から出て、ユリウスは別ルートで先行。アニカは司令部連絡に残る。
崖の裾を回り込むと、風の音が変わった。
岩の間から、細い水音がする。
――ヘルツ回廊。
地図の印。
苔むした岩の裂け目に、鉄格子がはめ込まれている。金具は古く、錆の匂いが鼻についた。
格子の向こうに、暗い水面が見える。
水面が、こちらを見返した。
——ナツキ。
——名の断片。
喉がひとりでに鳴る。
呼ばれている。
僕は格子の隙間に指を伸ばしかけ、止めた。
オットーが肩を引いた。「今は見るだけ。記すだけ」
「……うん」
岩陰で待つ。
しばらくして、足音。
灯りを布で覆ったランタンの微かな光。
三人。灰色外套。肩章に“兵站”の縫い取り。その後ろに、見慣れた鋲打ちの革靴――騎士団の随伴一名。
彼らは迷いなく格子に近づき、合鍵を差し込んだ。
錠が音を立てない。油が新しい。
一人が荷袋を押し入れる。
袋は水面で一瞬浮き、やがて吸い込まれるように暗い流れに消えた。
「……見たか」
ユリウスの低いささやき。いつの間にか背後にいた。影が影の中から出てくる。
オットーが短く頷く。「三。兵站。随伴一」
「後ろ盾がいる」
ユリウスは小さく息を吐いた。「今、捕まえるべきではない。尻尾を切られる」
僕は歯を食いしばった。
今なら、ここで――
耳の奥で、水が摇れる。
——待て。
——流れを、変えろ。
声は、捕まえるなと言っているのではない。
流れを変えろ、と言っている。
「……弁」
僕が言うと、ユリウスの視線が一瞬だけ鋭く僕に走った。
オットーが地図を頭の中で広げるように眉を寄せる。「上流側の副弁は、監視塔下の壁内」
「開ければ逆流する」
ユリウスが小さく頷いた。「だが今はだめだ。見張りが増える」
彼は踵を返す。「今夜は“見た”。明日、胃袋の字にする。剣は、字を嫌う」
僕らは静かにその場を離れた。
風が岩を叩き、遠くで犬が吠える。
背筋に冷たい汗が緩やかに流れる。
格子の向こうの水面は、僕の背中をずっと見ていた。
◆
要塞へ戻る小門の前で、兵が駆け寄ってきた。
息が切れている。手には巻紙。
「ユリウス警視! 司令部より至急!」
ユリウスが受け取って封を割る。
紫ではない。赤。
司令の直押し。
短い文面。
――「帝都より緊急通達。憲兵隊付警視ユリウス・ハルトに対し、職務一時停止および事情聴取のための拘束を命ず。執行は装備監ダリオ・グラーツの指揮下で行う。」
室内のどこかで紙が裂けたような音がした。
オットーのペン先だ。
ユリウスは顔色を変えない。
ただ、その目の温度が一度だけ、氷点下に落ちた。
「……司令に会う」
彼は巻紙を折り、兵に返した。「“受領”と伝えろ。今、司令の許へ行く」
兵が駆け去る。
オットーが低く問う。「罠だ」
「わかっている」
「行くのか」
「行く。——俺がいなくても、胃袋の字は残る。お前たちが残せ」
ユリウスはそれだけ言って歩き出した。
僕は思わず前に出る。「ユリウス!」
彼は振り向かない。背中だけが、短く答えた。
「観察して学べ。いまは、それだけでいい」
石畳の上で、その背中が遠ざかる。
胸の奥で、水が騒いだ。
——名を、よこせ。
——まだ、半ば。
——流れを、変えろ。
僕は拳を握り、オットーを見た。
オットーは頷いた。「副本を仕上げる。アニカに司令部の動きを見させる。ナツキ、お前は——」
「監視塔の副弁へ行く。……今夜のうちに、“流れ”を作る」
口が勝手に言った。
体は寒いのに、喉の奥が熱い。
穴は増えるだろう。
でも、残すものもある。
要塞の鐘が、夜のはじまりを告げる。
布の重い影が塔の上を渡り、矢狭間の風が泣いた。
胃袋は凍てつき、剣は燃えたまま。
そのあいだで、僕は地下の水路の図と、耳の奥の“契の印”を握りしめる。
——契、半ば。
——次は、こちらの番だ。
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