9.


 お嬢様然とした白のブレザーは着ていない。スカジャンにミニスカート、髪を一つ結びにした、快活な少女の姿がそこにはあった。


 僕は彼女が近づく足音に、まったく気づけていなかった。自意識が、頭の中に集約されていたから。現実と夢想の境界線がわからない。彼女の存在が、どこかリアルに感じられなかった。

 僕が押し黙っていると、カオリがふにゃりと笑って手を挙げる。

「やっ、二日ぶりっ」

 あっけらかんとした口調で、彼女が言う。子どもがそのまま大きくなったような、無垢な表情を見せた。


 気ままな歩幅でこちらに歩み寄ったカオリが、しゃがみこんで、一匹の猫を優しく撫でる。

「今日は一人なんだね。君はにゃん太郎? それともにゃん次郎かな?」

 満悦そうに目を細めている猫を、彼女もまた慈しむように愛でている。カオリの存在が、彼女の持つ独自のペースが、この空間の意味をガラリと変えていった。ひとりぼっちの暗闇から、二人だけの夜中の世界へ。


「カオリ」

 すがるように声を出す。

「僕が誰だか、わかるのか」

 こちらを向いたカオリが、きょとんと不思議そうな顔を作った。

「何言ってるの?」

 笑えない冗談を、あえて笑い飛ばすように。

「ダイスケのこと、忘れるわけないじゃん」

 身体の内側を支配していた固形状の何かが、一気に溶け出していく。涙が出そうになった。実際、出ていたかもしれない。それくらい、ほんの数秒で僕の感情は大きく揺れ動いていた。


「よかった」

 心の底からの言葉をこぼす。カオリがくすっと、いたずらっぽく漏らした。

「一日会えなかっただけで、そんなに寂しかったの?」

 呆れたような声音。でも、面白がる風でもあった。

 立ち上がったカオリが、僕の隣に腰を掛ける。いつもより距離が近かった。その距離感が、僕の能動とリンクする。


「確かめたいことがあるんだ」と、気づけば口に出していた。

 カオリは何も言わず、代わりにじっと僕を見つめた。濁りのない瞳が、次の言葉を迂遠に催促していた。

「今日、夕方に君とそっくりな顔をしている女の子に会ったんだ。その子は、僕のことを知らないみたいだった」

 首だけを動かし、僕は彼女を見た。少しだけ緊張した。

「あれは、君だったの?」

 問われたカオリにリアクションはなく、やけに神妙な顔をしていた。そのコンマ一秒が、どうしようもなく僕を不安にさせる。


「違うよ」

 にへらと笑って。

「それは私じゃない。だって私は、夜の世界でしか生きられないから。夕方、街を出歩くなんてこと、ありえないよ」

 視線を落とした彼女が、身体の横に手をつき、ぷらぷらと所作なげに両足を振っている。そのまま空を見上げ、体温のある声を僕に届ける。

「安心して、私は決して、ダイスケのことを忘れたりしないから」

 陽光が全身に降り注いでいくように、僕の心は安寧に満たされていった。心音が緩やかなリズムを刻む。夕方に芽吹いた不安が、透明色に塗りつぶされていく。

 まるで魔法のように。


「そう、そっか」

 一抹の疑問には、気づかない振りをして。

「そうだよな。カオリが僕を忘れるはずない。夕方の彼女は、きっと他人の空似だったんだ」

 そう、自分に言い聞かせる。

「そうそう、他人の空似。よくある話」

「よく考えると、顔はそっくりだけど雰囲気は君と全然違っていた。イイトコのお嬢さんって感じで、大人っぽかったし」

「私が子どもっぽいってこと?」

「まぁ、それはそうかな」

「ひどい。相変わらず、ダイスケは正直だなぁ」

 茶番を愉しむように、カオリがふくれ面を披露する。僕もまたごめんごめんと、軽い口調で。

「でも、私も最初、ダイスケにひどいことを思ってたから、おあいこかな」

「ひどいこと?」

「最初見た時、ダイスケのこと、幽霊じゃないかって思ったの」

「えっ、何で?」

「そりゃあ、死んでる人みたいな顔をしていたから」

 笑いそうになる。

「ひどいな」

「だから、おあいこって最初に言ったじゃん。それに」

 出し抜けにカオリが立ち上がった。地面を踏む音と共に、彼女が振り返る。

「真夜中、誰もいない公園に現れるなんて、そう勘違いしてもおかしくないでしょ?」

 無防備に首を傾げ、カオリの声がたゆんだ。二人きりの空間で、僕の眼に映るのは彼女だけ。

 離したくないと、そう強く思った。

「ダイスケ?」

 不可解そうな声音で呼ばれ、ハッとなる。「ああ、ごめん」と返し、無防備に言葉を継いだ。

「でも、それを言ったらカオリも同じじゃないか。夜中の公園に一人、猫と遊んでいる女の子なんて、僕から見ても幽霊っぽいよ」

 おかしなことを言ったつもりはなかった。

 いつもの、空気をすくうように意味のない言葉のたわむれ。流れとしても、不自然ではなかったと思う。


 でもカオリは、はたと口をつぐんだ。

 さっきまでの無邪気が嘘のように、乾燥した顔つきでぼうっと僕を見ていた。

「ダイスケが」

 淡々と言って。

「本当に幽霊だったらいいのに」

 ぞんざいに、物を投げるような口調だった。

「……それは、どういう意味?」

 当然浮かんだ疑問符を、そのまま口に出す。しかし彼女の返事は、直接的な回答ではなかった。

「私、本当は、いちゃダメなんだ」


 輪郭のはっきりした声色が、脳の外側を打ち鳴らす。

「誰かと話したり、認知されたり、私は、そういうことが許されない存在なの」

 核心を、あえて迂回するような言い方だった。その言葉の意味を、真に理解することはできない。

 でもきっとカオリは、彼女に根幹にかかわる何かを、内側に押し隠してきた何かを、そっと僕に見せようとしている。それだけはわかった。

 わずかに間が空く。その一瞬は、僕に様々な思考と選択肢を与えた。でも、答えを見つけ出すには短すぎる時間だった。


「なんてね」すべてをなかったことにするように、カオリが気の抜けた声を。

「もし私がそんなこと言ったら、ダイスケはどうする?」

 口元をたゆませる。いつもの屈託ない笑い方とは違い、無理に表情を作ってるように見えた。

 その顔が痛々しく映り、僕は無性にやるせなくなる。

「どうもしないよ」

 だから、すぐに言った。

「日付が変わる夜中の0時に、毎日この公園に来て、カオリを待つ。雨が降ろうが、槍が降ろうが、僕がやることは変わらない」

 出所のわからない焦りが、僕の口をせき立てていた。

「君の存在が何だろうが、関係ない」

 さきほどから一歩も動いてないはずのカオリが、少し遠くに感じる。まるで、透明の板で遮られているかのように、彼女に近づける気がしない。

「そう、そうだよね」

 地面を見つめているカオリが、たぶん、僕ではなく自分自身に向かって言う。

「ダイスケはきっとそう言ってくれる。そう思ったから私、訊いたんだ」

 垂れたテキストが液状と化し、僕の足元を浸食していく。

「ちょっとずるかったな。でも、ありがとう」

 カオリがゆっくりと面を上げた。やけに晴れ晴れしいその顔が、街灯の光にほのかに照らされる。薄ぼんやりした輪郭が、目に映る景色をうやむやにしていた。

 朝と夜中。その境目で、カオリの半身が溺れている。

「その言葉さえあれば、私はきっともう、大丈夫だ」


 何が、何が大丈夫なんだ。

 お願いだから、自己完結しないでくれよ。

 ――それでも、口に出さなきゃわかんねーよ。

 ショウタ、その通りだ。口に出さなきゃ何も伝わらない。それは、逆もそう。

 何か言ってくれなきゃ、こっちは何もわからない。


「カオリ」

 いよいよ、その名を呼んで。

 透明な壁に向かって、手を伸ばして。

「君は一体――」

 何者なんだ?


「ダイスケ」

 あまりにも、唐突だった。

「バイバイ」

 カオリの目から、涙が溢れる。

 あの時と同じ。あの公園で、あの人も僕の目の前で泣いていた。

 涙の理由はわからない。今も、あの時も。

 だから僕は知っていた。

 その理由を知らずに彼女を離したら、僕はきっと後悔する。この先ずっと、その理由を探しつづけるだろう。

 踵を返したカオリが、脱兎のごとく駆け出す。「カオリ!」その名を強く呼び、僕もまた全力で彼女を追った。――追おうとした。

 つま先が地面に引っ掛かり、僕は派手に転倒する。すぐに身を起こしたけど、彼女の背後ろはすでに小さくなっていた。

「カオリ!」今一度叫ぶ。転がるように足を動かし、園内を出た。カオリが曲がり角に消える姿を視認し、慌てて追う。しかし、僕がそこに到着した時には、すでに彼女の存在を見失っていた。一車線の道路から、路地が無数に伸びている。どこに行ったのか、もうわからない。それでも僕はひたすらに走った。街中を無我夢中で駆け回り、カオリの姿を探した。


 気づけば周囲が明るくなっている。紺色に覆われた景色が僕に、タイムリミットを告げた。立ち止まり、一度膝に手を突くと、もう駄目だった。荒い呼吸を繰り返す以外の行為を、僕の身体は許さない。

 無力さに打ちひしがれる。でも現実世界は進行していく。

 僕は予感していた。そして、その予感は当たった。




 翌日、同じ時間に公園を訪れる。カオリは現れなかった。雨は降っていない。

 その翌日も同じだった。夜明けまで待っても、カオリは来ない。その更に翌日も、翌々日も。

 ――私、本当は、いちゃダメなんだ。

 何度も思い出す、カオリの言葉を。

 ――誰かと話したり、認知されたり、私は、そういうことが許されない存在なの。

「なんだよそれ」

 当然、返事は返って来ない。この、暗がりに包まれた夜中の世界には、僕しかいないから。

 なんで、何も教えてくれなかったんだ。

 なんで、僕は訊こうとしなかったんだ。

 後悔と疑問の混ざり合ったものが、脳内を無意味に循環していく。

 ……後悔?

 それをする権利が自分にあるのかも、僕はわからなかった。

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