運動場
有川は運動場を走っていた。
理由はなかった。ただ、胸の奥に溜まった何かを振り払いたくて、体を動かしたかった。
秋の風が頬を撫でる。空は高く澄み、遠くで野球部の掛け声が響いている。
部活は今日は自主練。好きなことをしていいと言われている。
そんなとき、有川は決まって走る。走ることで、考えすぎる頭を空っぽにできるからだ。
その途中、背後から野球のボールが有川めがけて飛んできた。
速くない球だったので、反射的に片手でキャッチする。
振り返ると、投げた相手が悔しそうな顔をしていた。
「香奈枝先輩?」
「有川、今すぐあたしとキャッチボールしなさい」
「は、はあ?」
「いい?」
「いいですけど……ちょっと待ってくださいね」
苦笑しながら、ベンチに置いてあるタオルで汗をぬぐい、ドリンクをひと口。
神埼は柔軟をしている。足を伸ばし、肩を回しながら、どこか落ち着かない様子だった。
有川はその横に歩み寄る。
「もういいの?」
「いいですよ。お誘いありがとうございます。で、どうしたんですか?」
神埼がグローブを投げてよこす。
それを受け取り、手にはめる。革の感触が、少しだけ気持ちを引き締める。
「あんたにちょっと、言いたいことと確認したいことがあって、ね」
ゆるい球が投げられる。
受け取って、投げ返す。
ボールの軌道はまっすぐで、どこか神埼の気持ちのようだった。
「昨日会った女の子、覚えてる?」
「死者は生かしちゃダメって言ってた、不思議な子?」
「そう、それ」
ばしん、とグローブが球を受け止める音が響く。
その音が、二人の間の沈黙を切り裂いた。
「あたしの家にも“死者を生かすな”って文が届いたって言ったでしょ。それでね、考えたの」
「死者が誰かって?」
有川はボールを投げ返しながら、苦笑する。
神埼の顔は真剣だった。目の奥に、何かを探るような光が宿っている。
すると神埼は、剛速球を投げてきた。
有川は驚きながらも、それを受け止める。
手のひらに響く衝撃が、神埼の感情の強さを物語っていた。
「死者ってさ、あたしの知り合いなんじゃないかって思ってて。まあ、直感なんだけどね」
「それで?」
「死んだ人がいるなら、この間の地震の時だと思う。だから、探したの」
遠くでは他の部活の掛け声が響いている。
夕方が近づき、空は少しずつ橙色に染まり始めていた。
二人は少し離れた場所でキャッチボールをしているので、誰にも邪魔されない。
神埼の声が、少し硬くなる。
「あたしが死者じゃないなら、絶対に撮ってるはずだから」
何を、とは有川は聞かなかった。
何を、とは神埼も言わなかった。
その沈黙が、かえって重く響く。
風が二人の間を吹き抜ける。
落ち葉が舞い、地面に静かに降り積もる。
「写真は思い出。だから、どんなことでも写真に残すようにしてる。楽しいことも、苦しいことも、悲しいことも。絶対に残す」
「それが香奈枝先輩です」
「うん」
有川の言葉に頷きながら、神埼は鼻をすする。
グローブでこすったせいか、土が鼻についてしまっている。
その姿が、少しだけ幼く見えた。
「あたし、死者が誰かわかった」
有川は何も言わず、ボールを投げた。
ボールが行き交う。
二人とも、黙ったまま。
その沈黙が、言葉よりも多くを語っていた。
そして数分後――
「っはー! あーー!! よし、うん、やれるぞあたし!」
「香奈枝先輩?」
気合いとともに、もう一度剛速球を投げる神埼。
頬を叩き、気持ちを奮い立たせる。
有川は、狙いが少し外れた球を受け取るために身をひねり、目を丸くする。
「有川聡、よく聞け。あたしはあんたが好きだ!」
「……へ?」
「あたしは、あんたが好きだ! わかったか!」
仁王立ちで、堂々と宣言する。
その姿は、泣きそうなほど真剣だった。
突然の告白に、有川は間抜けな顔をして固まっていた。だが、神埼の顔を見て、態度を急変させる。
神埼が泣いていた。慰めようと近づくが、神埼の言葉がその動きを止める。
「バカやろう」
憎らしげに吐き出された言葉に有川は苦笑する。
やはり、なぜとは問わない。
「告白してすぐバカはないでしょう、香奈枝先輩」
「バカ、やろう!」
泣きながら、グローブ越しに有川の胸を殴る神埼。
その拳には、怒りよりも悲しみがこもっていた。
有川は抱きしめることも、言い返すこともせず、ただ立ち尽くしていた。
神埼の手から、写真が落ちる。
「なんで……っ!」
写真の中で、がれきに埋もれた人。血だらけで、それでも穏やかな顔をしたその人を、久住が抱きしめて泣いている。
その写真を撮ったのは、神埼だ。
震える手で、泣きながら、それでもシャッターを切ったのだろう。
死者は今、笑っているのだろうか。
「なんででしょうかね」
有川の言葉が、運動場にやけに大きく響いた。
夕暮れの空が、静かにその言葉を包み込むように、色を深めていった。
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