6.
九月も下旬に差し掛かると、猛暑が鳴りを潜めはじめる。窓の外では、曇天がうっすらと夕方の街を覆っていた。長袖の内側に纏う湿気を少しだけ気にしながら、僕は頬杖をつき、スマホでライブカメラ映像を眺めていた。
授業前、いつもの如く開始五分前にショウタが「よお」と教室に現れる。
埃っぽい匂いがツンと鼻孔を刺激した。顔を上げてショウタの顔を見ると、鼻の先に泥っぽい汚れがついていた。
日中は建築業で働いているらしいショウタは、仕事終わりが遅くなった時は作業服のまま授業に参加することもある。普段は家に一度帰りシャワーを浴びてから来ている、と言っていた気がするので、今日はその時間がなかったのだろう。
「おはよう。仕事、今日もギリギリだったの?」
そう訊くと、ショウタが意外そうな顔で「えっ?」と返した。
「鼻になんかついているから」
「うわっ、マジかよ」
言うなり、ごしごしと乱暴に鼻をこすった彼が、僕に必要以上に顔を近づけ、「取れたか?」と確認してきた。僕は少しだけ身を引きながら、「うん、取れた」と返す。
「サンキュ」姿勢を戻したショウタが、そのままつづけた。
「仕事自体は時間通りに終わったんだけどさ、着替えてる時に話の長い先輩に捕まってよ。出るのが遅くなっちまった。他人のガキの自慢話なんざ、どうでもいーっつーんだよ。ったく」
露骨な嘆息を吐くショウタを眺めながら、僕はハハッと乾いた笑みを漏らし、「そりゃ、大変だったね」、何気なく返す。
するとショウタが怪訝な表情を作り、窺うように僕の顔を覗き込んできた。
「な、何?」
「ダイスケ。お前、何かあっただろ?」
「……えっ?」
何故だかばつの悪さを覚えた。僕は思わず目を逸らす。
「別に、何もないよ」
「そんなはずねぇ。ってかお前、本当にダイスケか?」
「何言ってんの。そうに決まってるだろ」
「いーや、おかしい」
ショウタが大げさに手を広げて。
「俺の知ってるダイスケは、愛想笑いなんてしない。俺の鼻に汚れがついていることをわざわざ教えたりもしない。っつかそもそも、自分から俺に話しかけることなんざ、今まで一回もなかったんだよ」
「ひどい言われようだな」
しかし、自分でも否定の余地がなかった。
「それだけじゃねぇ。お前、今まで俺の話をろくに聞いてる風じゃなかったのに、最近、ここ二週間くらいか? たまにリアクション返すようになったし、なんていうか……人らしくなった?」
心の内をはがされていくような心地が、なんだか落ち着かない。何より、彼が指摘する自分の変化に、僕自身が気づいていなかった。
「お前……やばい宗教入ったりしてないよな?」
「はぁっ?」
「俺の同級生に一人いるんだよ。いきなり連絡を寄越したかと思えば、口調やら表情がまるっきり別人になってて、いかにもキナ臭い話持ち込んできて」
「ちょ、ちょっと待って」
ショウタの言葉を、慌てて遮る。
「そういうの、一切ないから。大丈夫だから」
必死に言うも、まだ少し疑ってる風のショウタだったが、「そうか? まぁ、だったらいいけど」と一応引き下がってくれたようだ。妙なやり取りにどっと疲れを覚える。
僕が油断しきったそのタイミング。ショウタが、冗談めいた口調で言った。
「だったら、女でもできたか?」
そのワードに、僕は明確に反応してしまった。すぐに否定せず、「えっ?」と、リアクションを取ってしまった。
「なーんて、お前に限って――」
言いかけた言葉を吞みこみ、ショウタが素の顔を見せる。
「えっ、マジなの?」
「ち、違うよ。そんなワケないだろ」
一呼吸遅れてそう返すも、もう遅かった。
「じゃあ、今の間は何だよ」
ニヤニヤと、好奇心にまみれた顔を見せつけられ、僕は心底うんざりしている。
「おいおいおい、何がどう転んだらそういう話になるんだよ。まさか、ナンパでもしたのか?」
「だから違うって、できるわけないだろ」
「ああ、あれか、最近はやりの、マッチングアプリとか」
「違うってば、しつこいな」
苛つきを抑えずに語気を強めるも、ショウタは遠慮の気配を見せない。ほとほと困り果てた矢先、ようやく先生が教室に入ってきてくれた。
「ほら、もう授業はじまるんだから前向けよ」
その言葉に、さすがのショウタも渋々口を閉じ、前を向く。しかしすぐ、首だけをこちらに向けて言った。
「授業終わったら、詳しい話を聞かせろよ。今日こそラーメンな」
「だから、ラーメン屋は長居できないから行かないってば」
「だったら、ファミレスでラーメンを頼めばいいじゃねぇか」
そんなの屁理屈だろ。そう返す前にショウタは前を向き直してしまった。行き場の失ったわだかまりを、僕は嘆息に変えた。
ショウタは、出会った当初から慣れ慣れしかった。
「マジで? ダイスケも高校やり直してるクチなの? 今十八歳? なんだよ、タメじゃねぇか。仲良くやろーぜ」
同い年という共通点を糸口に、入学したその日から、ショウタは僕に話しかけるようになった。人付き合いを嫌悪している僕は、人をあしらうことに躊躇がない。塩対応に徹していればすぐに飽きて離れていくだろう、と思っていたけど、意外にもショウタは僕に絡むのを辞めなかった。
ショウタは僕と話すとき、僕の顔ではなく、目をしっかり見る。
まるで普通の人のように、僕のことを扱う。
交流を重ねていく内に、彼に対する評価が変わっていった。気づけば僕は、あえて突き放すような態度を取らなくなっていた。
変な奴だな。ただそう思って、ショウタの存在が僕の生活に取り込まれるのを享受した。
「じゃあ、洗いざらい話してもらおうか」
駅近くのファミリーレストラン。対面に座っているショウタが口火を切る。テーブルの端には、空になった味噌ラーメンのどんぶりが二つ並んでいた。
この期に及んで僕は迷っていた。カオリの存在を、彼に話していいものかどうか。
カオリとはあの日以来、毎日あの公園で会っていた。彼女はいつも、午前一時を過ぎたあたりにやってきて、日が昇る前に帰っていく。
公園の外に出ようとは、どちらも言い出さなかった。カオリに誘われるままに公園の遊具で遊ぶこともあれば、ベンチで他愛ない会話をしたり、互いに何も言わず、静寂を享受する日もあった。
僕は、僕とカオリの関係性を呼称する、適切な言葉を見つけられない。
恋人、友達、知人。その、どれにも当てはまらない。
だから、そもそも人に説明すること自体が難しいし、僕自身、彼女との関係を一つの言葉でカテゴライズしたくなかった。
「ちなみに、別に、恋人ができたとかではないから」
「あっ? そうなの?」
ようやく僕が口を開くと、ショウタが、拍子抜けしたような口調で返す。
「じゃあ、誰かに惚れたとか?」
「……惚れたっていうか」
もしも、ショウタがただの好奇心だけでこの話題に固執しているのであれば、僕は躊躇なく一蹴していた。けど、きっとそうじゃない。野次馬心もあるだろうけど、彼は純粋に僕を心配しているんだと思う。ようは、お節介焼きなのだ。
――そいつのこと、無下にしてやるなよ。
タドコロさんの言葉を思い出し、僕はいよいよ言った。
「夜中に、公園で女の子に会ったんだけど」
「……夜中? 公園?」
予想外の話出しだったからか、ショウタが意外そうな顔を作る。僕は一つずつ丁寧に説明した。
僕が毎夜、朝方まで夜中の街を自転車で走っていること、公園でカオリに会ったこと。その日を境に、カオリと会うようになったこと。
最初は僕の話に相槌を打っていたショウタだったが、次第に口をつぐみ、何も言わなくなった。僕が話を終えると、彼は黙ったままソファの背もたれにゆっくりと背を預け、ぼーっと天井を見上げはじめる。
「なぁ」言葉を選ぶように。
「なんか、変じゃないか? その子。カオリちゃん、だっけ」
少し、胸がざわついた。
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